ありがとう、と礼を言う彼の背をしばらく老人は眺めていたが、やがてふう、と香の煙を吐き出し、中身を捨てた。
やがてゆっくりと、通りの店のあちこちから、老若男女、買い物をしていた者、売る側に回っていた者が老人の周囲に集まってくる。
「…地区長、あの方は」
魚屋の恰好をした男が、低い声でつぶやく。
「おそらくは、ここに『用事』があられたのだろうな。…と言うことは」
集まった者建は無言でうなづく。老人はその中の一人に先ほど彼から受け取った「裏地」に模した亜熟果香を差し出す。
「出所を突き止めよ」
は、と先ほどまで漢方薬の店番をしていた男は頭を下げた。
「我々は、どの様に動けばよろしいでしょう」
まあ待て、と老人はおごそかな声で告げる。
「あの方が動かない限り、物事が進まない。しかし、囲みは縮めておいたほうが良かろう。マオ」
「は」
「二番地五十六のイェ・ホウの周囲を、お前とお前の配下で固めよ。それからランシャ」
「はい」
花を売っていた娘が、ハスキイな声で答える。
「あれの姉を、先に保護しておれ」
了解、と娘はすぐに身を翻した。
ほんの数分のことだった。散会する彼らは、如何にも町内会の集まりか何かの様に和気あいあいとした喋りを再開していたので、通りかかる者には何が起こったのか判らない。
*
「二番地五十六」
言われた番地を、Gは口の中で転がす。
その番地の印刷されたプレートをはめてビルが、彼の目の前にあった。
高い、ひびの入ったむき出しのコンクリートのビルは、建てられて、最低六十年は経っているだろう。これでもかとばかりに突きだした鉄製のベランダは、ペンキもはげ、さびが浮いている。
全体のデザインはどこにもあるインターナショナル・スタイルである。入り口にちょん、と取りつけられている龍の形をした常夜灯が、それを建てた者の出を表しているかの様だった。
ちょうど階段を下りて来る子供が居たので、彼はにっこり笑って問いかける。
「ねえ君、ホウって子を知らない? 君くらいの」
「え…」
じっと見られた子供は顔を赤らめる。
「え、えーと、…六階の、六号室」
どうもありがとう、と彼は再びにっこりと笑いかける。子供は赤らんだ顔が更に赤くなる。どうしたのだろうな、と彼は思う。いつもと同じ程度の作り笑いしかしていないというのに。
何度も塗り直したであろう白い壁を横目に、彼は階段を上り始める。漢数字の三や四の文字に、何となく目が落ち着かない。文字と言うより、模様に見える。意味は判るのだが。
しかし。
上り始めてGはふと考える。いつもの様に、自分が降ってきた場所そのものが既に何らかのトラブルのまっただ中であるならともかく、…いきなり扉を叩いて、危険が迫っている、と言っても。
怪しまれるのがせいぜいだろう。
かと言って、トラブルに巻き込まれていくだろう少年をむざむざ見殺しにもできないことだし…
考えているうちに六階に着いてしまった。少し広めの共有空間を横切ると、そこには長い廊下があった。一つの階に、一体何部屋あるというのだろう。
外から見たあたりでは、二十ほどの窓があった。一つの窓に、一つの家族が住んでいるのだろうか。
扉があちこち開け放ってある。不用心と言えば不用心だ。しかしこの湿気の多い街で、部屋の中に風を通さないというのは、病気を呼び込みかねない。
そんな開け放たれた扉の一つから、殆ど奇声と言ってもいい程の声を上げて、子供達が数名、一度に飛び出してくる。
子供のエネルギーというものはとんでもないものだ、と時々Gは思う。彼の横をすり抜けていくその勢いは、予測が立てにくい。彼は思わず立ちすくんでしまう。
「できるだけ早く戻って来いよ!」
扉から、一つの声が飛び出す。Gははっとしてその声の方向を向いた。
十四、五歳くらいのやせ気味な少年が、こちらを向いていた。
「誰かこの階の人に用?」
少年は声を張り上げる。ああ、とGは相手の声とも自分の考えともなく、うなづく。
「…人を捜してるんだけど」
「誰だよ」
