ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
一定のリズムを刻むように電子音が主張することなく静かに鳴り続けている。
ベットサイドに置かれている心電図モニターには、山と谷が交互に同じような高さを成して複数の波線が映っている。
一番目立つように大きく表示されている心拍数を表す緑色の数字の横には、モニターされている人間の心臓が動いている証拠であるかのように緑色の心電図波形が電子音に合わせて波打っている。
その下には青色でSpO₂値の数値と脈波が表示され、さらに下を見ると白色で呼吸数の数値と呼吸曲線が表示されている。
ここは、とある大型病院にある個室。
病院特有の消毒のような匂いが鼻腔をくすぐる。
個室ということもあるが、面会時間の終了時刻間際なのも相まって辺りはしんと静まり返っている。
目のまえで汚れ一つない純白のベットシーツに横たわっている人間を立っているこちらの目線との高低差を利用して上から
鼻から胃に挿入されたチューブに不快さを感じさせるような表情は一切見せず、まるで放っておかれている操り人形のようにコイツは眠っている。
肉体は必要最低限の生命活動を維持しているが、中身は空っぽで空虚だ。
本来あるべきはずの意識、もとい魂は肉体を離れ、どこか別のところに行ってしまっている。
目のまえで横たわっているコイツは生きる屍というわけだ。
回復の見込みは今のところ無い。
このまま死にもせず、前に進むことも、後ろに引き返すことも出来ずに、そこに留まり続ける。
時間だけは無情にも過ぎていく。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
もしもコイツが回復したとして、別のところに行ってしまっていた意識という名の魂がコイツの肉体に戻ってきたとして――
その戻ってきた魂が本当にこの肉体から出て行った魂と同一のものであるという保証はどこにあるんだろうか。
魂が出て行く直前で留まり続けている肉体と別のところで歩みを進め続けた魂……ここには絶対的な差異が生まれてしまっている。
肉体に戻るべき正しい魂は、肉体と同じように留まり続けた魂でなければならない。
しかし、肉体から離れた時点でそんな魂は決して存在しなくなる。
あるのは肉体と絶対的な差異を持った魂だけ。
その魂を宿した肉体が再び歩みを進める時、その肉体は以前の肉体の延長線上に果たしてあるのだろうか。
コイツの額に触れると冷たさではなく暖かさを感じる。
魂が抜け、死体のように眠っていても血の通った暖かさがそこにはあった。
コン、コン、コン
個室の扉をノックする音が聞こえてすぐに看護師が入って来た。
「あの~そろそろ面会終了のお時間となります」
「分かりました。もう出ます」
額に触れていた手をサッとどけて答える。
「ご協力ありがとうございます」
看護師は心電図モニターやチューブの状態を確認して何やら記録をとる。
「今日は土曜日なのに珍しいですね」
記録をとりながら看護師が声を掛けて来る。
「あぁ……少し近くに用事があったので、ついでに寄っただけです」
「そうなんですね」
看護師が相槌を打ったのを聞いて、扉の方に足を向ける。
「それじゃ、帰ります」
看護師にそう言い残して、その場を後にする。
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コツン、コツン、コツン
青白い蛍光灯に照らされた薄暗い廊下を革靴で歩く音がする。
その音はだんだんと近づいて来る。
まるで死刑宣告を告げに来る死神の足音のように。
そして、近づいて来た足音は俺の目のまえでピタリと止まる。
格子の付いた窓から入ってくる月明かりと出入り口にある小さな小窓からでは相手の顔はよく見えない。
警察帽を深く被っていれば尚更だ。
ここは、東京拘置所にある単独室。
要は独房だ。
今はもうとっくに就寝時間は過ぎている。
俺の独房の前で止まった足音は見回りの警官のものではない。
この足音は迷いなく俺だけを目掛けてやって来た。
とは言え、他所から見れば見回りの警官であることにも変わりはない。
「今日は久しぶりに会話をして疲れているんだ。しかも、あんなガキ共とな」
