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第9話

 平日の夜にもかかわらず、店内はそこそこ賑わっていた。

 三人の間を雑音が通り過ぎ、北野はグラスに入った水をいくらか飲んでから口を開いた。

「あのね、あなたたちがいるこの世界は、物語の中なんだ」

 日南は無言でまばたきを繰り返し、西園寺も黙って首をかしげた。

「わたしの世界では、物語の墓場と呼ばれてる。つまり、寄せ集め。たくさんの忘れ去られた物語たちが、渾然こんぜん一体となってこの世界を形作ってるの」

 そう言われても日南にはちっとも分からない。

 西園寺が少々難しい顔をしながら聞き返す。

「物語の中って言ったよな? ということは、俺たちには作者がいるのか?」

「うん、いるよ」

 北野が肯定し、日南の胸の奥がざわめいた。物語、作者……小説家である日南からすれば馴染みのあるワードだが、それが自身に降りかかっている。

「でもここは物語の墓場だから、あなたたちの作者はあなたたちのことなんてもう忘れてる。想像するだけ想像して終わったんだよ」

 無性に苛立ち、日南は右の拳をぎゅっと握る。

 自分という存在はただの想像だったのか。実体のない存在だったというのか。そう考えると、胸の奥に怒りが込み上げる。これまで自分が抱えてきた苦悩や、目指してきた目標、そして出会ってきた人たちのこともすべて、物語の一部でしかないなんて思いたくなかった。

 北野は日南の様子を気にしながらも続けた。

「もちろん、完結まで描かれてる物語もあったと思う。でも、本になることも、世間に出ることもなく埋もれて、作者にさえ忘れられた物語もたくさんある。そうした、価値のない物語がこの世界であって、あなたたちはその登場人物なんだ」

 無意識に日南は口を動かしていた。

「ふざけんな」

 低く怒気を含んだ言葉に、北野も、隣にいた西園寺も驚いたように彼を見つめる。日南は止まらなかった。

「物語とか、価値がないとか、作者に忘れられたとか! んなわけねぇだろ!?」

 慌てたように西園寺が日南の肩へ手を置いた。

「落ち着け、日南」

 しかし落ち着けるわけがない。日南は息を荒くしながら北野へ言う。

「だったら証明してみせろよ! ここが作り物の世界だって、証明しろ!」

 物語を紡ぐ一人として許しがたかった。

 たしかに日南もたくさんの物語を没にしたり、途中で書けなくなって投げ出した。だが、自分がそうした価値のない物語の中にいるなど、何があっても信じられるわけがない。

 北野は動揺することもなく、落ち着いた声で説明した。

「日南さん、いつまで経っても小説の執筆が進まないでしょう? それは作者がそこまでしか想像しなかったからだよ。日南さんの作家デビューまでは作者が想像した。兼業で探偵をやってることも作者が決めた。でも、日南さんの二作目は永遠に出来上がらないんだよ。作者がその先を想像せずに忘れてしまったから」

 頭の奥が激しく痛んだ。心臓がやたらと鼓動を速め、日南はこれまでの日々を思い出す。何日経っても執筆が進まず、編集者からの連絡もいつからか絶えていた。そう、のだ。

 気づいてしまった事実に日南はうろたえる。

「ち、違う……違う、そんなわけが」

「受け入れられないよね。日南さんは特に現実主義者だから、こんなこと言われても理解できるわけがないんだ。わたしはそう知ってたから、もう少し待とうと思ってたんだよ」

 北野の言葉が責めるように聞こえて、日南はその場で頭を抱えた。

 西園寺はその背中をなだめるように撫でてやりながら言う。

「そうだよなぁ。考えてみれば、ずっと同じ毎日の繰り返しなんだ。昨日になって日南から連絡が入ったから、つい嬉しくなっちゃったんだけど、もしかしたらあれも……」

「ううん、それは違うはず」

「え? 作者が想像したことじゃないのか?」

 西園寺が驚いて北野を見る。

「大量失踪事件が起きてから、世界は騒然としてるでしょう? いろんな物語が混乱して干渉し合った結果、日南さんの物語が一人歩きを始めちゃったんだと思う。言い換えると、あるはずのない物語が生まれたってこと」

「じゃあ、今の俺も?」

 たずねる西園寺へ北野はうなずいた。

「うん。日南さんが決まりきった物語の枠を飛び出したことで、西園寺さんも引っ張られるようにして枠から出てる。だから、今のあなたたちには自由意志があると考えてもらっていいよ」

 はっとして日南は顔を上げた。

「自由意志? じゃあ、オレは……」

「でも、現実に存在する人間とは違う。あなたの考えや行動、台詞はすべて作者が決めた設定の上に成り立ってる。それをくつがえすことはできないし、できるとしたら新しく想像してもらわなくちゃならない」

 日南は絶望した。小説家だからこそ理解わかる。設定に縛られた登場人物の窮屈きゅうくつさ、物語という限られた世界における言動の狭さ。物語によって許されないことはいくつもあるし、シリアスかコメディかで許容範囲は大きく変わる。

 その渦中に自分がいるとは、やはりどうしても信じられなかった。否、信じたくなかった。

「それでね、ここからが大事なんだ。現実世界では今、物語を消して回っている人たちがいるの」

 北野も緊張しているのか、グラスの水を飲み干した。テーブルへ戻す時に少しだけ音が鳴った。細く白い手が小刻みに震えていた。

「終幕管理局っていう組織で、実際に物語を消すのは『幕引き人』って呼ばれてる」

「どうして物語を消すんだ? 何か理由があるんだろう?」

 西園寺の質問に北野はうなずく。

「もちろんあるよ。現実世界では、アカシックレコードが破裂寸前なの」

 その名前くらいは日南だって耳にしたことがある。

 西園寺が目を輝かせた。

「アカシックレコードが実在するのか?」

「うん、あるよ」

 肯定する北野だったが、徐々にうつむき加減になる。

「ただし、その実態は一つの惑星なんだ。宇宙の中に点々と設置された記憶デバイスであって、地球を含む天の川銀河のアカシックレコードが破裂しそうになってるの」

 目を丸くしながら西園寺はたずねた。

「破裂ってことは無限じゃなかったのか?」

「うん、昔は無限だと思われてた。でも研究が進むうちに、容量が決まっていることが分かってね。人間が想像したことも残らず記憶してしまうから、価値のない想像、つまり物語を消すようになったの」

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