「へー? 何だ。もっと早く聞けばよかった」
いやでも、それ以前に聞かれたら、私はまず言っていないだろう。
「何処のライヴハウスとかでやってるの?」
「えーと」
私は知ってる限りのライヴハウスを口にした。うなづく彼女の目はいっそう大きくなる。
「何だ。あたし行ったことあるよ」
「ええっ」
よくすれ違わなかったものだ、と私は一瞬血が引くのを覚えた。
「ふうん。話してみなくちゃ判らないこともあるんだよねえ」
全くだ。
「ま、何か印刷屋が必要になったら一度電話してよ。そのお兄さんにも」
「印刷屋?」
「デザイン会社ったって、元々は印刷屋だよ」
あはは、と彼女は笑った。
「バンドが、印刷屋に何を……」
「あれ。だって色々やってるよ、皆。フライヤーだってCDジャケだって、デザインがいいもののほうがいいに決まってる」
そう言えば、めぐみ君はデザイン学校に通ってたはずだ。確か最近のRINGERの配布カセットのデザインは彼がしていたのだ。
「そうですね」
「それにしても、ホント、話さなくちゃ判らないよねえ」
「でもそちらも、怖かったし」
「怖かったあ?」
あはは、と彼女は再び笑った。普段表情が少ない人だと思っていたのに。
それだけ、この空間は居心地が悪かったのだろう。
けど、私にとって果たして居心地がいいのか、と言うと。それも実はもう判らなくなってきていた。
*
「顔色良くないよ、美咲さん」
ある朝、めぐみ君がそう言った。そう? と私は答えた。実際あまり調子が良くない。生理のせいか、とも思ったが、それともいまいち違う。
大丈夫よ、と彼には言ってはおく。何となく、めぐみ君には心配させたくはない、と思った。もっとも彼も、今のところは自分のことで手一杯だろうから、私が平気だ、と言えばそう思ってしまうだろうが。
「ホントに大丈夫。ちょっと日とお天気が悪いだけ」
「ならいいけど」
「それより、バイトのほうどう?」
「うん、こないだキッチンからフロアに変わったんだ。そっちの方が時給がいいし」
へえ、と彼の手にカフェオレを渡しながら私は感心した。めぐみ君はレストランだか飲み屋だか判らないが、とにかく飲食関係にバイトしている。
煩わしいことが嫌で、彼はいくら勧められてもキッチンの方に居たのだ、ということを兄貴から聞いたことがある。
可愛い顔をしているから、フロアに出た方がいい、とそこのマスターは思ったのだろう。私だってそう思う。だけど夜、バンドでステージに出るような生活だから、普段は地味に働いていたかったのだと言う。その気持ちも分からなくもない。
「どういう心境の変化?」
私は紅茶を入れる。牛乳をたっぷりと入れる。コーヒーもいいが、立ちくらみや目眩が頻繁なことから、刺激物は少し控えていた。
「んー…… 何となく。ちょっと忙しくしていたかったし」
彼は答えをにごした。おそらく彼の言うことも本当なのだろう。考える間が無いほど身体を忙しく動かすというのは、結構有効だ。
「それに少し、ちゃんとお金貯めないとね」
今度は私が黙った。おそらくそっちが本音だろう。彼はここから出ていくために、その資金を急いで貯めようとしているのだ。
東京で一つ部屋を借りるには、ある程度の資金が必要だ。どうがんばっても、普通の部屋代の四~五ヶ月分は軽く必要になってくる。安い部屋、と言ったところで、私の故郷とは違う。
彼がなるべく長く店で働く理由には、そこで出る食事のこともあるらしい。忙しい仕事でも倒れない食事が、それでもそこで働いていれば、出る。食費を削ろう、としている彼の意気込みが感じられる。
私のところで食べていることも、住んでいることも、彼は口にはしないが、心苦しく思っているらしいことは、判る。私にしてみれば、彼が毎日居ることは、正直、嬉しいのだが……
私がそう口にしたとしても、きっと彼はそう受け取らないだろう。のよりさん以上に、彼は自分のことで手一杯だ。私の気持ちまで、考えてる余裕は無いだろうし、その必要も無い、と思う。
正直、あれから彼と何度か寝てたりもする。何でそうするのか、私にも彼にもよく判っていない部分がある。のよりさんの時とは違い、彼は自分から手を伸ばそうとしてはいない。
かと言って、私が積極的に彼を好きだ、という訳でもない。ただずるずると、何となく、寒いから寂しいから、で手を伸ばすと、何となくお互いにその気分が判ってしまうのだ。そしてそのままなし崩しだ。
―――睡眠不足? もあるのだろうか。だとしたら、この立ちくらみや目眩は。
とりあえず薬局にでも行って、ピタミン剤でも買っておこう、と思った。そんな安直な方法を取るのはあまり好きではないのだが、普段起こるものではないだけに、少しばかり困っているのだ。
「あんまりがんばりすぎて、身体壊さないようにね」
「それは美咲さんの方も」
私達は、黙った。点けっぱなしのTVが天気予報に変わった。明日は、雨だ。