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第26話 Mの記憶、そして彼の敵の「帰還」

 枯れた手が、弱々しく、差し出される。

 色あせた金色の髪が、寝床の上に力無く投げ出されて。


「今からでも遅くは無いというのに」


 聞き覚えのある声が、低く、響く。

 今からでも遅くはないのだ。

 そう言いたいのだ。声の主は。今からでも。この惑星の先住者と、融合すれば、生きていられるというのに。ずっと、皆と一緒に。

 自分と一緒に。

 そうしたら、また一緒に、生き抜く為の戦いを続けよう。きっとまた、苦しくとも、何処か光り輝いていた時間が息を吹き返す。


「何故だ?」


 答えは、無い。枯れた指は、黙って声の主の指に指を絡める。

 もはや、その身体の何処を探しても力など残っていないというのに。

 それでも、精一杯、その指を動かして。

 答えを聞きたい、と声の主は思っている。その声で、自分を強く罵って欲しいと思う。自分の選択は間違っていない。間違っていてはいけないのだ。

 なのに。

 声の主は、相手の手を強く握る。

 他の誰でもなく、お前だけには。お前が生き残って欲しかったから、自分は。

 ひどい指導者だ、と声の主は思っている。所詮は誰のためでもなかったのだ。

 少しでも多数の仲間を生きる道へと走らせる。それは名目だった。そうすれば、この目の前の相手も、そうせざるを得ないだろう。

 他の誰のためでもない。ただこの仲間のために、彼は、そうしてきたのだ。

 しかし目の前の相手は、頑なにそれを拒んだ。自分は人間だ。人間であり続けたい、と。

 その相方だった奴と共に、その道を選んだ。

 勝手にすればいい、とその選択を聞いた時、声の主は答えた。それ以外どう答えたべきだったろう?

 今にも重力に負けそうなその手を強く握りしめ、引き寄せながら、彼は口に出せない願いを心の中で叫ぶ。生きて欲しいお願いだ。

 それが叶うなら。

 …しかし相手は、ほんの微かに首を動かした。

 そして、子供の様に、笑った。


 …………………


 雪の上に、赤が飛び散っていた。

 決着がついたのだろう。燃えた船が雪で次第に冷えていく。煙があちこちでたなびいている。

 ざくざく、と慣れない雪を踏みしめながら、彼は一つの場所を目指していた。誰も来ない様に、と軍用車で待機している部下には命じていた。誰にも話を聞かれたくは無かった。

 再会の当初、何故それがそこに居るのか、彼には判らなかった。

 「それ」に最初に出会ったのは、まだあの小さな太陽系に、これでもかとばかりに無理な植民やコロニーを作り、人々が生き延びようとしていた時代だった。

 古い良き時代だ、と彼は思う。

 地球だった。あの小さな島国だった。今はもう、その痕跡すら、探すのに難しい、小さな、失われた国。

 その小さな国が、更に小さな国々に分かたれていた時代に作られた建築物。

 夜だった。なま暖かい風が、季節の割には早く吹き込んでいた夜だった。

 月はおぼろで、大気はゆるゆると動き、時にふわりと地に降りた桜の花を舞い上げた。

 背中が、ぞくりとした。

 まだほんの、本当に子供だった彼には、それは意味も無く恐ろしいことの前触れの様にも思えた。

 一人で夜に出歩くのではありません。大人の言うことをちゃんと聞いておくべきだった。おびえながらも、それでもその建築物の横を通り抜けなくては、目的の場所にはたどり着けない。気を確かに持って、彼は足を進めた。

