北野は日南から視線を外すようにして、辺りをゆっくりと歩き始めた。
「作者がもう一度想像すれば戻るけど、そもそも作者の頭の中からも消えちゃうから、完全に消えちゃったら難しいんだ。だからこそ、そうなる前にわたしたちが介入しなくちゃならない」
悲しみをこらえるような横顔に日南は質問を重ねる。
「介入できても、その後に消される可能性もあるよな?」
「うん、あるね。『幕引き人』たちはわたしたちより圧倒的に数が多い。だからこそ、今は協力者を集めなくちゃいけないの」
「そうだな。オレたちだけじゃ勝ち目ないもんな」
日南はふと振り返って二〇一号室を見上げた。まだ月野が帰って来る様子はなかった。
しかし、それから何分待っても変化はなかった。月野どころか、誰一人として姿を見せない。アパートの前を人が通ることもなければ、車や自転車すら見えなかった。
「……日南さん、次に行こうか」
「ああ、かまわねぇが」
「何だかわたし、嫌な予感がしてきた」
北野が焦っているような暗い表情で言い、日南は息をつく。
「たまたまどこかに出かけてるだけかもしれないだろ」
「でも、ここは静かすぎるよ。日南さんが言ってたとおり、なんか変だよ」
彼女の言いたいことは言葉にせずとも分かった。日南の胸にもまた、嫌な予感めいたものが生じ始めていた。
二人が次に訪れたのは高円寺だった。経年を感じさせる塀に設置された「青葉荘」という看板からはボロアパートを連想させるが、リフォームでもしたのだろう、建物は比較的綺麗だった。
「ここに住んでるのは
アパートの廊下を右手へ進み、中程にある扉の前に立つ。
「一〇四、鈴木……今度は会えるといいんだけど」
不安そうにつぶやいてから北野はチャイムを押す。
反応はなかった。扉越しに室内へ耳を澄ませるが、人がいる気配は感じられない。
北野は日南と顔を見合わせてから、もう一度チャイムを押した。
日南はこらえきれずにため息をつく。どうやら鈴木颯太も留守にしているようだ。
「昼間だからかな」
と、北野が言い訳をするような口調でつぶやき、日南は周囲を観察する。
先ほどの桜木ハイツと同様に、他の部屋だけでなく、アパートの隣近所すらも静けさに包まれている。
「どうしよう……でも、どうして……」
不安から混乱する北野へ日南は冷静に返した。
「もう一軒だけ行ってみよう。そこでも会えなかったら、今度こそ考えるんだ。いいな?」
「うん、分かった」
北野がうなずくのを見てから、日南は歩き出した。嫌な予感は胸の中で着々と育ちつつあった。
三件目は渋谷のタワーマンションだった。
オートロックのため、建物の入口でインターホンのボタンを押して、相手を呼び出さなければならないのだが。
「ダメだ、反応がない」
北野がとうとう泣き出しそうな顔をし、日南も弱ってしまった。
「こんだけでかいマンションなのに、人がいねぇもんな。やっぱり変だ」
ここもまた先の二軒と同じで静かだった。
「……でも、どういうことなんだろう?」
北野は近くの壁へ背中をつけた。
「せっかく教えてもらった作家たちが、みんないないなんて……」
「だけどゆらいではいない。ってことは、作家たちが消されたってわけではなさそうだな」
「うん、そうかもしれない。だからこそおかしいんだけど」
日南は顎に手をやって少しの間考え込む。
「情報が漏れた、ってことはないか?」
「え?」
「裏サイトで集めたって言ったよな。その裏サイトがあっちにバレて、作家たちがどこかに連れ去られたんじゃないか?」
顔を上げた北野がはっとする。
「そんな、でも……」
「三軒行って誰もいねぇんだ。先回りされてるとしか思えない」
日南が言いきると、北野はぎゅっと口を閉ざしてから言った。
「分かった。一度、現実世界に戻ってみる。日南さんは自分の部屋で待ってて」
そして彼女は駆け出し、自動扉を通って外へ出て行った。
執務室で嵯峨野は安堵の息をついた。椅子の背もたれに体を預け、束の間目を伏せる。
「ついに『幕開け人』の正体が分かったか」
「至急、解析を進めています。うまくいけば、芋づる式に情報が出てくるものと思われます」
常に難しい顔をしている川辺部長も、この時ばかりは幾分か和らいだ表情をしていた。
ようやくつかんだ敵の尻尾だ。終幕管理局にとって大きく前進した瞬間だった。
嵯峨野はそんな川辺の顔を見て、ふと目を細めた。
「墓場はどうなっている? 計画は順調か?」
「もちろんです」
川辺がしっかりとうなずき、嵯峨野も満足気に口角をつり上げる。
「それならいいのだが、彼には感謝しないとな」
組織に有益な一歩をもたらしてくれた人物への感謝の念が、自然と言葉になって出ていた。
自宅へまっすぐ帰宅した日南梓は、パソコンチェアに腰かけて考え込んでいた。
おそらく作家たちは終幕管理局により、どこかに監禁されているに違いない。どうにかしてその場所を突き止められないだろうか。
静寂の中、ひたすらに頭を働かせる。ダイニングキッチンにあるアナログ時計の秒針の立てる音までが、聞こえるほどの静けさだった。
デスクに置いたスマートフォンがふいに鳴り出した。手を伸ばしながら画面を見ると、西園寺からだった。
すぐに日南はボタンを押してスマートフォンを耳にあてる。相手の声が聞こえる前にたずねた。
「結論は出たか?」
「ああ、いや……まだなんだ。でも、日南の意見を聞きたくて」
西園寺の返答に少しがっかりしつつ、日南は言う。
「意見も何もねぇよ。オレは『幕開け人』として、仕事をまっとうするまでだ」
「そうか。日南はあいかわらず、芯がぶれないな」
彼の苦笑いが目に見えるようだった。
元々ミーハー気質なせいだろう、西園寺は昔から、自我の強い日南に憧れているような節がある。
このまま話をしていても、西園寺はきっとまだ結論を出せない。彼との長い付き合いからそう思い、ふと日南はひらめく。
「そういや、お前、編集者だったな?」
「ああ、そうだけど」
と、西園寺がどこか怪訝に返す。日南は思いきって頼んでみた。
「お前の知ってる作家たちに連絡を取ってみてくれないか? もしかすると、つながらない可能性がある」