少年は扉から廊下へと出てくる。白いランニングシャツに、黒い短パンを履いて。この気候だったら、それは非常に合理的な恰好だった。
「ホウって子だけど」
「…ホウってのは、結構たくさん居るんだぜ、綺麗さん」
Gは肩をすくめる。ここでもそう言われるのか。
「イェ・ホウ」
少年の眉がぴん、と上がる。
「君だろ?」
途端に少年の両肩が退く。
「…だったら、何だよ。俺に何か用なの?」
「用… そうなんだよなあ…」
Gは思わず天井を振り仰ぐ。下手に取り繕ったところで仕方が無い。
「君、さっきあのレンガの店の脇のゴミ箱に何か捨てたろ?」
「何のこと?」
おやおや、とGはその白ばっくれ方にふと微笑ましいものを感じる。あの余裕たっぶりな奴も、昔はこんな時代があったのだな。
「別に知らないならいいけど。ただ、少しあれには危険なものが挟まってたからさ」
「危険な?」
相手の表情が30%程翳る。自分はちゃんと調べたはずだったのに、と言う気持ちが渦巻いているだろうことがGには露骨に判る。
「…例えば良質の亜熟果香とかさ」
「!」
少年は瞬間、唇を歪めた。
「…へえ。そういう物騒なものがあったの?」
「知らない?」
「知らないなあ」
ふうん、とGはにやりと笑った。そのまま一歩、二歩と少年に近づいていく。
「まあ別に、君が知らないならいいけど、もしそうだったら大変なことが起きるだろうなあ、と思ってね」
「何だよその大変なことって」
ことさらに平静をつくろって、少年はGに問いかける。他人事の興味の様に聞いているが、目が笑っていない。
「いや、でも想像はできるんじゃないかい?」
別に君が関係ないならいいんだけど、とGは付け足す。少年はう、と声を漏らす。
「…どうしてあんたは、そんなことを知ってるんだ?」
「君がそうなの?」
「そんなこと言ってない! だけど、あんたが拾った財布に、そんなものが入ってたのか? それ、どういう風に隠してあるったんだよ」
「裏地さ。裏地の糸の一本一本が、上質の香になってる」
微かに少年の目が細められた。
「なるほど、そういうこともあるんだね。じゃあこれからは気を付けるさ」
「強情だなあ」
少年ははっとして、扉の中に入ろうとしたが、相手の方が上手だった。
開けようとした瞬間、その手が取られた。
ぐい、と腕をひねられる。何故自分の身体が相手の真正面にあるのか、少年には理解できない様だった。
「別に俺は君をどうこうしようってんじゃないんだよ」
「だから俺は」
「あいにく見てたの、俺は」
かっ、と少年の顔に血が上る。その隙を捉えて、Gは少年の瞳を捕らえた。
視線が合う。
相手の目は、自分から逃れられない。
「…あれで暮らしを立ててるのか?」
ぶるぶる、と少年は首を横に振る。
「遊びか?」
「…違う!」
スリ・かっぱらいが決して正しい、とはGは思っていない。
だがそれしか生きて行く手段が無い時だったら別だ。
それしか無いのなら、それは仕方が無いだろう、と。危険を伴う行動だったとしても。
だがその危険を冒してでもそうしなくては生きていけない。そんな時、どんな正論も何の意味も為さなくなることを、彼はよく知っているのだ。
「遊びだったら」
「だから遊びじゃない!」
「じゃあ何だ?」
彼は少年の首筋に手を這わせる。どくどく、と血管が脈打っているのが判る。
「…仲間がいる?」
はっとして少年は、目を大きく広げた。図星だろう。
「仲間との活動資金?」
「…」
少年はぐっと歯を食いしばる。何だって初対面の人間に、こうもいちいち暴かれていかなくてはならないんだ。無言の視線は雄弁だった。
「別に俺はどうしろとは言わないさ」
「…じゃあ」
「気を付けろ、と俺は言いに来たんだ。遊びの延長で組織作りごっこなんかするんじゃない」
「遊びじゃない!」
「そう、遊びじゃないんだよ、組織作りは。学校の班活動じゃあないんだ。キッズ・ギャング気取りか?」
少年は震える。掴まれた肩に力がこもる。
「…だから一体…」
「お前はね、イェ・ホウ、亜熟果香なんか秘密に運んでる奴の邪魔をしてしまったんだよ」
「…」