 その時不意に。

 蛍光の常夜灯に照らされた花と緑は、昼間の光よりもその存在を増す。

 だから、それは花か、とその時彼は思った。

 その足取りが、あまりにも、宙を舞っている様で。

 子供の彼は、立ち止まった。

 息を呑んだ。

 立ち止まっては、いけない、と理性は命令する。そのまま歩き続けて、通り過ぎてしまえ。

 なのに、足は止まってしまった。目が離せなくなってしまった。

 青年の様な、少年の様な、少女の様な。

 どれと言っても、間違っていない様な、それでいて、全て間違っていそうな。

 月明かりに浮かぶ顔は、怖いくらいに整っていて、色の白さが、浮き上がって見えた。

 その唇が、動いた。


「俺に何か用か?」


 予想よりは低い声が、囁く様に、歌う様に、彼に問いかけた。


「こんな時間にガキが居るんじゃないよ」


 足がすくんで、動けない。


「それとも、道に迷ったか?」


 どうでもいいか、とその声は続けた。そこで、すり抜ければ、良かったのに。

 その目をのぞき込んでしまったから。

 得体の知れない悪寒が子供の彼を襲った。

 じゃあな、と行き過ぎようとする「それ」の、無造作に乱しているシャツの裾を思わず掴んだ。

 何? と相手は煩そうに振り向いた。


「迷子か? 出口はあっちだ。真っ直ぐ行け。俺は眠いんだ」


 風が吹く。桜の、花びらが舞い上がる。


「何処で、あなたは眠るんだ?」


 およそ子供らしくない質問が、口をついていた。だが「それ」が黙って指さしたのは、その建築物だった。


「邪魔しないでくれ。俺は本当に、眠いんだ。もう、眠らせてくれ。誰にも邪魔されたくない。もう、誰にも会いたくない。忘れてしまうくらい長い長い間、眠っていられるのはここしか無いんだ、俺には」


 その時、空間が、ゆらいだ。

 闇が開いた。抱きしめられる様に、「それ」は闇に吸い込まれて消えた。

 自分が、まず滅多に見られない怪異の者に出会ってしまったのだ、と彼は自覚した。諸手をあげて、彼は逃げ帰った。

 強烈すぎる、その記憶は、ずっと彼の記憶の底にしまわれていた。

 しかし、どういう訳か、その怪異そのものが、彼の目の前に現れた。

 空似であろう、と彼は思った。それ以外の何であろう? 

 既に共通歴は、529年になっていたのだから。

 しかし不敵にも、天使種の軍隊の総司令室に忍び込んだ「それ」は、言ったのだ。協力を要請する、と。


「レプリカントを、この全星系から絶滅させてくれ」


 利害は一致した。

 そしてその結果が、足元に、ある。


「やあ久しぶりだね」


 乾いた声が、奇妙に冷静だった。人工血液を身体の表面の至る所にまき散らしながら、それでもその声はまるで変わることが無かった。


「君との再会はいつも変わった時だよね。最初は地球だ。まだ君も宇宙に出る前だったね。そして次に会った時、君は最高の天使種になっていた」


 彼は首を横に振った。喋るな、とその行動に含めた。だが反乱の首謀者はそれには応じなかった。目を半ば伏せて、それでもはっきりした声で言った。


「もうじき放っておいても声は出なくなるさ。それまで俺に喋らせておいてくれ」


 なら仕方がなかろう、と彼は思った。最期の願いなのだ。

 最期の願いなら、聞くしか無い。もう自分はその相手に対して、それ以上できることは無いのだから。


 あの金髪の男は、生きろ、と。

 そう、彼に、伝えた。

 何があろうと、生きてくれ、と。


 残酷な、願いを。


 彼は死にゆくレプリカントの首領の手を取ったまま、離そうとはしなかった。

 レプリカントはこう言った。


「…頼みがあるんだ」

「何だ?」

「もし、見つけたら、君の手で守ってやってくれないか?」


 何を、と彼は問いかけた。その答えは、手から伝わってくる。

 長い、栗色の髪の青年の形をしたレプリカント。たった一人、自分の―――「人間の」命令がまるで効かないレプリカント。俺のせいだ、と声にならない首領の思いが手を伝わってくる。


「生きているはずなんだ。四散した気配はない。何処に居るのか、今の俺にはもう判らないけれど、ただそれだけは判る。あれはこの世界で、生きるだけの価値と生命力を持っているから」


 彼はそれに応えるべき言葉を見失った。


「そして俺は、奴にもう何もしてあげられないから」


 最期の願いには、応えなくてはならない。


 残酷だ、と彼は思う。


 …………………


 閉じた瞳に、問いかけた。


 ここから出たいか?


