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Tier68 深淵

 まさか、佐伽羅さんの方から声を掛けられるとは思ってもみなかった。

 佐伽羅さんの真っ黒い瞳は僕を捉えて、逃すことはないという意志が伝わってくる。

 僕はその場からしばらく動けなかった――そう感じてしまう錯覚に僕は捕らわれていたが、実際はほんの1、2秒程度だったようだ。

 僕は一度、半開きにした扉を静かに閉める。

 扉が閉まったのを確認して、佐伽羅さんの口が開く。


「お前はさっき、5年前の爆破事件で生存者はいなかったのかと聞いたよな?」


「は、はい。聞きました」


 僕は佐伽羅さんがわざわざ呼び止めてまで聞いて来た内容の真意を掴めずに困惑の色をあらわにしてしまう。


「なぜだ?」


「それはもちろん、1人でも生存者はいなかったのかなと気になったからです」


「だとすると、おかしいな」


「え?」


 間の抜けた声が思わずこぼれる。

 佐伽羅さんがどうして僕の言い分に対して、おかしいなどと思ったことが全くと言っていいほど理解出来なかったからだ。

 僕は別に嘘をついたわけでも明後日の方向に答えたわけでもない。

 自分が思ったことをごく当たり前に、素直に言葉にしただけにすぎない。

 そして、これは誰が聞いても真っ当な答えだと感じるはずだ。

 それを佐伽羅さんはおかしいと言った。

 本当に分からない。


「えっと……一体、どこがおかしいんでしょうか?」


「……分からないか? 普通は生存者がいたと聞いたら、真っ先に生存者がその後どうなったのか聞いてくるもんだろう。爆弾を使う意図なんかどうでもいいから生存者はどうなったんだって、具合にな。だが、お前はそれを聞いてくることはなかった。俺の無駄話に最後まで付き合い、しまいにはそのまま帰ろうとした。……お前、本当に生存者のことが気になっていたのか?」


「……き、気になっていたに決まっているじゃないですか! あの時は……たぶん、生存者がいたっていう驚きと嬉しさで気が動転していたせいで聞きそびれてしまっただけだと思います」


 即答は……出来なかった。

 おそらくそれは自分の中に迷いがあったからなんだと思う。

 佐伽羅さんが言っていることは正しいんじゃないかと、僕が自覚していないだけで無意識のところでは生存者のことなんか気にも留めていなかったんじゃないかと……

 そんな疑念を僕は払拭ふっしょくしきれなかった。

 それに、どうしてか少し声を荒げてしまった。

 どうも、感情の制御が上手くいっていない感じがする。

 これは佐伽羅さんに対して憤慨ふんがいしているせいなのか、それとも他に何か別の要因があるのか……


「それだけじゃない。40人近くの子供達を犠牲にした俺に対してお前は怒りや軽蔑といった感情は沸いてないだろ? 口ではひどいなどと言っておきながら、どこかでそれを仕方ないと割り切っているんじゃないのか? 少なくともお前より、もう1人のガキの方が本気で怒っていたな」


「……マノ君の方が僕より佐伽羅さんに怒っていたのは、確かかもしれません。けど、僕だってあなたに対して少なくはない怒りは持っています。仕方ないで済まして良いものじゃないです」


「……ま、そういうことにしておいてやるよ」


「いや、だから僕は本当に――」


 僕は語気を強めて佐伽羅さんに詰め寄った。

 そこまでは良かったのだが、詰め寄った先で佐伽羅さんの吸い込まれそうな真っ黒い瞳に目があってしまい、視線をそらすことすら出来なくなってしまった。

 佐伽羅さんの瞳の奥にある底なしの闇に僕は飲まれそうになる。

 お互いに凝視する時間が流れる。


「俺は人の目を見れば相手がどんな奴が大体分かる。仕事柄いろいろな奴を見ていく過程で自然と身に付いた。そして、それはいつしか俺の処世術になっていた」


 互いに瞬き一つしない状況の中、佐伽羅さんは語り出す。


「だからよ、俺には分かるんだよ。お前の瞳の奥には、どんな強い光も打ち消してしまうほどの力を持った闇が広がっているのが。俺が持っている闇なんかよりもよっぽどお前の方が闇深く、たちが悪い。俺もこれまでにかなりの修羅場をくぐって来たが、ここまでの闇を持った人間は初めて見た。どんな経験をすれば、こんな風になるんだ? お前は今まで何を見て育った? それとも、生まれ持った性質か? お前は一体、何なんだ?」


 目はもうとっくに乾いているはずなのに、涙一つ出てこない。

 視界はぼやけることはなく、佐伽羅さんの瞳がはっきりと僕の瞳を覗いている。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉が嫌でも僕の脳裏にちらつく。

 僕は今、深淵を覗いているのかもしれない。

 全身がメデューサの石化の呪いにかけられたかのように動かない。

 深淵から逃れようにも、深淵が僕を見つめて逃がさない。


「ぼ、僕には闇なんか――」


「逃げるな」


「に、逃げてなんか――」


 そこで、声が止まる。

「いません」というたった4文字が出てこない。

 声帯を揺らすだけの空気が入ってこない。

 いつの間にか呼吸は浅くなっていて、息が詰まりかけている。

 息を深く吸おうと意識するが、意識すればするほど吸い込む空気の量は少なくなって呼吸は浅くなる。

 まるで、水中で溺れているかのように息が出来ない。

 過呼吸になり始めていることが自分でも分かる。

 それでも佐伽羅さんは逃げるなと言うように僕から目を離さない。

 深淵はどこまでも追いかけて来る。

 僕には光を歪ませるほどの力を持った闇なんてものは無いのに……あうのはせいぜい、足元を照らす懐中電灯の光で消し飛ばされるくらいの闇だ。

 それでも、佐伽羅さんの深淵を見続けることによって自分の持っている小さな闇が佐伽羅さんの闇からエネルギーを得て大きくなっているように感じる。

 そして、大きくなったその闇に僕は飲み込まれる。

 そう、僕は本能的に直感する。

 それが分かっているのに僕の体は言うことをきかない。

 駄目だ、どうにかして体を動かさないと。

 このままだと僕は――


「おい、伊瀬! 何してる? 早く行くぞ」


 勢いよく開け放った扉の音と共にマノ君が入って来た。

 そんなマノ君の声を聞いて、僕は金縛りが解けたかのように体が自由になる。

 僕は1秒でも早く逃れられるように佐伽羅さんの瞳から視線を外して振り返る。


「あ、ごめんマノ君。すぐ行くよ」


 さっきまでの息苦しさが嘘だったかのように、言葉がスムーズに出る。


「何か話していたのか?」


 僕と佐伽羅さんを交互に見てマノ君が聞いてきた。


「大したことは話してないよ。軽く別れの挨拶をしていただけだよ」


「そうか。じゃ、もう行くぞ」


 マノ君は開け放った扉からまた足早に出て行く。

 今度こそ置いて行かれないように僕はマノ君の後を追う。

 背中に佐伽羅さんの視線を強く感じながら。

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