「お前がどう思おうと、それは、そいつの取引を邪魔したことになるって言うことだ。つまりお前が、その邪魔する側の人間だ、と思われて当然ってことなんだよ」
「…だけど俺は…」
「お前の目的が金であるとか財布の表地であるとか、そんなのは、相手の知ったことじゃないんだ」
少年の顔がくしゃ、と歪む。
「…だけど」
「何?」
「俺達には、金が必要なんだよ!」
少年は拳を握りしめる。
「何大声出してるのよ、ホウ」
扉の中から女の声がした。
「ね、ねーちゃん… ごめん、起こした?」
「どっちにしても、そろそろ行かなくちゃならないでしょ、時間…」
「だからその時間まで、寝てて良かったのに」
ふい、とGは位置を変えて、扉の中をのぞき込む。少年と何処となく似た女性が、起きたばかりなのだろうか、柔らかそうな髪の毛をふわふわと首筋に絡みつかせていた。
「少し早いけど、行ってくるわ。…お客様だったら、入ってもらいなさいな…え?」
視線が合う。Gは反射的ににっこりと笑いかけた。少年の姉は、真っ赤になって凍り付く。
「初めまして」
おそらく少年は、自分のやっていることを、この姉にはそう知られたくないのだろう。Gと姉を見比べては、何と言ったものか、とまごついている。
「…今から私、病院に行ってきますの。弟とまだお話があるなら、立ち話も何ですし… 中へどうぞ」
「いえ、そう長い時間は」
そしてまた見事に微笑みかける。姉娘は小さなバッグを持った手を思わず胸に当てる。
「…それじゃ、行ってくるわね」
「気を付けてけよ、ねーちゃん。変な奴が多いんだから」
「大丈夫よ。近いんだし」
「…うん、じゃあ、もし何かあったら、絶対に、いつものアレ、鳴らしてよ」
「判ってるってば」
姉娘はひらひら、と手を振る。イェ・ホウはその後ろ姿を見送りながら、しばらく黙っていた。
「…中に入る?」
*
「ずっと、病気なんだ」
Gの前にとん、と茶碗を置きながら、イェ・ホウは言った。
「別に何処かがすごく悪いとかそういうのではないんだけど… ただ何か、ずっと起きてることができなくて」
「ああやって病院に行く時だけ起きてる?」
「まあね」
「親は?」
「居たはずなんだけど… いつの間にか、消えてた」
「消えて?」
「この街では、よくあることだよ。それに、姉貴のこと、ずっと何か、ぶつぶつ言ってたし」
「…ふうん」
それで、金が必要なのか、とGは納得する。
「俺だってさ、一応、ちゃんとした仕事もしてるんだぜ?」
「へえ?」
何の仕事、と彼は問いかける。
「料理店で、皿洗いや買い物。そんなことしか、俺くらいの歳じゃできねえもん」
「将来は、じゃあ料理人なんだ?」
くす、とGは笑う。確かに、今口にする茶も、決して悪くはない。素質はあったのだろう。
朝食をそこで取ったのだろう、まだ調味料や、粥の上に乗せる漬け物がテーブルの上には残っていた。少年はGの向かいに腰を下ろした。
「…うーん… 別に料理人になりたいって訳じゃあないけど」
「他に、なりたいものがあるの?」
「判らない。まだ俺には、そこまで考えられない」
なるほど、とGはうなづく。
「…って何で俺、あんたにそんなこと言ってるんだよ。そうじゃなくてさ」
「何?」
「…だから、とにかく、ここには、そういう奴が多い、ってことだよ! 親が居なくて、それでも生きていかなくちゃならないガキってのがさ」
「さっきの連中?」
「そうだよ」
少年はきっぱりと答える。
「皆そんな、スリやかっぱらいなのか?」
「そんなのばかりじゃあないさ。皆自分のできることをやってる。使い走りとか、広場の饅頭売りとか。ただ、それだけではやっていけない時、俺達は、持ってそうな奴だけ狙ってやるんだ」
「なるほどね」
それはそれで、一理あるだろう、と彼も思う。きれい事だけでは食ってはいけない。
「…だけどあんたの言うことも…」
ぶるぶる、と少年は首を横に振る。
「うん、危険は俺も嫌だ。…でも、どうしたらいい?」
顔を上げる。
「仲間に火の粉が降りかかる前に、俺に何ができる?」
イェ・ホウは身を乗り出した。