 瞳は開かない。開け方を忘れてしまっていた様だ。


 出たい!!


 惑星スワニルダの博物館の、ショウケースの中。栗色の長い髪を持った「それ」は、それでも問いかけに答えた。


 お願いだここから出してくれ。

 俺は動きたい。

 目を開きたい。

 外の世界を見たい。

 誰かと話したい。

 俺は、生きてる。

 俺は、生きてるんだ!


 探すのには、結構な時間がかかった。

 たとえ最期の願いだとしても、戦争はまだ続行していた。運が良ければ、生き残っているだろう。そのくらいの気持ちがあったことは否めない。何せ戦争だったのだ。

 忘れかけていた、と言ってもいい。

 だが、それは呼んでいた。視察に来たその惑星の、決して惑星を代表する訳でもない、その博物館から、それは呼んでいたのだ。

 その声が、彼の足を止めさせた。

 応えてくれる誰かを、ずっと待っていた「それ」の前に。


 誰か。


 泣き叫ぶ様な声が。

 生まれ落ちた赤ん坊が、母親を求める様な、そんな声が。


 誰でもいい。

 誰でもいいんだ!


 そしてその声は、こう続けた。


 俺を出して。自由にして。

 それができないなら。

 ―――俺を、殺して。


 彼は立ち止まった。動く訳でもない。表情一つ変える訳でもない。その「標本」もその姿勢のまま、何一つ動く訳ではない。

 彼はしばらく「標本」を黙って眺めた。少なくとも、彼の部下にはそう見えただろう。彼を来賓と仰ぐ地元の有力者達も、見える光景に変わりは無い。

 やがて彼は、言った。


「この標本を、もらおう」


 言われた側は、言葉の意味がすぐには分からなかった様だった。彼は二度、問い返された。


「私に何度同じことを言わせる?」


 「標本」はすぐさま運び出された。

 それ以来、惑星スワニルダの人々の口から「標本」に関する話が出ることは無くなった。


 人懐こい、色素の薄い目は、開いてからも、その願いを彼に訴えかける。

 もしもまた、俺が標本にされる様だったら、その時にはあなたが俺を殺して。

 それはできない、と彼は思う。それがあの首領の最期の願いなのだから。最期の願いは、守らなくてはならない。

 生きろ、とあの男は言った。何て残酷な願い。

 死にたい訳ではない。殺されたい訳てもない。

 ただ。

 その時には俺を消去して、と標本だったものは言う。それはできない、と彼は答える。答えざるを得ない。

 そのたびに、「それ」は、悲しそうな顔で、彼を見た。


 …………………


 起きろ、とその時彼は言った。

 そこに、ほんの微かだが、気配があった。

 そんなはずは無い、とそこにもし医者が居たなら言っただろう。

 だがその遺体安置所に入った時。


 誰か。


 凶暴な声の様に、彼には感じられた。

 決して強くは無い。もうその力はこの肉体には残っていない。かろうじて残されたエネルギーを、たった一つの思いに凝縮して、開いた扉に向かって放っていた。


 俺はまだ生きてる!


