「ハコザキ君、のよりさんに、あんた達のことは……」
「言ったことは無いよ。だってあいつは、俺がそうだったように、ごくごくまともな奴なんだ。俺が男に抱かれてるなんて、想像もできないだろうさ。それが普通の女の子の反応って奴じゃない? 美咲ちゃん」
「普通の」
「そうやって言ってしまうと、美咲ちゃんには失礼かもしれないけどさ。それでも、俺だって、奴に会うまでは、奴にそうされるまでは、そんなこと、考えもしなかったし、訳判らなかったよ? だけどそれでも何か」
彼は口を閉ざした。
私は言う言葉を無くした。
ただ、兄貴が男ともそういう関係になれる、ということを認識して以来、私は別にそれを何とも思わなくなっていたことは確かだ。ああそう言えば、普通の子は、だいたい忌み嫌うか、好奇の目で見るんだよな。思い出した。
だって。半分ほどコーヒーが残ったマグカップを持って、私は六畳の方へと移動する。南向きの部屋には、だんだん夜明けの光が斜めに射し込んでくる。
音を消える寸前まで小さくして、TVを点ける。何処の局だろう。だらだらと空模様などを映しながら音楽が流れている。今日は一日、いい天気になりそうだ。
そういえばさっきコーヒーを入れた時、豆がそろそろ無くなりそうだった。買い足しに行かなくては。ベリーの入ったスコーンも欲しい。サラダは今日は何するんだろう。誘ってもいい。そうだ誘おう。男との約束が無ければいいけど。
そんなことを考えながら、ベッドに背をもたれさせてコーヒーをすする。時々ちらちら、とキッチンの方を見ると、背もたれに腕を掛けて、ぐったりともたれていた。ワゴンの上にマグカップは置かれたままだ。
眠ってしまったのかな、と思ったら、私にもまた、眠気が少し襲ってきた。
再び目覚めた時、時計の針は十時を指していた。あれ、と私は身体のあちこちが痛いのに気付いた。変な姿勢で寝付いてしまったから、下になった部分がややしびれている。既に太陽はかなり上にある。何処に行っても店は開いている時間だ。
「あ」
キッチンの椅子の上には、まだ彼が同じ姿勢で眠っていた。大丈夫なのだろうか。おそるおそる近づいてみると、驚いたことに、ぐっすりと眠っていた。
起こすべきか。少し迷う。しかしお出かけもしたい。とりあえず玄関に向かった。サラダに今日暇かどうか訊ねなくては。できるだけそうっと、扉を開けたつもりだった。
ぴんぽんぴんぽん、とチャイムを鳴らす。
「あ、おはよー」
あっさりと彼女は出てきた。頭にバンダナを、手には軍手をつけている。そして部屋の中のにおい。
「あんたまた、ペンキ塗りしてるの?」
「だって今日いい天気だしー。見て見て、こないだ、いい感じの椅子を拾ったんだー」
驚いてはいけない。「大きなごみ」の日に彼女が何かと抱えてくることはある。それが部屋と趣味に微妙に合わずに、次の時にはまた出しに行くことも。どうやら今回持ってきたものは、彼女の趣味と、この部屋の広さにも釣り合ったらしい。
「へえ、結構がっちりしてるじゃない」
「うん。でもさすがに座るとこが汚れてたしねー。まあだから皮を張り直して、足と背白くしようと思ってさー」
なるほど。私は塗り直された椅子をまじまじと見る。そう言えば私もその「大きなごみ」の前を通り過ぎた記憶がある。
「で、ミサキさんどしたの? 朝ご飯のお誘いにしては遅いし」
「ところがそれなんだよね」
「朝ご飯は食べちゃったよー」
「別に食わなくてもいいって。あそこのコーヒーショップにつきあって欲しいの。豆も切れたし。ついでに」
ああ、と彼女はうなづいた。
「そぉいうことならいいよー。あたしも行きたい」
「じゃあ着替えてくるわ。あんたも五分で用意してよ」
「五分ーっ」
「一番近いとこだよ。いちいち顔作ってく?」
「じゃなくて、ペンキ」
ああ、とうなづいたのは今度は私だった。
「三十分待って。そしたらいいとこまで塗ってしまうから」
「三十分ね。じゃあそしたらうちに来てよ」
「はーい」
自分の部屋に戻ると、TVの音が聞こえてきた。音量が上がっている。
「お帰り」
「ただいま…… じゃなくて」
六畳の方で、ハコザキ君はぼんやりとTVを眺めていた。
土曜の朝の番組は、ローカルな情報番組だったりすることが多い。そんな他愛もないローカルな名所やらショップを、けたたましい女性アナウンサーが紹介している。彼はそれを見ているのか見ていないのか、どちらとも言えない視線で、ぼんやりと眺めていた。
「ねえ、ハコザキ君お腹空かない?」
「え?」
「もう少しして、隣の子が来るから、そしたらちょっと、朝ご飯食べに行こうよ」
「って俺、お金」
「だからあなた、借りに来たんでしょ? ついでよ。駅近くのコーヒーショップだから、ついでにそこから帰ればいいわ」
ありがとう、と彼は言った。
「電車代だけ? 足りる?」
「うん。うちの最寄りの駅からは歩いてそう掛からないからね」
「なら良かった」
本当に。
「で、ハコザキ君、兄貴には今日はもう、会わない気?」
「今日、というか」
彼は苦笑する。
「俺はクビになったんだよ。ようするに。だったら、そうそう簡単に顔を合わさない方がいいよね」
あっさりと言う。
「でも昨日そういうことがあったばかりじゃない」
「彼が俺をバンドに連れ込んだのも唐突だったよ。同じ勢いがあったもの。俺には予想がつく。のよりがどう出るかは判らないけれど…… ケンショーの勢いに、あいつが呑まれないなんて保証はないんだ」
「勢い、でそうなってしまうの?」
「美咲ちゃんは、あいつの勢いが絶対に掛からないひとだからさ、そう言えるんだよ」
私は眉をしかめた。
「ケンショーにとってはさ、声なんだ。結局全部。声さえ気に入ったら、外見も性別も何も関係ないだろ。その声が欲しくてこれでもかとばかりに迫るんだ。だけど、手に入れられないのは困るから、無理強いはしない。手に入れることが、何よりも大切だから、それが駄目になってしまうようなことはしないんだ。あれは天性だよね」
……そう…… なんだろうか。私はそんな兄貴の姿は知らない。
「で、結局、ほだされてしまうのは、こっちなんだ。俺が、そうなってしまったんだぜ? のよりは女だ。男の俺すらそうなってしまう勢いだっていうのにさ、のよりがそれを拒めるとは思わないよ。別にケンショーは嫌いなタイプじゃないんだ。あいつ」
「そうなの?」
「だから、美咲ちゃんには絶対に掛からないから」
だから判らないんだよ、とハコザキ君は続けた。それは、私が彼の妹だから、ということだろうか。それとも声が対象外、ということだろうか。