拝啓、皆々様。如何お過ごしでしょうか?
僕は人生最悪の瞬間を迎えております。
春の陽気は過ぎ去り、桜色の雲が新緑に移り変わった現在。地方から単身大学へと進学して一ヶ月程が過ぎました。
思ったよりも変わらない日常で、拍子抜けしております。
朝から大学へ行き、夕方には一度帰宅してからバイトへ向かう日々。飲食店のバイトは忙しくはありますが、騒がしい現場は悪い気はしません。
個人の店なので賄いを夕飯にする事も出来て食費面で大変助かっています。
帰宅後はシャワーを浴びて眠るまでの間、本を読んだり配信を見たりして過ごしている。
そんな、何処にでもいる勉強できそうな眼鏡モブ大学生が僕です。
恋人はいません。いた事がありません。そもそも僕という人間は少々情緒面が未熟で、現実の女性に対し免疫もなければ夢も見ません。おそらく固まります。
それでもまったく困らないのが近年だと思います。
本もゲームも好きなオタク気質なので、理想はそちらに求めました。
そんな僕は現在、チャラそうな男性に腕を絡ませられて何やら騒動に巻き込まれています。
「だから、俺はこの子と付き合うから君とは付き合えないんだ」
明るい茶の髪をボブくらいにした、見た目のキラキラした男性が僕の腕を捕まえてそんな事を言う。正直、初耳なのだが。
「そんなの明らかに嘘じゃん!」
綺麗な格好をした見目のいい女性がヒステリックに叫ぶ。ごもっともです。
何故こうなったのか? それは僕が聞きたい。
何も変わらない日常だった。一限の授業に出て、二限はなし。三限にはまた講義があるからと、空いた時間で予習を行おうと図書館へ向かう最中の事だ。
欲しい資料が本館ではなく新館にあるようなので一度外に出てそちらへ向かう、その最中突然後ろから腕を掴まれ引かれた僕はそこで初めてこの男性を見た。
見た目に華やかで、うんざりするほど女性にモテそうだというのが第一印象。背も僕より頭一つは大きい。
そんな人が僕の腕を掴んで抱き込んだかと思えば、上記の台詞を宣うのだ。僕にどう状況を掴めと?
まぁ、様子から痴情のもつれであることは確かなようだけれど。
「嘘じゃないよ」
「だって男だし! そもそも名前知ってるの?」
「……太郎君?」
残念、
それにしても、もう少しマシな名前は出てこなかったのだろうか。それとも僕が太郎顔だった? そんな男性らしい名前が似合う外見ではないと思うのだけれど……まぁ、モブとしてはある意味正解かもしれない。
そんな事を思っている間にも、女性のほうは更に興奮してヒステリックに喚く。
そうして僕を睨む目が暗く淀み、憎しみも恨みも籠もっているようで驚いた。ただの通行人Aに向けていいものじゃない。それなりに可愛い顔をしているのに、これでは台無しだ。
不意に、僕の腕を掴む手に力がこもってそちらを見て……震えている事に気づいた。顔色も青ざめているように思える。
「ごめん、巻き込んで。でも俺、本当にこの子とは何もないんだ。今だけ助けて」
ギュッと抱き寄せ、近付いて僕にしか聞こえないくらいの小さな声で囁かれて……そんなことを聞いたら見捨てるのも寝覚めが悪い。
それに囁いた声、隠そうとしても震えているように聞こえた。
ふっと溜息をつく。仕方が無い、これも何かの縁なのだろう。少なくとも僕の目には、このヒステリックな女性の方が危険に見える。このまま知らん振りをしたら、この男性は知らない所でもっと酷いトラブルに巻き込まれるかもしれない。
そんな所まで責任を負う必要もないけれど、少なくとも「あの時少しでも手を貸していれば」なんてタラレバな後悔はしたくない。
僕は正面の女性を真っ直ぐに見た。
「ご紹介に預かりました太郎です。確かにこの方とお付き合いしております」
「はぁ?」
剣呑な目をする女性の迫力は凄いなと、今更知った。般若は元は女性だというのも納得の様相である。
そして名も知らない男性まで僕を驚きの目で見る。いや、貴方が助けてと言ったんですよ? その顔止めてもらえますかね?
「何言ってんのよアンタ。明らかに通りかかっただけのモブじゃない!」
「モブ顔は否定いたしませんが、それを改めて指摘されるのは些か不愉快です」
「そういう事言ってんじゃないの!」
「貴方こそ、少し落ち着いて話をしてください。彼が怯えます」
「彼氏面すんな!」
「お付き合いをするので彼氏になると思うのですが」
興奮覚めやらぬ女性は既に可愛いと形象しがたい状態になっている。整えたのだろう髪は乱れているし、濃いめの化粧のせいで余計に表情はキツいし。怒鳴っているから息も荒いし。
この様子を周囲の人達も遠巻きに見ている。噂する様子も見て取れるけれど、目の前で喚き散らすので正直小さい声は聞こえてこない。
「彰! アンタ本当にこのモブと付き合ってんの!」
「え! 勿論だよ!」
「パッとしないオタク眼鏡なんて彰に似合わないじゃん! 私の方が可愛いし胸も大きいし夜だって満足させてあげられるんだから!」
どさくさに紛れて猥談はいかがなものか。貞淑であれとは言わないけれど、場所などを考えてもらいたい。
まぁ、総じて頭悪そうだな……が、僕の感想だったりする。
そして人の事を見た目だけで判断してディスるのは、こちらとしても腹が立つ。
僕は男性へと向き直り、首に腕を回す。そうして引き寄せながら唇を重ねた。
「きゃぁ!」
「マジか!」
「えぇぇ!」
周囲からの動揺も激しく、キスされた男性は目をぱちくりしている。
けれど巻き込まれたのは僕だ。この女性を追い払いたいが為に最初に交際しているという嘘をついたのもこの人だ。それならこれは迷惑料のようなものだろう。
向き直ると、女性は爛々と目を光らせたまま睨み付けている。明らかに敵意がある。
「これで、証明できましたか?」
言った僕に向かい、女性はもの凄く足早に近付きながら大きく右手を振り上げる。
あっ、これはやらかしたな……と思うのと、左頬が焼けるように痛く眼鏡が反動で吹っ飛んだのはほぼ同時だった。
「消えろカス!」
唾を飛ばしながら罵倒して、女性はズンズンと足を踏みならすように雑踏の中に……紛れませんね。モーゼのように人が彼女の為に道を空けます。関わりたくないでしょう、こんなの。
僕も息をついて落ちた眼鏡を拾った。ちょっとフレームが歪んでいる。どんな力で叩いたんだよ。口の中も少し切ったかも。美味しくない味がする。
「あの!」
「はい?」
振り向くと男性がこちらを申し訳無く見ている。そして突然、僕の手を握った。
「ごめん、巻き込んで。あの、この後時間大丈夫? お礼したい」
「あ……」
スマホを見たら三限が始まって久しい。今から行ってもちょっと悪目立ちする。
男性は真剣で、申し訳無い様子でいる。これ以上関わるのも面倒そうではあるけれど、今日はもう授業もないし、変に目立ってしまった。あと、眼鏡直したい。
「わかりました」
「ありがとう! 俺、三年の
「……宜しくお願いします」
何故か握手を交わして、ほっとした様子で微笑む人を見ている。
こうして僕はこの厄介な人、加納先輩と出会ったのだった。
敬具。