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第37話

 渡はソファに座ってまぶたを閉じていた。ゆっくりと目を開き、安堵の吐息をつく。

「見つけた、智乃の物語」

 パソコンを操作していた東風谷が手を止め、何も言わずに彼を見る。

「全部、思い出した」

「成功したんだね」

「ああ」

 背もたれに預けていた上半身を起こし、渡は軽く座り直した。

 いつか智乃に聞かされた物語が渡の中にある。主人公や取り巻く周囲の人々の設定までも、はっきりと思い出せる。――本来なら、姉さんが取り戻すはずだった。

 にじむような痛みが胸にわき、渡はため息でごまかす。すると、どこからか姉の声が聞こえた気がした。

「頑張ったね、渡。ありがとう」

「姉さん……っ」

 はっと顔を上げた渡だが、どこにも彼女の姿はない。幻聴だろうかと考え、すぐに気持ちを切り替えた。

「純人、そっちはどうなってる?」

 たずねながら立ち上がり、東風谷の横からパソコンの画面を見る。

「少し前からエラーになってるから、破裂したのは確実だと思う」

 表示された画面には赤文字でエラーと記されている。しかし、実感がわかない。

「本当に破裂したの?」

「したはずだよ。検索もできないし、過去の情報も読み込めない」

 東風谷が困った顔で渡を見上げた。

「なのに、何がどう変わったのか、ちっとも分からない」

 渡は腕を組んで考え込む。

「うーん、そうだよな。記憶は混濁してないし、世界が崩壊する様子もない」

「リセットだってされてない」

「……これはこれで不安になるな」

 二人は沈黙し、微妙な空気が室内を支配する。

 やがて東風谷が明るく言った。

「ま、とりあえず成功したんだ。コンビニで酒でも買って、お祝いしようじゃないか」

 渡はじっと東風谷を見下ろしてから、にやりと口角を上げた。

「いいね」

「だろ? 日南さんたちとは、また今度集まった時にあらためてお祝いしてさ」

 言いながら東風谷が立ち上がる。

「ひとまず僕たちだけで、か。それじゃあ酒の肴に、智乃の物語を聞かせよう」

 と、渡は組んでいた腕をほどき、歩き始めた。

 その後をついていきながら東風谷は返す。

「それは嬉しいね。俺、智乃ちゃんとはあんまり話したことなかったし」

「純人が協力してくれたのは、姉さんと付き合ってたからだもんな」

「いや、付き合ってたのかなぁ? 微妙な関係だったと今では思うよ」

 苦笑する東風谷へ渡は首を振った。

「少なくとも姉さんは君のこと、好きだったよ」

「マジか……」

 複雑な表情でつぶやき、東風谷は少しの間、その場に立ち尽くした。

 渡が先に玄関へ行ってしまい、声をかける。

「酒、買いに行くんでしょ。置いてくよ」

 はっとして東風谷は歩き出した。「ごめんごめん、置いてかないで」と、いつものように冗談めかして言った後、目尻に小さく涙が浮かんだ。


「これはいったい何事だ!?」

 虚構世界管理部へやって来るなり、嵯峨野局長は声を荒らげた。職員たちは一斉に作業の手を止め、その場の空気が一瞬にして張り詰める。

 緊急招集した部下たちに指示を出していた川辺は、慌てて嵯峨野の前へ駆けつけた。

「どこもエラーになっており、アカシックレコードの情報が取得できない状態です」

「そんなことを言ってるんじゃない。これだ!」

 と、嵯峨野がデバイスの画面を川辺へと突きつける。表示されているのは何者かに送られてきた、作家と編集者の物語だ。

「これは『幕開け人』の仕業じゃないのか!?」

「おそらくそうでしょう」

 冷静に返してから、川辺は嵯峨野の目を見た。

「ですが、今は状況を把握することが優先です」

「ふざけるな! これでは他国から責められてしまう! 国からもだ!」

 一瞬、絶望的な表情をしたかと思うと、嵯峨野は再び怒りをあらわにした。

「アカシックレコードはどうなってる!?」

「ですから、調査中です」

「早くしろ!」

 彼の怒声に職員たちが怯えや嫌悪の冷めた目を向ける。

 川辺はそんな部下たちの様子を見て、毅然と嵯峨野へ言い返した。

「落ち着いてください、局長。アカシックレコードが破裂したとしても、何も変わってないじゃないですか」

「なっ」

「今後の調査結果によっては、何か失われたものがあるかもしれません。ですが、世界が変わらず続いていくのであれば、アカシックレコードの破裂など些細な問題だったのでは?」

 嵯峨野が言葉を失い、川辺は強く言った。

「この場はお引き取りください。明朝、報告に上がりますので」

「くっ……」

 しぶしぶと嵯峨野が引き下がり、廊下へと出ていく。扉が閉まったところで川辺は部下たちの方を振り返る。

「今夜は徹夜になりそうだ。全員無理せず、交代しながら調査を続けてくれ」


 世界の新生が落ち着きを見せ始めた頃、日南梓は西園寺を連れて外へ出た。

 景色を見ていた北野が振り返り、にこりと微笑む。

「みんな、取り戻せたって。計画は大成功だよ」

 日南は彼女の隣へ並びながら言った。

「あっという間に街ができてやがる……すごいな、想像の力ってのは」

「うん。でも、これでわたしたち『幕開け人』の仕事は終わり」

 と、北野は寂しそうにうつむいた。

 西園寺は辺りを好奇心旺盛に見て回っている。少し怖いのか、近づきすぎないようにしているのが、何とも彼らしい。

「弟は何も言ってなかったのか?」

「特には、何も……」

 目的が達成されてしまった今、北野響はどこにも行き場のない中途半端な存在になろうとしていた。それを彼女自身、よく分かっていて不安なようだ。

 ふいに日南は妙な強迫感に襲われた。

「やばい、帰らなきゃ」

 こちらへ戻ってこようとしていた西園寺も立ち止まって叫ぶ。

「俺も会社行かなきゃ!」

「えっ、会社ってどこ? 帰るって……」

 泣き出しそうな表情でうろたえる北野だが、日南はその手を取った。

「お前も帰るんだよ」

「え?」

「オレたちの家に」

 日南は見えない力に背中を押されて駆け出した。西園寺は別の方向へ走り出しており、北野が戸惑った様子でたずねる。

「待ってよ、日南さん。わたし、あなたたちの物語には――」

「作者がお前を必要としてるの、感じねぇか? お前はヒロインなんだよ」

 北野がはっと息を呑むのが聞こえた。そして引かれるままだった彼女の手が、自分からぎゅっと日南の手を握る。

「わたし、まだ役があったんだ」

「ああ、オレたちの新しい物語が始まろうとしてる」

 もうじき見慣れたマンションが見えてくるはずだ。作家兼探偵の日南が、ヒロインと暮らす始まりの場所が。

「ありがとう、日南さん」

 少し涙声になりながら北野が言い、日南も返した。

「まったく粋なことをしてくれるよな、オレたちの作者はよ」

 これからどんな物語が始まるのか、楽しみでたまらなかった。新しくヒロインの加わった「理不尽探偵」は、きっと以前よりもおもしろいに違いない。


(終)

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