 生きたいか? と彼はその「遺体」に問いかけた。

 火炎放射器の炎が、一人の男を目の前の「遺体」に変えた。

 放ったのは、この遺体の「上官」だった男だった。

 しかし少し考えればすぐに判る。それはただの口封じだ。

 惑星クリムソンレーキは秋だった。街角に、遠くの山に、木々の葉が美しく色づいていた。

 最高の時期だった。収穫の季節。夏の強烈な暑さは退き、冬の厳しい寒さにはまだ時間がある。柔らかな日射しとさわやかな風、実った作物のみずみずしさ。新調される衣類。祭りの季節。

 なのに。

 彼はこの惑星にその時期、「視察」という名目でやってきていた。表向きの彼の身分において、それは時々必要とされた。クリムソンレーキには、当時、クーデターの噂があった。

 しかし、やってきたのはこの上ない来賓。迎える軍部も、クーデターどころでは無かったらしい。

 そこで、スケープゴートが立てられる。 

 上層部は、「反乱の首謀者」を、彼の目の前で焼いた。

 「首謀者」は叫びながら、何発か弾丸がめり込んだ身体のまま、自分の上司だった男に銃を向けていた。かっと目を見開き、そのまま視線で殺せそうな程に。

 「首謀者」は部下を助けに来た様だった。本人は一度、捕らえられた留置所から脱走したらしい。その位の腕が、この男にはあったのだ。

 彼の目には、「首謀者」の男は格別強そうにも見えなかった。ただ、行動の敏捷さには見るものがあった。

 しかしどう見ても無謀だった。相手の数が違いすぎる。一人で向かうには、攻撃だけでは無理なのだ。

 それまで捕まっていたのだ、と上層部は彼にわざわざ説明した。せっかく脱走したのに、戻ってくる能無しだ、と付け加えた。

 そうだろうか? 

 彼は動かさぬ表情の下で考える。

 確かにかなりの馬鹿の様だ。だがこの上層部に言われる程の馬鹿ではない。彼は思った。

 判っていて飛び込む類の馬鹿ではあろう。甘いのだろう。

 彼はその類の甘さは決して嫌いでは無い。表に出さないだけだ。

 彼の心をのぞくことが出来る者は、同じ天使種の中でも居ない。彼自身がのぞかせようと思わぬ限りは。

 本心は、いつもその白い、人形の様な顔の下に。無論その場に居た者に、彼の思いなど、判る訳が無い。

 彼がその遺体を見たい、と言った時にその場の皆が驚いた。

 彼がその遺体を持ち帰ったことは、その場の「上層部」は誰も知らない。


『赤に』


 その「遺体」は彼にそう言った。

 自分が何故生きてるのか、何故この身体で居るのか、いつもその事実を忘れないために。

 そのために、赤をその身体にまとわせてくれ。

 血の赤。炎の赤。

 自分が生きることを選んだことを、忘れないために。


 …………………


「嬉しそうだな」


 彼はある日、可愛がっている人形に問いかけた。

 いつでも何処か、泣きそうな、その瞳が、何処か違っている。気付いたのは、あの真っ赤な「銃」と一緒に行動させた後だった。


「判る?」


 人形は彼に笑いかけた。

 仕事が無い時には、この人形は彼の元に戻ってきていた。いつもの事だ。


「何があった?」


 問いかけには大した理由は無かった。

 ただ、大気を通して伝わってくるこの人形の気配が、それまでとは違っていたのだ。

 穏やかな、陽の光の様な。

 色素の薄い瞳は、いつも彼に向かって、何かを欲しがっていた。それが何と口にすることは無かった。人形自身も、それが何なのか判らないのだろう、と彼は思っていた。

 判らないけれど、泣きながら、手を伸ばして。それでも掴めない、何か。

 形の無い、何か。

 それを自分が与えられるとは、彼は考えていなかった。もとられても、与えられない。

 求めを無視していた訳ではない。


「絶対に奴には言わないよね?」

「奴?」

「あんたの、銃」


 ああ、と彼はうなづいた。決して会うのに乗り気では無かったはずなのに。どうやら上手くやっていたらしい。その時の仕事は上手く解決できた様であるし、「銃」もこの人形に関してはまんざらでは無かった様子だった。

