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第5話

 少し考え込んでから日南は言った。

「そういえば、依頼人の娘の恋人に会ってきたんだ。けど、彼女のことが思い出せないとか、記憶がぼやけているとかいう話で」

 西園寺はビールを半分ほど飲み、視線をななめ上へ向けた。

「記憶、なぁ。思い当たることがないわけではないけど、現実主義の日南に話しても理解してもらえないんだよなぁ」

 日南はピンときた。

「オカルトか?」

「うん、オカルトやスピリチュアル界隈では有名なんだけど、マンデラエフェクトって知ってるか?」

「知らない」

「だよなぁ。まあ、信じてもらわなくてもいいけど、ひとまず聞いてくれ」

 そう言いながら話しだそうとしない。どう話そうかと言葉を選んでいるのだろうが、日南はうながした。

「分かったから話してくれ」

「うん」

 うなずき、西園寺はビールを飲み干した。おかわりを店員へ頼んでから、ようやく話しだす。

「マンデラエフェクトは記憶に齟齬そごが生じる現象のことで、本来は集団での記憶違いなんかを指してた。名前の由来になったとおり、最初はネルソン・マンデラが獄中で死んだはずだと記憶している人たちがいたんだが、実際にそんな記録はない。それどころか、死去したのは二〇一三年なんだ」

 奇妙な話だ。日南は半信半疑に西園寺の話を聞いていた。

「他にも有名な映画のラストシーンが違うとか、有名な絵画が変わっているとか、例を挙げればきりがない。だが、そうして変化したことにより、現実に起きている方の記憶に引っ張られるらしいんだな」

 日南は怪訝けげんに思った。

「どういう意味だ?」

「例えばAという人がいるとする。しかしBはAが死んだはずだと言う。でも数日のうちに、Aが死んだという記憶が曖昧あいまいになってぼやけていく。たしかに死んだはずだったのに、だんだん自信がなくなっていくというか」

 はっとして日南は思考を巡らせる。

「つまり、依頼人の娘の恋人も、彼女が消えたことにより、その記憶を失いつつある状態ってわけか?」

「ああ、そうなんじゃないかと俺は思う」

「なるほど」

 西園寺の話を受け入れれば、たしかに辻褄つじつまは合う。納得もできるが、残念ながら日南はオカルト否定派だった。

「けど、記憶ってそもそも曖昧なものだよな。勘違いや記憶違いなんて日常的にあってしかるべきだし、たまたま集団で似たような勘違いをしていただけってことじゃねぇのか?」

 日南が平然と返すと、西園寺は深くため息をついた。

「だからお前には話したくなかったんだよ」

「はは、悪いな」

 笑って返しながらビールをのどへ流し込む。しかし、頭の片隅では全面的に否定できるとも思っていなかった。実際に七篠初子の記憶を三人もの男たちが忘れかけているのだ。

 しかも一人は恋人で、もう一人は兄だ。残る一人だって幼馴染だと言っていた。確実に近しい位置にいたはずの人間が、同時期に彼女のことを忘れるのは妙だ。

「けどまあ、興味深い話だったよ」

「よければもう少し突っ込んだ話もできますが?」

「いや、それはいい。オカルトは苦手だ」

「ですよねぇ。知ってた知ってた、よぉく知ってた」

 と、西園寺はまたため息をつきながらも、どこか楽しげに二杯目のビールへ口をつけた。

 日南も苦笑いを浮かべながら、再び自分のジョッキを傾けた。

 こうしてくだらない話をしながら飲む時間は悪くない。オカルトという点においては極端なまでにそりが合わない二人だったが、不思議と気の置けない仲であることもまた、事実なのだった。


 帰宅後、シャワーを浴びてから日南はパソコンで動画を検索した。西園寺に教えてもらった、人が突然消える動画だ。

 すぐにいくつかの動画が見つかり、一つ一つ見ていく。どれもこれも人が突然消えている。これらが編集でないとしたら、どういった理屈で人は消えるのだろうか。

 説明をつけようとしても、脳裏に浮かぶのは神隠しだの、幻だの、非現実的な答えばかりだ。

 オカルトを信じていない日南は自らに苦笑し、次の動画を再生する。西園寺の話にあった、撮影者の声が入った動画だった。

 夕方の公園のブランコで、高校生くらいの少女が揺られている。撮影者は隣のブランコに座っているのか、横からのアングルで距離も近い。

 他愛のないやりとりの後、少女が突然姿を消した。

 撮影者の驚くような声が入り、日南も思わず「えっ」と声を出してしまった。

 ブランコは降りた直後のようにゆらゆらと揺れており、撮影者は慌てて周囲を映すがどこにも少女の姿はない。

 それからの狼狽ろうばいぶりがすさまじく、動画は途中で切れていた。

 日南はさすがに気分が悪くなり、片手で口元を覆った。きっと自分が撮影者なら、同じようにうろたえたことだろう。

 そう思ってしまうくらいにはリアルで、現実に起きたことにしか見えなかった。しかし、現実的な説明がつかない。

「いったい何がどうなってやがる……」

 毒づいてみたところで何が変わることもなく、日南はマウスを操作して次の動画を再生した。


 翌朝、目を覚ました日南は小説を書いていないことを思い出した。

「やばい」

 慌てて起き出し、小便と洗顔を大急ぎで済ませる。

 部屋に戻っていつもの食パンをトースターにセットし、インスタントのコーヒーを用意した。

 トーストが焼ける間に寝間着からTシャツとジーンズに着替えると、枕元に置いたままのスマートフォンが鳴った。

 直後にトーストも焼き上がり、一度そちらを見てから日南はベッドへ寄っていく。スマートフォンを手に取ってみるとメッセージが入っていた。

「キタノ……?」

 差出人はキタノとなっており、怪訝に思いつつも本文に目を走らせる。

「おはよう、探偵さん。さっそくだけど午前十時半にシズナ町駅へ来て。事務所のスタッフが行方不明になったっていう情報が入ったの。一緒に調べてくれるよね?」

 昨日の夕方に出会った女からだ。彼女はたしかに大量失踪事件の調査をしているらしい。

 他にも消えた人間がいるなら調べたい。消えたことに論理的な説明がつくかもしれない。だが、日南は警戒心をあらわにして返信した。

「情報はありがたいが、どこでオレのアカウントを知った? ハッキングでもしたのか?」

 嫌な気分になりながらテーブルへ戻り、ぬるくなったコーヒーを飲む。

 トーストにマーガリンを塗ったところで、北野から返信が来た。

「秘密。一緒に調べてくれたらいいことを教えてあげる」

 日南は舌打ちをしてから返信した。

「いいことって何だよ? よく知らない人間に教えてもらうことなんてない」

 朝から苛々させられるなんて最悪だ。とっととブロックしてしまおうかと考えながらトーストにかじりつく。

 するとまたすぐに返信が来て、日南は目を丸くした。

「世界に何が起きているのか、知りたくはない?」

 知りたくないと言えば嘘になる。ましてや依頼人に結果を伝えなければならないのだ。そのために世間を騒がせている大量失踪事件について、日南は知っておく必要がある。

 迷いに迷って日南は返した。

「分かった。十時半にシズナ町だな、必ず行く」

 スマートフォンをテーブルへ置きながら、小さな声で「理不尽だ」とつぶやいた。こんなことでつられるなんて、日南らしくなかった。

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