俺は今日の午後に面会に来た3人を思い浮かべる。
その内、2人は高校生っていうのは予想外だったがな。
「だから、ゆっくり寝かせて欲しいとこなんだが」
俺は顔の見えない相手に話しかける。
コイツの目的が一体何なのか、まだ測りきれていない。
口調は軽くしているが、最大限に警戒は怠らない。
「その割には、私が来るのを待っていたんだな。本当に疲れていて寝たいのなら、既に寝ているはずだ。就寝時間はとうに過ぎている」
「お前が来るのは分かっていたからな。起きて待っていてやったんだよ。それに聞きたいことも聞けてねぇしな」
俺は寝そべっていた布団から這い上がり、出入り口の扉にもたれかかる。
「俺はお前の言う通りあいつらに情報を与えてやったぞ」
「分かっている。こちらで確認済みだ」
「なら、約束通り教えて貰うぞ。この世界の
小さな小窓を下から覗き込むように俺は目を見開く。
「元より、そのつもりだ」
「だったら、さっさと教えろ……いや、待った」
催促したところで俺は相手が言葉を発さないように止める。
「その前に……お前は何者だ? マイグレーターだってことぐらいは目星はついている」
「マイグレーターか……否定はしない」
嫌に含みのある言い方だが、俺は気にせずに話しを続ける。
「問題はお前が誰だってとこだ。お前が最初に俺に接触して来た時は、お前は八雲なんじゃないかと疑っていた。だが、俺に指示した内容を鑑みると、どうも八雲とは違う何かを感じた。じゃあ、結局お前は誰なのか? 正直、お手上げだ。今の俺には、これ以上考えるだけの材料も自由もない。だから、教えてくれ。お前は誰だ? マイグレーターであるお前達は何者だ? いや、そもそもマイグレーションって何なんだ?」
俺はこれまで、ほとんどのことは自分自身の力で答えを見つけて来た。
幸運にも俺はそれを可能とする頭と努力を持っていた。
しかし俺は今、情けないほどに他者に答えを求めている。
自分で答えを見つけることを諦めたのではない。
自分では絶対に答えを見つけることは出来ないと理解したからだ。
それに気づくだけの時間が俺にはあった。
この世界と閉ざされた狭い狭い独房の中でな。
「君のあらゆる疑問は全て真実を知ることで理解出来る。言い返せば、真実を知らなければ私が誰で、マイグレーターが何者で、マイグレーションが何であるかを理解することは出来ない」
「どういう……何でもない。真実さえ知れば、全部理解出来るんだろ?」
コイツが言ったことがどういう意味なのか聞き返したかったが、ここで時間を使っても意味はない。
ならば、1秒でも早く真実を聞いた方が手っ取り早い。
「そうだ。今から私の記憶を介して君に直接真実を伝える」
「記憶を介して直接真実を伝えるだと? それはマイグレーターの能力なのか?」
「マイグレーターというだけで使用出来る能力ではないが、マイグレーションの練度を高めれば使用可能になる者も出て来るだろう」
「入れ替わりだけじゃねぇのかよ」
「マイグレーションの本質は入れ替わりではないからな」
「そうかよ。だが、その能力のせいで俺が突破性脳死体になるのは御免だぞ」
「安心しろ、その心配はない。このやり方が最も正しく効果的に伝達することが出来るというだけだ。言葉で伝えたところで理解は難しいだろうからな」
コイツと話していると調子が狂う。
自分の意思で話しているようで、相手の意思によって話させられているような感覚だ。
「では、君にこの世界の真実を伝えよう」
その声を聞き終わるか終わらないかのうちに、俺は奇妙な感覚に襲われる。
自分の記憶ではない、他人の記憶が頭の中を侵食して来る。
0コンマ何秒か、それとも無限に近い時間が経過したのか……
情報の海が頭の中になだれ込んで来ているにも関わらず、それらの情報を原子レベルまで理解することが出来る。
「……う、嘘だ……あ、あ、あ、有り得ない……お……前が…………や…………にん…………俺がッ…………だとっ……こッ……せぇ……じっ……なッ………………………………」
……
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「やはり、直接流すと自己確立的情報が自ら崩壊するか……」