 だから、「銃」には、この人形のねじが切れた時の「信号」を手渡した。

 責任を放棄している。そう考えない訳ではない。しかし自分には出来ないことだったら、誰かに託してしまう方がいい。「銃」に出来なかったなら、またその時考える。


「奴はさ、俺を殺してくれるって言ったから」


 彼の眉が、その時大きく上がった。

 人形は、やや伏せ目がちに話していたから、彼の表情の変化には気付かない。今までに無い、穏やかな表情が、そこにはあった。

 満たされた時の。

 ふっと、彼の中に、あの金髪の男の笑顔がよぎった。


「言ったのか」


 黙って人形はうなづいた。

 知ってはいる。この人形は死にたい訳ではない。殺されたい訳ではない。

 ただ、それ以上に、「標本」で居ることは、嫌なのだ。

 動くこともできず、誰かと意思を通じさせることもできず、長い長い間、一人きりで居るのが、嫌なのだ。

 それくらいだったら、完膚無き程に、自分をこの世界から消滅させて欲しい、と。

 それをずっと彼に求めていた。彼はそれをずっと拒み続けていた。約束は果たされなくてはならない。

 泣きそうな目で見られても、それだけは約束ができなかった。

 嘘でもいい。そう言われて、安心感が欲しいのだ。それだけなのだ。

 あんな孤独を味わわせるくらいなら、消滅させてやる、と。

 そんな、安心感。

 それでも彼には言うことができなかった。どうしても。


「馬鹿だねえ」


 ほらまた泣きそうな顔をしている。

 だけどそれは、飢えた赤ん坊の目ではなくて。


 …………………


「何故なのです?」


 似合わない頭だ、と彼は問いかけには答えずに口にした。相手は同じ言葉を口にした。


「私はあなたの意思に背いて、彼を殺そうとした。それについてあなたは何も私を糾弾しない」


 伯爵と、呼ばれる男は彼に問いかけた。


「何故なのです?」


 ことん、と音が静かな部屋に響く。チェスの駒を動かす音だけだ。彼は何も答えない。


「それとも、私には何も言うべきことは無い、というのですか?」


 そうではない、と彼は思う。ただ、それは予想されていたことに過ぎなかったのだ。


「…私はその昔、あなたに最初に出会った時、そのままの姿で時間を止めてしまえたら、と思っていた。しかしそれはしなかった。成長しない子供、は悲劇でしかない。私はあなたに会ったその瞬間を、流れる時の中のほんの偶然と、あきらめた。あきらめた、はずだった」


 膨らんでいるな、と奇妙に彼はそんなことばかり、考えていた。いつもきっちりと整えることが最大の美徳の様な、この男にしては、南国の音楽を専門にする芸術家めいた、その髪型は。


「なのにあなたは、私の前に現れた。それも、最初に出会った時より、もっと魅力的な姿で」


 何故だろう、と次の手を探しながら彼は思う。しかも服装すら、いつもの「伯爵」たる名前にふさわしい、そんなきっちりとしたものとは違う。褪せた焦げ茶を基調とした、ひどくカジュアルな上下に、赤の細かなチェックの柄のシャツ。


