日曜日の朝、ぼくは財布を持って、大型スーパーの先の赤石漬物屋に走った。赤石さんとこの漬物を食べないことには一日が始まらないと、父さんたちがうるさいので、こうして定期的におつかいしている。
ぼくは頼まれた通り、すっぱ梅干しとコリコリらっきょうとピリ辛福神漬けを選んで、レジ前の特売コーナーで足を止めた。割引シールのはられた漬物に交じって、風変わりな品物が置いてある。
「何だ、これ?」
ぼくはマニキュアっぽい小瓶を持ち上げて、ちょこんと首を傾げた。中に、黄色い液体が入っている。
「ああ、それかい?」
店主の老婆が欠けた前歯をのぞかせて、にこにこ笑ってみせる。
「福神シロップと言ってね、軽く振りかけるだけで、ぐっと味わい深くなるんじゃよ」
老婆のふくよかなえびす顔を見て、ほしくなった。
「あのー、おいくらですか」
やや緊張気味にたずねると、老婆がシワシワの指を四本立てた。
「四千円?」
「いいや」
「よ、四万円?」
あまりにびっくりして、声が引っくり返ってしまう。老婆がかぶりを振って、ぼそっとつぶやく。
「四百円じゃよ」
(ふーむ、縁起よさそうな名前だし、試してみるか)
ぼくは漬物といっしょに福神シロップを買って、家にかけもどった。玄関を開けると、激辛カレーの匂いがして、食欲をかきたてる。
母さんも父さんも濃い味が好きで、根っからの辛党。昔から、料理の味つけを子どもに合わせたりしない。
食卓には、ぼくのためにオリゴ糖とはちみつのボトルが常備されている。だけど、ぼくももう中学一年生だ。一つ上の姉ちゃんも食べてるんだから、ぼくだってイケるだろう。
「いただきます」
食卓をかこんで、スプーンを握った。とろとろのカレーをすくって食べたとたん、汗がどっとわき出る。おまけに、福神漬けもピリッと辛い。
「うー、目がいってー」
ぼくはズボンのポケットから目薬をつかんで、あわててさした。お皿いっぱいの山盛りカレーを見たら、さらに鋭い痛みがキーンと走った。
思わず手で目をおおったら、姉に口出しされた。
「コウキ、なんか変なものでもさしたんじゃないの?」
「まさか。いつもの……」
スーパーマイルド目薬のはずが、しまった。
さっき赤石さんからもらった福神シロップじゃないか。
ぼくはあせって、カレーにドバッと振りかけた。たしか、味わいが増すって言っていたはずだ。
ところが、ただ辛さが増しただけ。口から火を吹くほど、辛い。
(み、水を……)
勢いよく立ち上がって、テレビCMに釘づけになった。
~M
コウキを愛してる
推しドルのミナミに告白されて、頬がほんのり赤らむ。汗がスーッと引いて、痛みも消え去った。
「もうすぐ秋の新ドラマが始まるのよね。コウキったらニヤついちゃって、やらしー」
姉につっこまれて、ぼくははたと我に返った。
これまでもテレビで流れていて見たことがあったはずなのに、赤いミニスカのミナミはいつもよりずっときれいだ。いきなり名前を呼ばれて、ドキッとしてしまった。
福神シロップを使ったからだろうか。ちょいと確かめてこよう。
ぼくはスニーカーをはいて、赤石漬物屋にダッシュした。レジ前の座椅子に、老婆が置物のように座っている。ぼくは固く握っていた拳を開いて、福神シロップをそっと見せた。
「あのこれ、目に入れてしまったんです。だ、だいじょうぶですか」
「目に? おやおや、とんだまちがいをしたね」
老婆がほほえみながら、声をひそめておっとり言う。
「特別にひみつを教えるとね、またの名を福神アイドロップと言って、つけた直後に目が合った人と両想いになれるんじゃ」
「まるで、恋のキューピットみたいだな」
「そうじゃね。両目に一滴ずつさして、効果がきっかり一日続くのさ。くれぐれも大切に使うんだよ」
ふいに真剣な眼差しを向けられて、ぼくは深くうなずいた。
あくる朝、ぼくは制服のポケットに目薬をしのばせて、いつになく浮かれた気分で学校へ向かった。
お目当てのサキの席は、窓側の前から二番目。ななめ後ろからチラ見するには持って来いだけど、確実にねらいを定めるとなると難しい。とりわけ、柔道部の大柄なツヨシがじゃまだ。
