目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第43話 眠ってしまおう、と思った。

 ところがその夜、彼は帰って来なかった。


 だいたいめぐみ君が私の所に転がり込んでから、一ヶ月位経ったあたりだろうか。残業で疲れた身体を引きずるようにして帰ってきても、誰の気配も無い。そのまま食事をして、TVを見て、風呂に入って、出ても、扉が開く気配は無い。合い鍵は渡してあった。

 今日は帰らないのだ、と私はただそれだけ思った。それだけだ。

 毎日毎日、私は彼に朝カフェオレを手渡し、私はその前でミルクティを呑んでいる。それが当たり前のように感じていた。

 感じてしまっていたのだ。これはまずい、と夜中になっても戻って来ない彼のことを思いながら、私は背が急に寒くなるのを感じた。


 また、忘れていた。


 ここは彼にとっては仮の宿りなのだ。それは最初から判っていたし、判った上で、彼にその場所を提供して…… 私自身も、それを楽しんでいたのだ。

 だけど、私自身が、その状態を無くしたくない、と感じだしている。それはまずい。まずいのだ。

 のよりさんは以前にこう言った。あなただって、あたしでなくたっていいのよ。それは確かだ。確かに今思えばそうなのだ。私は誰でも良かったのだ。

 そして、今もそうだ。必ずしも、めぐみ君でなくてもいいのだ。自分を必要としている誰か、だったら。プライドが無い、とのよりさんだったら言うだろうか。


 確かに、無い。


 一度知ってしまった暖かさは、中毒になる。誰かしらの温もりが無いと、寒くて仕方なくなってしまう。無論それまでも寒かった。だけど、それはまだ、自分が寒かったことを、本当には知らなかったから耐えられたのだ。これが普通なんだ、と考えようとしていた。

 だけど違う。のよりさんやめぐみ君が居る部屋と、そうでない部屋は、まるで空気の温度が違う。自分を必要としてくれる人の、体温が、すぐ手を伸ばせば触れられるところにある。それがこんなに、心地よいものだ、とずっと私は知らなかったのだ。


 誰かが、強引にでも触れてくれていたなら、もっと早く知ることはできたのだろうか?

 いや違う。それでも私は私だから、やっぱり、今の今まで気付くことはなかっただろう。

 私の指は、知らず、電話の受話器を上げていた。もしもし、と隣の番号を押していた。だがサラダの部屋から流れてきたのは、留守番電話の機械的な声だけだった。何処に行っているのだろう。

 判っている。都合のいい時だけ、彼女を頼りにするなんて、そんなのは私のわがままだ。サラダにだって自分の時間がある。今だったらバイトに行ってるかもしれない。もしかしたら、私がめぐみ君にかまけている間に、また男ができたのかもしれない。それは当然の権利だ。いや権利もへったくれもない。

 ただ、誰かと話したかった。近くに居る居ないを別にして、誰かと、今、この時間、関わっていたかった。なのに、こんな時に電話する相手一人、私には居ないじゃないか。

 勢いよく、受話器を下ろした。何だか急に、胸の奧からぐっ、と湧き上がってくるものがあった。


 疲れてるんだよ。誰かの声が聞こえてくるような気がする。


 そう実際、疲れているのだ。気持ちが、弱っている。だから余計に。

 眠ってしまおう、と思った。これ以上今日起きていると、下手な考えばかりがぐるぐるぐるぐる頭の中を巡って、とりとめもなく、何にもならない。眠って、忘れて、また、明日、考えることは、朝になって、しっかり考えよう。私は自分に言い聞かせる。

 めぐみ君が明日の朝帰ってくる、という保証は無かった。だが私はとりあえず彼がいつ帰ってきてもいいように、コーヒーメーカーのペーパーフィルターをセットしておいた。



 目覚ましが六時を告げる。古典的なベルの音だ。重い体をゆっくりと持ち上げると、やっぱり部屋の中には私の匂いしかしない。ああ、帰っていない。

 カーテンの隙間から、日射しが入り込んでくる。日に日に早くなってくる夜明けは、私を否応無しに目覚めさせる。ベランダに出て、ふらっと下に目を移す。あの日の様に、彼がさまよっているなんてことはないのだろうか。既にベンチは見えなくなっている。

 TVを点けると、NHKのニュースがいつもの口調で喋り始める。内容は頭に入っていかない。通り過ぎていく。ああそれでも朝ごはんは食べなくちゃ。セットしてあるコーヒーメーカーのスイッチを入れる。最近はずっとミルクティだったけれど、奇妙に今朝はコーヒーを呑みたくなっていた。

 パンを焼いて、サラダを添えて、目玉焼きを作って。手が勝手に動く。私は苦笑する。それでもこういうことに、手はちゃんと動くのだ。腹も減るのだ。

 口にしたチーズトーストはさく、といい音がした。


 そう言えば。先日のことを思い出す。



 兄貴に電話で公園まで呼び出された。何処かの店ではなく、公園を選ぶ兄貴に、私は万年金欠野郎、という意味の言葉を投げつけたと思う。 

 彼はベンチに腰を下ろして、ぼんやりと私の部屋の窓を眺めていた。


「どーしたのよ兄貴、突然」


 と聞くと、彼は目を細めた。目の焦点を合わせるためだろうが、悪い目つきが更に悪くなる。凶悪と言ってもいい程だった。

 悪人面をして、彼はこう私に言葉を投げつけた。


「お前、めぐみをかくまってるだろ!」


 私は一瞬大きく目を見開いた。やっと気付いたのか、と。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?