いつものように大学の授業が終わってから、病院に顔を出した太郎。犬の着ぐるみを着て、待合室にいる子どもの患者と戯れつつ、絵を描いたり相手をしてくれるお陰で、楽しそうな子どもたちの笑い声が、診察室まで聞こえてくる。
最近それが当たり前の日常になっていて、俺も一緒に働いている看護師たちも、笑顔で仕事をすることができた。
病院を閉める十分前の午後4時50分頃、今日は患者さんが少なかったので、延長することもなく病院を閉める。
一日の緊張感を癒すように、診察室の椅子の上で伸びをしていると――。
「太郎ちゃん、その格好じゃ危ないから、脱いで上ってくれない?」
「大丈夫ですって。箱の中身は脱脂綿でしょ? 大きくても軽いから、バランスを崩すこともないだろうし。ほらね」
ベテラン看護師の村上さんと太郎のやり取りが、耳に入ってきた。なにやら太郎が、危なげなことをしているみたいだな。
「年長者の言うことを、どうして素直に聞かないのかね、あのバカ犬は……」
若者特有の無鉄砲ぶりというべきか、怖いもの知らずというか。俺が心配するキモチも、少しは考えてほしいよ。
よいしょっと掛け声をかけて椅子から腰を上げ、声のする物置へ歩いていくと、着ぐるみを着たままの太郎が脚立の上で、大きな箱を元に戻そうとしているところだった。
中身が軽い脱脂綿だからって、バランスがとり難いような大きな箱を持っているのにも関わらず、足元がぶかぶかの着ぐるみ状態じゃ、どう見たって危ない!
内心憤慨しながら声をかけずに、じいっと行方を見守ってみる。降りてきたら注意をしてやるぞと思っていたら、箱を定位置にしっかりと置いて、勢いよくこっちに振り向く太郎。
「は……?」
口をぽかんと開けたまま、なぜか体勢をぐらりと崩して、いきなり倒れてきた。
「バッ!?」
(――バカ犬っ!)
落ちてくるであろう体を受け止めるべく、慌てて抱きかかえたのだが、耳元でゴツンという、イヤな音が聞こえた。運悪く着ぐるみの頭の部分を外していたため、床に強打させてしまったらしい。
「くそっ! おい太郎、大丈夫か? しっかりしろ」
守ってやれなかったことに胸を痛めながら、外傷がないか手早くチェックしていく。俺がクッションになったとはいえ、頭を強打したせいだろうか。グッタリしたまま意識がなかった。
「目立った外傷はないようだな。む、後頭部にコブができてる……」
頭をまさぐってみると血は出ていないが、大きなコブの感触を手のひらが捉えた。
「太郎! 大丈夫か?」
「太郎ちゃん、私がわかる!?」
頭を打ったあとなので変に刺激を与えるわけにもいかず、ゆえに揺することもできない。村上さんと一緒に声をかけながら頬をぱしぱし叩き、意識をチェックしてみる。
「うぅん……あ……?」
太郎はぼんやりしながら目を開き、俺たちの顔を見てくれた。
「良かったわ。太郎ちゃん、頭は痛くない?」
無事に意識を取り戻した姿にふたりして、ほっと胸を撫で下ろしたときだった。
「……アンタたち、誰? 太郎って誰のことだよ」
「え――!?」
「俺には立派な名前があるっていうのに、なんでそんな変な名前で呼ぶんだ?」
太郎の言葉に、村上さんと顔を見合わせてしまう。
「おまえの名前はなんだ?」
「おにーさん、そんなに知りたいの? 俺のこと」
俺が訊ねると、へらっと笑いかけながら答えた。
「……村上さん救急車の手配よろしく。頭部のMRIの準備をするようにって」
らしくない太郎の様子に異変を感じた俺は、迷うことなく救急車を呼んだ。
村上さんが電話をしている間、頭を振りながら自力で起き上がった太郎に、思いきって話しかけてみる。
「おまえは俺のことを覚えていないのか?」
「なに、言ってんの。新手のナンパとか?」
「ナンパなら、おまえからされてるよ。残念ながら恋人同士なんだ」
事実を突きつけてやるとビックリした顔をして、穴が開きそうなくらい俺の顔をじっと見つめた。
「マジかよ。こんなキレイなお医者さんが俺の恋人って。俺のどこが良くて付き合ってんだ?」
「っ……バカなところと、面倒くさい……とこ」
忘れられていることにショックを受けて、泣きだしそうになった。口元を押さえ必死に堪えていると、俺の右目尻にそっと手を伸ばしてきた太郎。
「泣くなよ。まるで俺が泣かせたみたいじゃん」
そういえばコイツに、初めて逢ったときも言われたっけ。
『そんな寂しそうな顔して、泣かないで?』
ホント、手のかかる恋人だ――なのに無性に優しくて。その優しさが胸に沁みてしまう。
思わず歩の体に、ぎゅっと抱きついてしまった。俺のせいで、記憶の一部が失われてしまうなんて……。
大事な恋人を守れなかった医者の自分は残念ながら、どうしていいかわからなかった。