初めて足を踏み入れたライヴハウスは、ひどく狭苦しいところだった。入った瞬間、あちこちで吸われている煙草のにおいが鼻についた。
オズさんは楽屋に通じる扉から手招きすると、後ろの方で見ておいで、と言った。このひとは最初に会った時から親切だった。兄貴と一番付き合いが長いメンバーだというのだから、全くもってよく出来た人だ。感心する。
「後ろの方」に回ろうとして、何となく私は周囲の視線を感じた。だが当初それが何なのか、私にはよく判らなかった。
カウンターでウーロン茶を買って、ちびちびと呑みながらライヴの始まるのを待っていた。
退屈だった。知り合いも居ない。かと言ってそこでわざわざ喋る相手を作ろうという性格ではなかったし、流れている音楽は私の趣味ではない。
打ちっ放しのコンクリートの壁は、湿ったにおいがしたし、エアコンも効きすぎで、半分むき出しの腕は少し鳥肌が立っていたくらいだ。
やがてフロアが暗くなり、ステージに人の気配がし始めた。近くに居た女の子達が移動する気配があった。私はそのままぼうっとステージを眺めていた。
兄貴と違って私の目はいい。勉強や仕事で酷使してると思うのだが、よほど目の回りの筋肉が強いのか、視力が落ちる気配はない。
暗いステージの上に目を凝らすと、右側に、見覚えのある金髪が居た。相変わらず悪趣味な恰好だ、と思った。
やがて、フロアからの一人の声を皮切りに、メンバーの名が次々に呼ばれ出した。
ハコザキーっ。
オズさーん。
マドノさーん。
ケンショーっ。
ケンショー?
私は眉を寄せた。誰だそいつは。ステージには四人。ハコザキ君がヴォーカル、オズさんがドラムスということは知っていた。マドノさん。ああそうか、とこの間オズさんから「円野さん」という人を紹介されたことを思い出した。
と同時に、私は兄貴の名前が憲章、だったことをやっと思い出した。
一致しなかった。私にとって兄貴はノリアキ、なのだ。
憲章だから音読みでケンショー、なのは確かなんだが、少なくとも私はそんな名で呼んだことは一度たりとてなかった。
オズさんも私には、加納が加納が、と名字で彼のことを呼んでいた。なるほどノリアキ、だと何処かのお笑い芸人の様だ。ケンショーねえ。私は眉を片方だけ上げて、ストラップの調子を確かめている兄貴を眺めていた。
やがてライトが点いて、ドラムスティックが幾つか鳴った。
前方でゆさゆさと女の子達が揺れ出す。おや。
その時の私の表情は、結構鳩豆だったかもしれない。
あらあらあら? ポップではないの。
思った以上に、兄貴のギターは大人しかったのだ。
それはもちろん、私がよく聞くようなポップスの「大人しい」とは違う。そういうのと比べれば、格段にうるさい。だが、彼がよく聞いていた音楽に比べれば、ずいぶん静かだった。
と言うか、「歌もの」だった。
割と小柄なハコザキ君は、マイクを手でもてあそぶようにしながら、叫ぶでもなく、気取るでもなく、ただふわふわと歌っていた。
決して上手い、という歌ではなかった。ただ、変に絡みつくような感触があった。
着ているものも、普段着の延長のようなチェックのシャツと、黒の革パン。それ以外何の装飾も無い。髪は短い。と言うか、伸びかけ。染めても色を抜いてもいない。一体何処から連れてきたんだ、という普通の男の子だった。
実際その「普通の男の子」はまだ何処かぎこちなかった。
歌っている時だけはのびのびしているけれど、歌が終わってしまうと、どうこの空間を扱っていいのか、戸惑っていた。所在なげに、他のメンバーに目で助けを求めたり、意味も無く笑おうとしていた。私はそれに気付いた時、思わず苦笑した。
素人に毛が生えた程度、と言ってもいい。
ただ、一度だけ、どき、とする瞬間があった。
今日はこれが最後です、とハコザキ君が言って始めた曲は、激しい曲だった。この日彼等が演奏したのは八曲だったが、その中で一番激しい曲だった。兄貴もここぞとばかりにばりばりに手を細かく動かしていた。
オズさんはあちらにこちらに手を忙しく動かしていたし、ベースはベースでリズム隊、というのはやや違った音の動かし方をしていた。
その上でハコザキ君は漂っていた。
そんな激しい曲の中で、身体をゆったりと揺らせていた。首をゆっくりと回した時、汗ばんだうなじが視界に入ってくる。そして少しだけ前に落ちかけた髪を指で煩そうにかき上げた時。
ほんの少しだけ、笑った。
どき、と心臓が飛び跳ねた。
一瞬なのだ。ほんの一瞬。
その瞬間だけ、ハコザキ君は「普通の男の子」ではなかった。確信犯の、正気の目をしていた。
どうしてそう感じたのかは、判らない。ただ、その表情に気付いてしまった時、彼の声と彼の動きと彼の言葉はいきなり私の中でかちりと音を立ててはまった。
気が付くと、前の方に寄っている女の子達は、そんな彼の方を見てじっと立ちすくんでいる。それまではずっと踊っているかのようだったのに。
なるほど、と私は思った。