「それで、さっきはどうしたの? 青白い顔してたけど」
と、北野に問いかけられて、日南は力なく返した。
「動画で消えたはずの人間を見た。消えたはずなのに存在してたんだ」
「ああ……ってことは、たぶんその人は『幕引き人』だね」
日南は彼女へ視線を向けた。
「その『幕引き人』って何なんだ? どうやってこの世界に来てるんだ?」
「わたしもあんまりよく分からないんだけど、想像の世界っていうのは、寝ている時に見る夢の世界と同じなんだって。それで、夢の中に入るのと同じやり方で入ってきてる」
「お前もか?」
「うん。ただし合法じゃないよ」
日南は彼女が『幕引き人』ひいては終幕管理局に対抗しようとしていることを思い出す。いわば反社会的勢力に属しているのだろう。
「どうやって夢の中に入るんだ?」
電気ケトルが湯のわいたのを知らせた。日南は立ち上がって、棚からマグカップを二つ取り出す。
「どう説明したらいいかなぁ」
北野が考えている間に、日南は箱から個包装されたティーバッグを取り出して、一つずつカップに入れてから湯を注いだ。
その一つを北野の前へ置いてから、日南は小皿を棚から出してテーブルの真ん中へ置く。
マグカップの中の紅茶をながめながら、北野はゆっくりと語り始めた。
「現実世界の人間が生きているのは主に三次元なんだけど、夢の世界はもうちょっと上にあるらしいんだ。それで、特殊な装置を使って強制的に次元を引き上げることで、中へ入ることができるようになるんだけど」
「よく分からねぇな」
「うーん……わたしも難しいことは分からないんだ。ただ、誰でもできるわけではなくて、向き不向きがあるみたい」
日南は紅茶の赤が濃くなっていくのを見ながら返した。
「何だってそうだろ。小説を書くのだって向き不向きがある」
北野は視線を上げて日南を見ると、くすりと笑った。
「そうだね。わたしには書けないもん、小説」
そしてティーバッグの紐の先についたタグを手に取り、ゆっくりと引き上げた。北野がそれを小皿の上へ置くと、甘くやわらかな香りがふわりと二人の間を漂う。
少し遅れて日南もティーバッグを取り出した。
黙ってそれぞれに紅茶をすする。かすかな甘みが心地よくのどを通っていく。普段はコーヒーばかり飲んでいるため、日南は新鮮に感じた。
そっとマグカップをテーブルに置き、北野は気分を変えるように言う。
「依頼人を取り戻したいんだったね。さっそく『幕開け人』の仕事、教えようか」
「いいのか? そっちの計画とかはないのか?」
「うん、大丈夫。これまでは様子を見ていただけだし、動くならそろそろかなと思っていたから」
言いながらも彼女の表情はどこか暗く、日南は昨夜の西園寺との通話を思い出した。何か嫌な予感がする――。
しかし、はっきりと口に出すわけにもいかず、日南は黙ってマグカップに口をつけた。
外に出て何気なく道を歩く。どこへ向かうかも決めておらず、散歩をするかのように、ただ二人並んで歩調を合わせる。
「アカシックレコードはね、検索することもできるんだ」
さわやかな初夏の風が日南の頬を撫でる。
「インターネットみたいにか?」
「そう。ただ地球人には分からない言語で記録されているから、それを読み解けないとダメなんだけどね」
日南はアカシックレコードがいったいどのような仕組みで成り立っているのか、少しだけ気になった。宇宙の膨大な記憶と情報の集積地がデータベースのように検索可能だという事実は、作家でもある彼にとって興味深い話だった。
「読み解ける人って、どれくらいいるんだ?」
「うーん、そんなに多くないみたい。でも、勉強すれば誰でも読めるようにはなるらしいよ」
「じゃあ、方法はすでに確立されてるんだな」
「そうだね。どこかの国が、アカシックレコードに記録されているすべてを解き明かそうとしてるっていう話なんかもある」
「解き明かしてどうするんだ?」
日南の問いに北野はちらりと視線を向ける。
「歴史的大事件の裏にどんな事情があったか、真実を知ることができる」
すぐに理解して日南はにやりと口角をつり上げた。
「知られていない事実があれば、歴史的大発見ってわけだ」
「そういうこと」
北野は満足げにうなずき、住宅街の中にぽつんと置かれた小さな公園を指さした。
「ベンチに座って話そう。ちょっと疲れちゃった」
「ああ」
小さな砂場とすべり台が設置されているだけの狭い公園だ。遊んでいる子どもはおらず、ひっそりとしていて寂しい。
ベンチに並んで腰かけたところで彼女が口を開く。
「くわしいことは言えないけど、わたしたちは常にアカシックレコードの中を監視してる。それで見つけたのがあなただったの」
「見つけた?」
「うん。物語の枠を飛び出したあなたに、わたしは興味がわいたんだ」
日南の心臓がにわかに高鳴る。
「おそらく『幕引き人』たちは、あなたの存在にまだ気づいていない。だから先に接触して、あなたがどんな行動を取るか見ていた」
「そうだったのか」
「わたしたちが外から得られた情報は、あなたの物語に『理不尽探偵』というタイトルが付けられていることと、登場人物の大まかな設定だけ。実際にどんな物語があったのかまでは分からなかった。というより、そこまで解読する前にわたしがこっちに来ちゃった」
「急いでたのか?」
「ううん、そうじゃない。けど、あなたならきっと力になってくれる。そんな予感がしたから、早くあなたに会わなきゃって思ったの」
日南はしばらく黙っていたが、うつむき加減になっていた顔を上げた。
「オレはまだ、お前がどういうやつなのか知らない。年齢や職業に学歴、性格だってまだつかみきれてないし、何が好きなのかも知らない」
「ああ、そうだね。年齢は二十三歳。最終学歴は短大卒で、性格は自分で言うのもあれだけど、優しくてマイペースかな。好きなものは紅茶とお菓子と物語」
彼女はすっかり警戒心を解いた様子だ。どこか楽しそうにそう話した。
「物語、か」
日南は彼女がどうして「幕開け人」になったのか、分かったような気がした。
すると北野はいたずらっぽい笑みを日南へ向けた。
「日南さんのことはだいたい知ってるよ。二十六歳で身長は百七十八センチ、体重六十四キロ。私立大学卒業後は在学中からやっていたフリーライター業で細々とやってきて、二十五歳の時に新人賞を受賞。執筆業と並行して探偵業もやっていて、口はちょっと悪いけど根は真面目で少し
そこまで言われてしまったら日南は苦笑するしかない。
「よく知ってるな」
彼が呆れ気味に言うと、北野はさも当然といった様子で微笑みながら返した。
「見てきたからね。でも、これからの日南さんのことは知らない」
北野は跳ねるように立ち上がった。
「よし、行こう」
「マジでマイペースだな」
文句を言いつつ日南も腰を上げ、歩き出した彼女を追った。