「お帰りなさい」
と扉を開けた彼に、私は言った。あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。買い物をして、食事を作って。
待っていたという訳ではない。ない、と思う。
「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」
「まあね」
私は苦笑した。
「休んだの?」
「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」
「ごめんなさい」
めぐみ君は軽くうなだれた。彼は私が結構いつも残業していることを知っている。
別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。
「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」
私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。コーヒーメーカーをセットする。
「美咲さん」
「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」
「美咲さん!」
引き止めるような声。私はゆっくりと振り向いた。でも今は、それ以上言わせたくはない。
「いーい? とにかく、食事なのよ」
私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。
彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。
私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。
今日は和食だ。ひじきの煮物に、魚の西京焼き。みそ汁はやっぱり赤だしに限る。
赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。
「出てくって言うんでしょ?」
不意に私は言ってみた。彼ははっと顔を上げた。
不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。
だけど彼はうん、と即座に返していた。
「そんな気はしていたけど」
「そう?」
「そう。帰ってきた時、そう思った」
「何で?」
「何でだろ? 声が」
「声が?」
「声が、弾んでいたからかな」
彼は首を傾げた。
「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」
「出る?」
「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」
「……そう…… だったの?」
やっぱり気付いていなかったか。
「そう」
だから私はあえて断定した。
食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。ミルクは入れない。そういう気分ではないのだ。
「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」
私は目を伏せた。あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。めぐみ君はつぶやいた。
「あなたのこと、好きだったよ」
「ありがと」
「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。暖かくて、気持ちよかった」
どうして。
「気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」
どうして、それでは駄目なのだろう。
「でもそれは駄目なんだ」
彼はカフェオレのカップを置いた。聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。
「それじゃあ、駄目なんだ」
彼は繰り返す。顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。
「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」
思い出した? ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。
彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。綺麗な、写真を加工したデザインだ。
「これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」
彼は言葉を探しているようだった。私もその言葉を待った。待つしか無かった。
「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」
はっ、とする。そこにあるもので。
そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。
私はそのCDジャケットを手に取る。
「めぐみちゃんが、作ったの?」
「うん。これが僕の、今の精一杯」
彼は微かに笑った。
「別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」
「もういいわ」
ひらひら、と私は手を振った。……聞きたくない、と思った。だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。顔がこわばっているかもしれない。のよりさんの時よりずっと。
あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。だけど彼の場合は。
「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」
「美咲さん」
「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」
そう言って、にっ、と口元を上げた。大げさなまでに。
「兄貴に、渡してもいいの?」
「どちらでも。美咲さんの思うように」
その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。
彼は知っているのだ。兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。既に他人なのだ、と。
「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」
「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…… でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して」
ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。
考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。
サラダが来た時に時々出すのだ。そうだねあんたの言った通りだ。この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。
それがいいことだ、と判っていても。
私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。
「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」
「そうですね」
彼はふっと笑った。
「僕は、美咲さん、好きだったよ」
「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」
でも知ってる。この子はそういう言葉を安売りはしない。
そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。