「何かある日、妙に朝早く目が覚めちゃったのよね。明け方、って時間。カーテンを半分開けたまま寝ちゃったみたいで、日が射し込んで、目が覚めちゃったみたいなの。何かすごく空が綺麗だったんで、窓を開けたら、空気がひんやりとして、気持ちいいの。こんな時間だったら人は居ないわよね、ということで、そーっと外に出てみたの。辺りを見渡して、それで戸を開けて。何考えてたなんて、今のあたしには判らない。たぶんその時のあたしにも判らなかったんじゃないかなあ。ただもう、空が綺麗だったのね。……でつい、自転車に乗ってしまったら、何かもう、止まらなくて」
「止まらなくて?」
くす、と私はようやくその時笑った。
「そう。止まらなかった。学校へ行く道筋じゃあないのよ。全く逆方向。ただそっちから太陽が昇ったのよね。そっちへ行きたかったのよ。光がある方向」
ああ、と私はうなづいた。
「……気がついたら、太陽が空の真ん中にあった」
サラダは苦笑した。
「そこが何処なのかさっぱり判らなくてさあ。とりあえず来た道を帰ればいいって思っても、よく考えてみれば、適当に空見て来たんだから、どっちがどっちかさっぱりわかんないのよね。しかもうちなんかど田舎だから、走ってたあたりには、まるで家なんか無いのよ。どうしようかと思ったわよ。……どうしたと思う?」
私は首を横に振った。判らない。
「何か、戻る気無くしちゃって」
「え」
「そのまま真っ直ぐ、またどんどん走り出しちゃったのよね。何か妙に、アタマがすっきりしてたのかもしれない。どうでもいい、と思ってしまったのかもしれない。とにかく行けるとこまで、行こうと思っちゃったのよね」
「はあ」
それって、ほとんど家出ではないか。
「ま、さすがに夜になって、どうしようかとふらふらしてたら、結構学区って広いのよね。で、あたしを直接知ってる訳じゃないけれど、変だと思った人が居たのかな。どうしたのって引っ張られて、それでウチに連絡されてしまって、冒険はおしまい」
「冒険」
「そう思ったんだと、思うのよね、きっと。でもそれで、ようやくあたしは外に出られた。でも学校には相変わらず行けなかった。毎日自転車で、走り回ってたよ。人が居ないとこ、人が居るとこ。今だってどーしてかさっぱり判らないんだよ。でも何か、それでどーでもいい、って思ったのかもしれない」
「どーでもいい?」
「あたしが何してよーが、勝手に回りは動くのよね」
うん、と私はうなづいた。
「だったら、あたしが何してよーが構わない訳じゃない。何でそこで誰かに遠慮しなくちゃならないんだ、と思ったわよ。誰のためでもないのよ。あたしまず、あたしのために、動かなくちゃ、駄目だ、と思った。あたしがまず、あたしを抱きしめなくちゃ、駄目だと思ったのよ」
「自分を」
「誰もその頃、あたしにそんなこと、してくれなかった。学校の連中はあたしを嫌ってたし、家族だってそーよ。この歳になって何、って顔で見るのよ。だから期待するのやめた。代わりに、あたしがまず、あたしをぎゅっと、抱きしめてやることにした」
にやり、と彼女は笑った。
「でもそーやって外に出られるようになると、今度は母親がやいのやいの言い出したのよ。外に出られるなら、学校にどうして行けないの、って。このままじゃ受験もできない。体裁も悪いって、言うのよ。ようやくそこまで息がつけるようになった娘にね。ようやく、なのを全く判ってないのよ。だからその時にはあたしも言い返した。母さんはあたしがどれだけ辛かったのか、判らないの? って」
「お母さんは、判ったの?」
「ぜーんぜん」
ふるふる、と首を横に振る。
「そんなこと言ったって、こっちの身にもなってみなさい、って言ったね。その時思ったね。ああ駄目だ、って。このひとには通じない、って。そうしたら、急に気が楽になった。このひとにそんなこと求めても、駄目だ、って」
似てる、と私は思った。それももっと私より、シビアな。
「だから今度はさすがに、もう少し遠くまで逃げたな。……おばさんが、こっちに居るのよ。東京」
「東京に?」
「母親の妹なんだけどね。何かあたしが閉じこもったって聞いてから、時々電話くれて。もし本当に息が詰まりそうだったら、いつでもおいで、って行ってくれてた。だから、あたしは逃げた」
「逃げた、の?」
うん、と彼女はうなづいた。
「逃げるが勝ち、っていうのもあるじゃない。ねえミサキさん、とにかく最後に生きてたほうが、勝ちなのよ」
「生きてたほうが」
「うん。どんなに逃げて逃げて逃げまくっても、その時に力をたくわえたり、傷を治したりしたら、いつかは何処かで反撃できるかもしれない。反撃しなくても、いつか逃げ通せるかもしれない。もしかしたら、向こうが根負けして、先に死んでしまうかもしれない。とにかく、最後に生き残ったほうが、勝ちなのよ。人からどう見えるかなんて、どーだっていい。あたしはあの場所に居たら、いつかまた絶対息ができなくなって、もっと高い場所から飛び降りるかもしれない、って思った。それは嫌だった。そんなことしたら、最初にあたしを貶めた奴の思うがままじゃない。だけど、気持ちってのは弱いから、そこに居るだけで、どんどんどんどん傷がついてってさ、生乾きのまま、また次の傷がつけられて、いつまで経っても痛み続けるじゃない。そんな状態で、誰に反撃したとこで、痛みばかり気になって勝ち目なんかありゃしないのよ。だったら逃げよう、って思えたのよ。その時やっと」
「やっと」
「全く迷ってなかった訳じゃあないよ。おばさんにも迷惑じゃないか、って思ったりもした。ただそのおばさんはすごく正直なひとだったのね」
「正直?」
「無論迷惑はあると思う、なんてずけずけと言うしね。だから電話口でたじろいでたら、こう言うの。『でもワタシはあんたが結構好きだったから、死なれるのはやだ』」
「は」
それは何と言うか。