もし目薬をつけた直後に振り返られて、うっとり見つめられたりでもしたら――。
(うげっ、キモすぎ)
ツヨシとのキスシーンを思い浮かべて、鳥肌がぞわっと立った。そこで、菅田先生に当てられた。ぼくはしぶしぶ立ち上がって、うつむき加減に詩を音読した。
(ふうー、あぶね。やっぱ、授業中はやめとくか。見つかって取り上げられたら、まずいぞ)
昼休み、ぼくはサキの元に急いだ。ちょうど、だれもそばにいない。
「沢村さん、休み時間によく読書してるよね」
「……う、うん」
サキが驚いたように顔を上げて、はにかみがちにうなずいた。
「ぼく、あまり本を読まないからさ。なんかお勧めがあったら、教えてほしいな」
「お勧めかあ……」
サキが小首を傾げて考えあぐねている間に、ぼくは福神シロップを取り出した。
(絶対に決めてやるぞ)
気合を入れてあせるあまり、強く押しすぎてしまった。両目に数滴ずつ垂らして、もう空っぽだ。
「はい、ティッシュ」
「あ、ありがと」
ぼくはパチパチまばたきしながら、お礼を言った。親切にティッシュをくれたのは、いつのまにいたのか、サキの真横に立つセイラだ。
「戸越くん、ごめん。サキ、借りるね」
「……あ、うん」
「ねえ、サキ。日曜日にどこ行くか決めよう」
セイラがサキを連れ立って、スタスタ走り去っていく。
その日の放課後、セイラに甘ったるい声でさそわれた。
「ねえ、いっしょに帰ろ」
つぶらな瞳がキラキラ輝いて、宝石のようだ。
(福神シロップの効果だろうか。いや、相手はクラス一のマドンナだぞ。ぼくなんかにほれるわけないだろ。落ち着け、落ち着け)
テンパっている間にも、手をぐいっと引っ張られた。
「ねえ、早く行こ」
「お、おう」
急いで立ち上がると、サキと目が合うなり、すっと視線を外された。
(やばい。親友を取られたってかんちがいされたかも)
後ろめたさを抱えたまま、セイラと校門をくぐる。肩をよせ合って大通りを歩く道すがら、同じクラスの奴らに冷やかされた。
「あいつら、つき合ってんのか」
「美女と野獣カップル、誕生だな」
「ヒューヒュー、ビッグニュースじゃん」
派手な指笛を背に、ぼくはひそかに優越感に浸った。
翌日もその翌日も、セイラの猛アタックは続いた。
さそわれるがままにいっしょに登下校するうち、セイラみたいな積極的なタイプのほうが、自分に合っているのではないかと思えてくる。周りからもますますチヤホヤされて、一躍スターダムにのしあがった気分だ。
(よし、ビシッと告白するぞ)
ぼくは意を決して、セイラを廊下に呼び出した。ところが、はりきって口を開くより早く、こう投げやりに言われたんだ。
「あたし、どうかしてた」
「え?」
「あんたみたいな優柔不断な男を好きになるなんて、ありえないもん。バッカみたい」
(おいおい、待ってくれ。今朝も、楽しくおしゃべりしながら登校しただろ。どうして、たった半日で態度がガラリと変わっちまうんだ)
ひどく混乱しながらぼうぜんと立ちつくしている間中、冷たい視線を浴びせられた。
(一滴で効果が一日続くって、赤石さんが言ってたっけ。数日経って、効き目が切れたのだろうか)
ぼくは青ざめて、肩をがっくり落とした。ふくれ面のセイラがいなくなるなり、後ろから名前を呼ばれた。おずおずと振り返ると、小柄なサキが立っていた。
「これ、セイラから」
「ああ、どうも」
「戸越くん、ひどい。あたし、ずっと気になってたんだけど、バッカみたい」
サキが怒って、文庫本を押しつけててくる。それはサキに勧められたファンタジーで、読み終わったあとにセイラに貸していたのだ。
(やっべー)
ぼくは分厚い文庫本をペラペラめくって、力なくうなだれた。
サキとの貴重なツーショット。遠足帰りのバスの中でとなり同士になれて、幸せだった。
おもむろに裏返しにすると、はずべきなぐり書きが目にとまった。
〈サキちゃんとつき合いたいな。いつかキスできますように〉
ぼくは口にすっぱ梅干しを含んだように、顔をしかめた。
「うおー、最悪だ。バッカみてー」
乱暴に文庫本を閉じて、片手できつく丸める。窓から風を吹き抜けて、ぶるりと身震いした。
(了)