帰宅した途端に疲労感を覚え、日南は早々に就寝することにした。シャワーは明日の朝に回して寝間着に着替える。
脱いだ服を洗濯機に放り込んでから部屋へ戻ると、タイミングよくスマートフォンが鳴った。
手にとってみれば西園寺からの電話だ。
少々訝しく思いつつ、日南はボタンを押して通話に出た。
「どうした?」
「ああ、悪いな。あの後、北野さんとどうなった?」
「どうって、特に何もねぇけど」
日南はそう返しながらベッドに腰かける。
すると西園寺は黙り込み、日南は何も言わずに待った。
調子のいい友人がこうして黙り込むのは、言いたいことがあって言葉を選んでいる時だ。待っていれば、必ず話し出してくれるのを日南は知っていた。
西園寺はやがてため息をついた。
「ごめん。なんて言うかさ、俺もいろいろ考えたんだ」
「うん」
「この世界が物語ってことは、オカルト的に言えばシミュレーション仮説みたいなもんなのかなって。俺たちは自分のことを人間だと信じて疑わなかったけど、実際はシミュレートの中の住人だったって言い換えてもいいわけだろ?」
彼の口調にはいつものような元気がない。いくらオカルトが好きとは言え、多少なりともショックを受けたのだろう。
「で、俺たちはそのことにまったく気づかなかった。まあ、目の前にあるものこそが現実であり真実だって、何故か無条件に信じちゃうからな。北野さんみたいな、外から来た人間と出会わない限り、ずっと気づかないままだったよ」
「そうだな。彼女と出会えたのは幸運かもしれない」
意外なことに西園寺は日南の言葉を否定した。
「いや、俺は不幸だと思う」
「何でだ? 世界の真実にたどり着けたんだぞ」
日南がわざとオカルトっぽい単語を口にすると、西園寺はまたため息をつく。
「知らない方がよかったんじゃないかって、そんな気がしてならないんだ」
日南はうつむいた。
「たしかにそういうことはあるよ。知らないままでいた方がいいことなんて、いっぱいある。けど、お前らしくないぞ」
「……そうだな。でも日南、どうか気をつけてほしい。何だか嫌な予感がする」
西園寺には霊感などない。ただのオカルト好きな一般人だ。しかし、日南は長年の友人として、彼の言葉を無視することはできなかった。
「分かった。一応、注意しておく」
「うん。こんな時間にすまなかったな。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
通話が切られ、日南は少し暗い気持ちになりながらスマートフォンを枕元へ置いた。
翌朝、日南は朝食の前にシャワーを浴びた。いつもの食パンをトーストにし、いつものインスタントコーヒーで眠気を吹き飛ばす。
それからパソコンへ向かおうとしてはっとした。
「二作目は永遠に完成しないんだった」
日南が小説を書けないでいるのは、作者がそこまでしか想像していないせいだ。
何だか気が抜けてしまい、日南はとりあえず椅子に座った。パソコンを起動させてスキルマーケットサイトを開く。
「やっぱり消えたままか」
依頼人の痕跡は今日も無し。それだけを確認して、すぐにパソコンの電源を切った。
スマートフォンで北野へメッセージを送ってから、あてもなく外出する。
日南が住むのは練馬区旭丘だ。最寄りは西武池袋線の江古田駅で、少し歩けば都営地下鉄の新江古田駅もある。
大型の商業施設はないが、駅前には商店街がある。比較的静かな街だったが、日南は気に入っていた。
駅前を通り過ぎて古本屋にでも向かおうと、道を曲がった時だった。向こうからどこかで見たような顔が歩いてくる。二十代の女性で、知り合いだったかどうかまでははっきりしないものの、近づくほどに既視感が強まる。
やはりどこかで見た覚えがある。
確信とも言えるほど強く感じながら、日南は女性とすれ違った。数歩進んだところで唐突に思い出し、足を止めて振り返る。
「そうだ……」
先ほどの女性を日南は動画で見た。人が突然消える動画だ。たしかにあの女性は動画の中で姿を消していた。
それが今、存在している。
いったいどういうことかと考え、頭がこんがらがりそうになる。すると聞き覚えのある声に呼ばれた。
「おはよう、日南さん」
はっとして視線を向ければ、すぐ横に北野がいた。
「うわっ」
「そんなに驚かなくてもいいじゃん。それとも、何かあった?」
北野が不思議そうに日南を見上げてくる。
「ああ、いや……えっと」
どう話したらいいものかと迷い、ふと人目を気にした。
「オレの部屋で話そう」
「日南さんの部屋? まあ、いいけど」
さっそく日南は歩き出した。動画の中で見た女性の姿はもう見えなくなっていた。
「へぇ、男性の部屋ってこんな感じなんだ。
北野は部屋に入るなり感想を漏らした。1DKの小さな部屋だ。奥が仕事部屋兼寝室になっており、ダイニングキッチンには必要最低限のものが置かれているばかりだ。
日南はどう返そうかと考え、友人の言葉を借りることにした。
「西園寺が言うには
「へぇ、細かいってこと?」
「さあな」
どういうニュアンスで几帳面だと評したのか、西園寺に聞いてみなければ実際のところは分からない。
「とりあえず座ってくれ」
と、ダイニングテーブルの椅子を引いてやり、日南はたずねる。
「何か飲むか?」
「何があるの?」
「コーヒーと、まあ、牛乳くらいしか」
「紅茶はないの?」
「ねぇよ、そんなもん」
と、苦笑いを返しつつ日南はキッチンに立ち、棚の奥を漁った。いつか編集者からもらったティーバッグの紅茶があるのを思い出したからだ。
「いや、あったわ。たぶん賞味期限切れてるけど」
言いながら箱を取り出して見せると、北野は黙って微笑むだけだった。
「何だよ」
「うーん、この世界に賞味期限ってあるのかなぁって思って」
言われて初めて意識した。日南はすぐに壁にかけているカレンダーへ視線を向ける。
「今日は二〇二二年五月二十日、金曜日」
「その紅茶、いつの?」
「えーと、だいぶ前だったはずなんだけど……いや、違うな。二月だったかも」
口から出た言葉に我ながら驚き、日南は立ち尽くす。
「うん、まだ三ヶ月しか経ってないね」
北野は複雑な表情で小さく笑った。
日南の体感と実際の月日の流れがまるで噛み合っていない。
それどころか、季節感すら意識していなかったことに、日南は気がついた。いつもの流れでいつもの服を着ていただけで、自分の周りの季節が止まっていることに、これまでちっとも気づかなかったのだ。
今さら怖いように思われて、日南は紅茶の箱をテーブルへ置いた。コーヒーを飲むのに使っている電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
ほとんど使っていない向かいの椅子を引いて、無言で腰を下ろした。