止めなくては、と宿を出た彼は思った。
何を。考えられることは二つあった。
上空に居るだろう、戦艦を刺激する花火を止めること。
もう一つは、…亜熟果香そのものを流している現場を押さえること。
どちらが早いか。どちらが効果的か。
前者を今更止めた所で、それで攻撃を仕掛ける側の気持ちが変わるとは考えにくい。としたら、答えは一つだ。
ふわ、と何処からか、あの甘い匂いが漂ってくる。
落ち着いて、考えろ。Gは小走りになりながら考える。闇雲に走っても、仕方ない。情報は、何処で手に入る?
情報端末があちこちにあるというタイプの都市ではない。だからこそ、市民が気軽に集まって楽しめるカフェが…
カフェ。
そうだ、と彼は昼間の広場にと足を向ける。既に夜ではあったが、その方向を知るのは簡単だ。花火が打ち上がっている方向なのだから。
一体幾つの花火が用意されているのだろう。ひっきりなしに花火は空を明るく染めている。火薬の匂いが、強い。そしてその中に含まれている―――亜熟果香。
香のせいで人々が気分良く上げてしまったのか、単に反発の気持ちがあったのか。
Gは頭を振る。そんなことを言っている場合ではない。
光の方向へと走って行く。やがて、見覚えのある店が顔をのぞかせる。
夜になってもカフェは賑わっていた。いや、昼間よりも、ずっと人々は陽気に騒いでいる。コーヒーだけではなく、ビールのジョッキを手にした人々が、花火を見ながら、歓声を上げていた。
「…おや、君忘れ物かね? どうかね君、夕食をつけるから、ピアノを弾いていかないかね?」
ボーイ長は彼の姿を認めると、にこやかな表情を作る。作っている、と彼は思った。
「それもいいですがね… すみません、水をくれませんか?」
「水かね?」
「できれば、水道の水を」
動きかけたボーイ長の足が止まる。
「水道が、止まっているでしょう?」
「君」
ボーイ長は険しい顔つきになる。そしてこっちへ、と彼を厨房へと引きずり込んだ。シンクの中にはカップとグラスとソーサーが山になりかけている。
「…あまり騒ぎ立てないでくれ。ここはそれなりに名の通ったカフェなんだ」
「それは良く知っています」
彼女から、そう聞いたのだ。
「…だから、ここに来たんでず。ここがテロワニュの人々に良く知られてる様に、あなたはこの都市のことを、良く知っていますよね?」
「それなりに。君は何を私に?」
「水道局は何処ですか?」
Gはあえて短く問いかけた。ボーイ長は、何も言わず、あの新聞が置かれていた場所へと向かい、そこから観光客用の市内地図を一つ、とってきた。その隙にGは、そこにあったマッチをポケットに落とし込む。
「…現在地点がここだ」
都市の真ん中の広場。そこから道路が放射状に広がっていた。
「水道局はここだ。ここから、この都市全体の上水道につながるパイプが通っている」
「…この地図、いいですか?」
「ああ、この店には幾らでもある!」
ありがとう、とGは彼が示した場所にきゅ、と×印をつけると、四つに畳んでポケットに押し込んだ。
「…あれは、何だ? 君は知ってるのか?」
「あれ、ですか」
Gは目を伏せた。
「誰がどうしたか、は知りません。だけど、この先あれが、何という名で呼ばれるのかは、知ってますよ」
「何というのだね?」
「亜熟果香、と。身体にそう害は無いらしいけど、できるだけ吸わないで下さい」
「怪しいな」
「ええ全くです」
Gは苦笑し、じゃ、と再び走り出す。
ボーイ長はそんな彼の後ろ姿が視界から消えるのを確かめると、店内にある電話機を上げた。
*
「おっとごめんよ!」
「なーにやってんでぃっ!!」
幾人もの子供が、路地を走っていく。
その子供のポケットか、一束の爆竹がこぼれた。彼はそれを拾い上げる。無いよりましか。
現在着ている服には、何の細工も無い。ミントで手にしていた銃も、何処で落としたのだろう、手元に無い。武器になりそうなものはまるで無かったのだ。
子供達も、匂いに酔っている様だった。奇声を上げながら、爆竹を振り回しながら、文字通り飛び跳ねている。中には、パジャマを来た少年も居た。
次第に広がっている、と彼は感じてきていた。水道の蛇口は一軒に一つではない。あちこちの水道の、緩んでいるところから洩れてきているのかもしれない。いや、これが、広場の噴水の様なものだったら。
放射状に広がる道の一本を選んで、彼は真っ直ぐ水道局に向かう。
その横を、小型のエレカが通り過ぎて行く。何台も、何台も。