「あなたは私が自分の目の前に現れることを知っていた」


 ネクタイも、第一ボタンを外すことを前提としているかの様にゆるめている。そのネクタイの柄はビアズリー。


「私をその手の内に入れたのは、同じ時間を生きる者として、だとずっと思ってきた。違うのですか?」

「違わない」


 彼はその時初めて、短く答える。

 そう、間違ってはいない。この目の前の、アフロの男もまた、自分とさほど変わらないだろう時間を生きる者なのだ。

 ただ。


「伯爵よ」


 彼は、自分の心酔者に対して呼びかける。はい、と相手は答える。この男は、逆らわない。どんな恨み言を口にしようが、それは戯れに過ぎないだろう。


「あれは元気だったのか?」

「は?」

「Gは」

「…はい」


 伯爵は眉を寄せる。


「そして、私に対し、反逆しようとしているのだな」

「このままでは、そうなると感じられました」

「お前は」


 ことん、とビショップを斜め三つ前に動かす。


「間違っては、いない」

「彼が、反逆するということが、ですか?」

「そうだ」


 見なくても判る。今度はきっと、眉だけでは済まない。露骨に不快を顔に浮かべているはずだ。


「あれは、そういうものだ」

「反逆することが、判っていたというのですか?」

「当然だ」


 乾いた声が、ポーンを置く音と、同時に響いた。


「判っていて…」


 伯爵は、ゆっくりと、大股に、彼の対面に歩み寄った。


「判っていて、何故、彼を側に置いたのですか?」

「あれが、反逆する者だからだ」

「それは、あなたのよく言う所の、帝国と我々MMの関係の様なものですか?」


 同じなのですか、と伯爵はチェス盤の上に強く平手を置いた。からから、と音を立てて、駒が盤から転げ落ちる。


「巨大な唯一の体制を維持していくためには、『敵』が必要だ。あなたはいつも、そう言っていた。我々は、反帝国組織MMは、そのための集団だ。我々は、帝国の存続のために、存在するのだと。内部に存在する、帝国臣民にとって、何より脅威である集団。帝国が正義であるための、アンチテーゼとしての集団。それが我々なのだ、と」


 彼は黙って、伯爵を見上げた。…ああ、やはり似合っていない。


「そもそもあなたが盟主をやっていること自体、帝国とこの組織の矛盾そのものではないか。あなたは未だに、帝国軍の総司令の位置から退いてはいない。実際の指揮権はともかく、あなたという存在が、帝国で最も高いものであることは間違いないではないか」


 それは間違いが無い。彼は一度として、その位置から退いたつもりはなかった。


「結局はあなたは帝国のことしか考えていないのではないか。いや、それはいい。それは正しい。あなたはこの皇帝が存在しない帝国を建て、そして維持している。いつ破綻が起きてもおかしくはないこの巨大なものを維持するのだ、どんな手段を使っても、非難はできないだろう… しかし」


 ちら、と彼は相手を見る。


「何故その中に、あなたに反逆する因子を取り込んでおいたのだ? あなたには判っていたことだろうに」

「伯爵よ」


 彼はゆっくりと、立ち上がった。


「私には、あれが必要なのだ」

「必要?」


 意味が分からない、と伯爵は首を横に振る。


「あれは、私の敵なのだ」

「敵」


 まだ判らない、と両手を広げる。

 彼はそんな伯爵を横目に、デスクの上の端末に手を伸ばす。ぴ、と一瞬の電子音の後に、波の音を思わせるノイズが聞こえてくる。アナログなチューニングの果てに、ダイヤルは、一つの周波数に合わされる。


「そろそろだ」


 毒にも薬にもならない音楽が流れている。クラシックだ、と伯爵は思う。自分の昔、生きてきた時代にも流れていた。そして今の今まで流れている。懐かしい音。

 その音が、急に途切れる。


『…帝都方面中継局。各局、各方面、電波状態良好。受信コードは』


 伯爵は怪訝そうな顔になり、彼の方へと近づく。


「…この周波数は」

「お前も良く知っているはずだ」


 伯爵はうなづいた。それは、彼らの組織「MM」に正面切って抵抗、もしくは抗戦の意思を見せる、ある組織の地下放送のものだった。


「何を今更」

「まあ聞くがいい」


 彼はヴォリュームを上げる。ざわつく空気感。何処か、人が沢山集まっている場所だろうか。


『受信状態良好か? 全星系の我等が同志に告ぐ』


 決してその声は、強烈な強さを持っているという訳ではない。むしろ淡々としている。


『集結以来、長らく空席となっていた我等が党首が、とうとうその座についた。我等が待ち望んでいた彼が、我等の元に、戻ってきたのだ!』


 歓声が混じる。集会だろうか。その声はしばらく続いた。

 やがて歓声が、ひときわ大きくなる。絶叫すら混じる。

 だがそれが、何かの合図でもあったのだろうか。すっと退いた。


『ただいま。俺は、ここに、戻ってきた』


 伯爵は、目をこれでもかとばかりに大きく見開いた。 

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