突然だがあなたはトシュクーケンを知っているだろうか。
徒手空拳、と漢字をあてると「ああ」と納得する人も多いと思う。
古来、大陸より伝播した武術のことだ。
一切の武具を用いずに己の身体のみで戦うスタイルは、何かにつけて特典だとかポイントだとかオプションだとかを余計に付け足してしまいがちな現代において、実にいさぎよくて清々しく感じる。
ステキだ。
社会人になって以来、私は身体じゅうに余分な脂肪をたっぷりつけて、心には日々の鬱屈やストレスをどっさり溜め込み、心身ともに汚れ切っていた。ひどく疲れていた。
そんな折に、トシュクーケンと出会ったのだ。
シンプルだが奥深く、ときどきお茶目なところもあるこの武道に、私はすっかり惚れ込み、週末は欠かさず道場に通うようになった。
一人でも多くの人に、トシュクーケンの素晴らしさを広めたい。そんな思いで、こうして筆をとった次第である。
さて、武道は「礼に始まり礼に終わる」と言うが、トシュクーケンもその例外ではない。
とりわけ重視されるのは、やはり
トシュクーケンは服装の規定がないから基本的にラフな服装で行うものだが、それでもTシャツの裾がまくれていたり靴下に穴が空いていたりすると「キミさあ、シュタンゲン足りてないよ」とたしなめられる。
身だしなみはもちろん、言葉遣いにも気を付けなければイケない。
トシュクーケン道場において、返事は必ず「ヤ―」である。イエスだろうとノーだろうと「ヤ―」と言う。また、心の底からの同意を示すときは「クーヘン!」と言う。語源はよくわからないけど「素晴らしい!」くらいの意味なのではないかと思っている。
「シュタンゲン引き締めてけ!」
「ヤ―!」
「でも今日は暑いしやる気も出ないから、ほどほどに切り上げてビールでも飲みに行くか!」
「クーヘン!クーヘン!」
道場におけるやり取りはだいたいこんな感じだ。
今までの経験上、何か目標がなければ続かないモノであるから、私は初日にこう決めた。
トシュクーケンの奥義、シュトーレンを必ずや会得しよう、と。
シュトーレンとはすなわち手刀連、トシュクーケン独特の脱力しきった構えから繰り出される、目にも止まらぬ手刀の連撃のことである。
シュトーレンを受けた者は三歩と歩まぬうちに胃痙攣を起こし、顔色が赤を超えて紅蓮の域に達し、煉獄の炎に焼かれるような苦しみを味わうという。ついでに翌月くらいに失恋したりもするそうだ。
過去には高校球児がスタメンを外された恨みから、腹いせに監督とその場にいた教師にシュトーレンを喰らわせ、結果として部活全体が高野連から重い処分を受けたという事件もあったらしい。
私は別に誰かにシュトーレンをお見舞いしてやろうなどとは思わないが、奥義というのは憧れる。是非とも会得してやろうと思っている。
しかしもちろん、ソレは一朝一夕に会得できるものではない。
毎日シュタンゲンをわきまえつつ、厳しい修行を積まねばならぬ。
修行というのは肉体や技巧の鍛錬もそうだし、精神的な修練も欠かせない。
トシュクーケンにおいては、「技の重さはクローネに比例する」と言われる。
クローネとはすなわち苦労根。ツラい思いをすればするほど、心にクローネがどっしりと根を張り、精神の大樹がすくすくと成長するのである。こうして心技体を鍛え上げたトシュクーケンの使い手は、ちょっと引くくらい本当に強いのだ。
でもツラい思いを一人で溜め込んでしまうのもイケない。
鬱々と心に蓄積されたクローネは、やがてマクローネンとなってあなたを蝕むからだ。
路上にガムを吐き捨てたり信号を無視したり、飲食店の「営業中」の札を勝手に裏返したり。
過去には禁術とされるヌストルテを自力で会得し、各地のドラッグストアで化粧品の窃盗を繰り返した者もいたという。盗取手。要は悪質な万引きだ。
そんなことにはならないように、マクローネン化には気を付けてクローネを広げていきたいものである。
ちなみにトシュクーケンの大会では、優勝の記念品として巨大なバウムクーヘンが贈られる。優勝者はソレにかぶりつき、「クーヘン!」と叫ぶのが恒例となっているらしい。
大型トラックのタイヤほどもあるバウムクーヘンは、なかなか大したモノだと思う。コレを食べることを目標にトシュクーケン修行に励むのもイイのではないか。
ところで大会優勝とは関係なく、トシュクーケンの道場にはドイツ菓子が大量に常備されている。聞くところによると、師範はドイツ菓子職人もやっているらしいのだ。
シュネーバル、グーゲルフプフ、シュトレン、キプフェル、ココスマクローネン、キルシュトルテ、グリュックスクーヘン…。聞き慣れないようでどこかで聞いたような名前ばかりだがどれも美味しくて、食べ始めると止まらない。
最近は修行のためと言うより、ハッキリ言うと休憩時間のお菓子を目的に道場に通っている。おかげで一年前の入門以降、私の体重は増えるばかりである。
いずれにせよトシュクーケンは素晴らしいものだと思う。
皆さまもぜひ、始めてみませんか。