「はい?」
扉ののぞき穴から見えた姿に私は首を傾げた。タンクトップの上に、半袖シャツを一枚引っかけただけの姿。
「ハコザキ君?」
扉を開けた。夏。八月の暑い夜。毎日毎日、天気予報では明日の気温は30何度、と繰り返す。今夜も熱帯夜だった。夜明け前だというのに、こんなに大気が湿っている。ねまきにしている長いTシャツの背中がじっとりと張り付いている。
そう、夜明け前。時計を見ると、まだ四時台だ。雨だれのように時々聞こえたチャイムの音で目が覚めた。
半ば夢うつつの状態で、非常識な、と怒る理性と、何かあったのかしらと考える気持ちがせめぎ合いながら、それでも扉に向かっていた。何度か無視しようかと思ったのだが、そのたびにぴんぽん、と一滴、チャイムが鳴ったりするのだ。
いたずらだったら本格的に無視するか、警察を呼んでやろう、と思いながら、扉ののぞき穴から通路を見たのだ。そうしたら。
「……」
ハコザキ君は、何とも言えない表情で、そこに立っていた。
「どうしたの、こんな時間に…… 兄貴に何かあったの?」
彼は黙って首を振った。口元が、笑っているように上がる。
「え…… と、ごめん、美咲ちゃん、ちょっと、お金、貸して欲しくて。もちろん後で返すから」
「お金?」
「財布、忘れてきちゃって」
忘れてきて、って。こんな時間に。何がどういうことなのか、私にはよく判らない。
「何処かに行くの? それとも、何処かに行ってきて、鍵忘れたの?」
ううん、と彼は首を横に振る。どうにもこうにも言いにくそうだ。
私はとにかく入って、と手招きをした。こんなところで、こんな早朝話をしているのはご近所迷惑というものだ。一番のご近所のサラダはそう簡単に目を覚まさないことは知っているが。
「クーラー、点けないんだ」
入った途端、彼はそう言った。うん、と私はうなづいて、彼をキッチンの椅子に座らせる。
起きたばかりのベッドのある部屋には、何となく入れたくなかった。私のにおい、と言うべきものが、六畳の部屋の中に漂っている。網戸にして開け放した窓から抜けてくれるまでは、ハコザキ君をこの中に入れたくはなかった。
ベッドを直して、網戸もすっぱりと開け放してしまう。背中を風が通り抜ける感触があった。
ちら、と振り向くと、椅子の上にちょこんと座る彼は、いつも以上に小柄に見えた。
「コーヒーでも入れる?」
私は問いかけた。え、とその時彼は弾かれた様に顔を上げた。
「暑い時に熱いコーヒーってのも悪くないわよ。それとも濃く入れて、氷コーヒーにする?」
「あ、熱い奴でいい」
「眠いの?」
また問いかける。どうも視線の具合が頼りない。私はそれ以上は問わないで、黙ってコーヒーメーカーに豆をセットした。ゆっくりと、香りが漂ってくる。
「あ、それあそこの」
彼は顔を上げた。え、と私は問い返す。
「こないだ、行ったんだ。最近流行なのに全然知らないからって」
誰がそんなことを言ったの。判るのに、私はそう問えなかった。
「やっぱり流行りものって、活気があるよね。俺結構流行りものって好きなんだけど、ずっと忘れてた。凄いよね、カップがさ、Mサイズ、ううんあそこじゃMじゃなくてトール、だっけ? 360ミリリットルもあるなんて知らなくってさ、何か判らないもの頼んだら、無茶苦茶甘くて、口が曲がりそうだった」
きっとあのコーヒーショップのことを言っているのだろう、と私は思った。
雨後の筍のようににょきにょきと現れてきている、エスプレッソの店。
私も結構好きで、あちこちの支店を見つければ入って、そこの濃いコーヒーやら、やたらにでかいスコーンやら、サーモンにクリームチーズのベーグルサンドを食べたりしている。
無茶苦茶その味が好き、という訳ではなかったが、雰囲気が好きだった。ハコザキ君の言う「流行りもの」的な雰囲気も好きだったのだ。
はい、と私は適当なマグカップにコーヒーを入れて渡す。ミルクと砂糖は、と聞くと、両方、と彼は答えた。
私も自分の分を入れる。眠気覚まし半分だ。今日が休日で良かった、と正直、思う。土曜日だ。昨日は確か、彼等はライヴがあったはず。
「打ち上げ、ずいぶんかかったの?」
「いいや」
彼は首を横に振った。
「打ち上げは、そんな長くは掛からなかったんだ。一次会で、いつもの安い飲み屋でごはんがてらに呑んで食べて…… いつもの通りだよ」
彼等は世に出る前のバンドマンがそうであるように、貧乏だった。
そうなるとおのずと、呑める場所は限られてくる。ハコザキ君はそれでも地元民であるから、兄貴やオズさんのような上京組ほどは貧乏ではないはずだけど。でもバンドのメンバーを全部かき集めて四で割れば、やっぱり貧乏だ。マドノさんだって、確か上京組だ。
「一次会、ということは二次会があったの? 珍しい」
うん、と彼はうなづいた。
「オズさんの彼女…… なのかな?
……バンドマンで普段音楽に浸かってる奴も、カラオケに行きたいものなのか。
「まだ歌い足りなかったの?」
「俺は足りてたよ」
ところが、と言いたそうな顔をする。だけどその続きを、どうしても言いにくそうだった。
「誰かが、言い出したの? 兄貴?」
「や、のよりの奴が」
「のよりさんが?」
あまりそういう感じには見えなかったのだが。大人しそうな――― 若奥さんという感じの。
「あいつ、ああ見えても、歌うの好きなんだ。だから俺とも、良く昔は行ってて」
そう言えば、確か兄貴がこの畑違いのひとを連れてきたのは、何処かで歌声を聞いたから、らしい。それがカラオケであった可能性は高い。
「で、ケンショーの前で、歌いまくって」
彼は喉を詰まらせる。
「奴の目が、いきなり真剣になったんだ。俺は正直、怖かった。こんな目、俺、見たことがあったんだ。ずっと前」
「ずっと前?」
「俺を、見つけた時」
思わず私はマグカップをワゴンの上に置いた。くすんだ色のコーヒーが跳ねた。それって。
「どうして、そんなこと」
判るの? そう聞く前に彼は遮った。
「判るよ。だって、俺は彼を見てたから。だけどケンショーの目はもう俺を見てなかった。のよりの方を向いてた。俺には判る」
断定する。