帰宅するとまだ夕方だった。小説の執筆をしなければと思い立ち、日南は椅子に座ってパソコンを起動させる。
いつものように文書作成ソフトを立ち上げたところで、北野の言葉が脳裏に蘇る。
「現実っていったい何だと思う? どうして現実であると証明することができるか、知ってる?」
分かるわけがない。日南は文学部の史学科だった。哲学の講義もあるにはあったが、興味がなかったので受けていない。
そもそも現実であることを証明しようというのがおかしい。現実は現実でしかない。睡眠中に見る夢とは別物だ、ということくらいしか日南には言えない。
しかし北野はこうも言った。
「残酷だけど、現実だと思ってるのは自分だけなんだよ。みんなそう。勝手に現実だと思い込んで、信じてる。そうじゃない可能性っていうのを誰も考えない」
当たり前だ。だってこれが、今目の前に広がっているものこそが現実だ。そうじゃないなんて、いったい誰が考え、信じるだろうか? むしろそんな考えを持つ者がいるとすれば、それこそオカルトでしかない。
いや、もしかすると北野は、これが現実ではないことを知っているのではないか。だからあんなことを言えたのではないだろうか。
探偵としての推理力が活発に働き、日南は一つの結論を導き出す。
「あいつは……北野はたぶん、この世界の人間じゃない」
オカルトでスピリチュアルで馬鹿げている。自分で結論しておきながら、日南はあまりの阿呆らしさに泣きたくなってきた。
背もたれに体を預けて天を仰ぎ、長いため息を吐き出す。
「ああ、くそ。もうやってられねぇ」
そうだ、やめてしまおう。もうこれ以上、調べるのは終わりにしよう。そうすれば、もう二度と北野と会うことはないだろう。あんな変な女とこれ以上関わり合いになるのはごめんだ。
日南は姿勢を戻すと、すぐにスキルマーケットサイトを開いた。
依頼人の七篠洋子へこれまでの調査結果を報告し、自分には無理でしたと謝罪する。報酬金は半額で結構ですと伝えて終わりにする。それでいい。
しかし、依頼人とやりとりしたはずのメッセージが消えていた。
「は?」
目を丸くしてあちこちクリックしてみるが、やはり依頼人との取り引きが丸ごと消えてなくなっている。まるで初めから何もなかったかのように
慌ててメモ帳を取り出し、依頼人の電話番号を探す。スマートフォンを手に取り、電話を入れてみた。すぐに呼び出し音が鳴ってほっとしたが、相手は一向に通話に出ない。
長いこと待ってみたが、やはり依頼人が出ることはなかった。
少し間を置いてかけ直してもみたが、結果は変わらない。依頼人は通話に出なかった。
「何で……」
あきらめて電話を切り、日南は呆然とスマートフォンを見下ろす。
もしかすると依頼人も消えてしまったのかもしれないと、脳裏でもう一人の自分がささやく。西園寺が話していたようになかったことにされて、記憶もそのうちに薄れていくのではないか、と。
焦燥に駆られ、日南は現時点で覚えている限りのことを文書作成ソフトに書き込んだ。依頼人の名前、住所、依頼内容。捜索する娘の名前、通っている高校、外見の情報や恋人、兄、幼馴染から聞いた話もすべて打ち込む。
しっかりとデータを保存して、念のためにコピーも作っておく。これなら消えることはないだろうし、忘れても思い出すことができるはずだ。
しかし、何故だか焦る気持ちはおさまらない。もちろん執筆が進んでいないからではない。世界的な異常事態に、自分が本格的に巻き込まれていることを自覚したからだ。
無性に誰かに助けてもらいたい気持ちになり、日南は再びスマートフォンを手に取った。
西園寺に連絡をしようとして、ふと考え直す。北野からのメッセージを開き、文章を打っていく。
「簡単には信じられないし、すぐに受け入れることもたぶんできない。でも、お前の知ってることを一つ残らず教えてほしい」
送信して深く息を吐いた。無意識に手に力を入れていたようで、指を動かすと少し痛んだ。
返信は数分後にやってきた。
「いいよ。どこで落ち合う?」
日南は彼女へ返信をする前に、友人へメッセージを送った。
「たぶん異世界の人間と知り合った。今世界で何が起きているのか、教えてもらえることになったから一緒に来てくれ」
情けないことに、一人で彼女の話を聞くのが怖かった。そばに誰かがいてくれれば耐えられるはずだ。
昨日と同じように新宿で待ち合わせたが、時間が少し遅くなったために居酒屋はどこも混んでいた。
そのため、チェーン店の格安イタリアンで話を聞くことになった。注文を済ませたところで、西園寺がさわやかな営業スマイルで名乗る。
「西園寺
北野はにこりと微笑みながら返した。
「北野響です」
西園寺はすぐに日南へ耳打ちしてきた。
「おい、本当に彼女が異世界人なのか? ただの美人にしか見えないんだが」
日南は横目に彼をにらみつつ小声で返した。
「オレが美人と知り合うことからしておかしいだろ」
「ああ、たしかに」
何故か納得して西園寺は離れ、日南は複雑な気分でため息をつく。理解しているからいいが、本当に失礼な男だ。
すると二人のやりとりを見守っていた北野がたずねた。
「西園寺さんは何をしてる方なんですか?」
「俺は出版社で会社員をしてます。販売部でひたすら営業です」
笑いながら話す西園寺にうなずき返し、北野は日南へ視線を向けた。
「日南さんの作品を扱うことは?」
「ないです」
はっきりと西園寺が答え、日南も言う。
「こいつはわりとメジャーな出版社で、オレが世話になってるのは小さい出版社。友人のコネでどうにかしろと迫ったことはあるけど、結局どうにもならなかった」
「俺がいるのは販売部だからなぁ。編集部なら企画会議にかけられたんだけど」
と、西園寺は申し訳なさそうな顔をする。
日南は「どうせ期待してなかったからいいよ」と、過去のことを流してから北野へ目を向けた。
「それよりも本題だ。話してくれ、北野」
まっすぐに北野を見つめると、彼女も真剣な顔をして「うん」とうなずいた。