嫌な予感が、した。
幾つかの交差点を越えて、越えて、越えて。
そのたびに、小型のエレカが彼の横を走り抜けて。
行き先は。
開けた視界の中には、白い箱の様な建物が、煙を上げる姿だった。その周囲に、同じ形の、何台ものエレカが取り巻いている。
Gは門の中に入るのをためらった。何故ここに。
煙は、花火と同じ類の火薬の臭いがする。時々窓の中で、色とりどりの光がぱっと点いては消える。ではあれは火災ではないのか。
常夜灯の光に浮かぶ白い箱の中で、とりどりの花火が爆ぜている。
中にまだ、あの亜熟果香を流した連中が居るのだろうか。Gはどうしたものか、とじっと窓の一つ一つを見つめる。なかなか次に動く手が見つからない。
そうこうしているうちに、背後から、他のエレカが次々にやってきては、鍵もかけずに扉から飛び出す。きてれつな恰好をしたままの男女が、奇声を発する。
広場のらんちき騒ぎが、そのまま移動しつつあるかの様だった。
明らかに、人々が酔っているのは確かだ。花火と、アルコールと、そして確実に、亜熟果香も、その中には。
彼は飛び出す人々に紛れて、白い箱に近づく。止める者も居ないから、集団で意味もなく声を上げながら、箱の中には十数名の男女が一気に吸い込まれて行く。
Gは走り込んだ内部で、水源のコントロール装置のある場所を探した。
時々廊下に面したすりガラスの窓から、弾ける大きな音と、強烈な色が弾けるのが見える。そのたびに耳をふさぎ顔をしかめ、彼はほとんど闇雲に探していた。
調子が狂う。
何処だ。彼は階段を駆け下りる。踊り場の窓から、飛び出した花火が綺麗だった。
だが、花火は、上がるもので―――
落ちてくるものでは、ない。
一筋の光が、空から落ちてきた。
*
「―――何もあれを流すことは無かったのではないですか!?」
声が、耳に飛び込んでくる。
壁に叩き付けられた身体が、少し痛い。Gはそれでも、すぐに自分の気配を殺す。隣の部屋の声が、聞こえてくるのだ。
質素な部屋だった。何かの執務室の様だった。壁にはガラス戸のついた棚が取りつけられており、その中にはずらりと情報ディスクがおさまっている。それだけではない。古典的な紙資料の「ファイル」もその横に並べられている。
ただ、その部屋の主のものらしいデスクと、その周囲だけが、華やかだった。デスクの背後の壁には、美しい軍旗が飾られている。
はっ、とそれを見て彼は息を呑んだ。その軍旗に彼は見覚えがあった。
宇宙を思わせる漆黒の表面に、機械ではない、人の手による細かな刺繍が施されている。
黒い、長い髪の、天使の。
Gは息を呑む。見覚えがある、はずだ。
「…サッシャ」
かすれる声で、つぶやく。
そうだった。あの、オクラナの少女が、自分達の命を握る相手を忘れないために、と縫い取ったその姿。
あの後、オクラナは大爆撃を受けた。
「実験としては、有効だった」
聞き覚えのある声。彼は耳を澄ます。
「それとも貴官は、開発中のウイルスの方が良かったと思うか?」
「…い、いえ…」
「人体の影響は殆ど無い。それが貴官ら医療スタッフの共通の見解では無かったのか?」
「…」
「反論は無しか」
短く、その人物は自分を糾弾する相手に問いかける。
「私はそのつもりで、貴官らに開発と製造を命じたはずだ」
それを受けた時点で、同罪だ、とその言葉には含まれている。
「…しかし」
「罪悪感を感じる暇があるなら解毒薬の開発にいそしむのだな」
は、とそのまま扉を開け、叱責されていた士官が出て行く気配がした。
そのまま隣室から、あの言葉の主が、歩いてくる。
こちらに、来る。
Gは逃げよう、と一瞬思った。ここで彼に会ってどうするのだ。
しかし身体は逃げなかった。
黒い、長い髪を揺らせ、アンジェラス軍の総司令は、部屋の中に入って来た。
その視線が、彼を捉える。
「…お前か」
その瞳が、ほんの少し、驚いたかの様に見開かれた。予測していなかったのだろうか、と彼はその反応に少し戸惑う。
「髪が、短い。お前は先頃のお前では無いのだな」
Mはそう言いながら、ゆっくりと彼の元へと歩み寄って来る。
先頃の自分。おそらくそれは、まだ軍人だった頃の自分であり、オクラナに落ちてきた自分のことだろう。
あれから、ずいぶんな時間が経っているというのに。
「俺は、…」
「私を恐れない、お前なのだな」
「約束を、したから」
「そうだな」
「俺は、あなたが過ちを冒した時間に飛ぶ様に、俺自身に命じた。そうして、テロワニュに飛んだ。…あれが、過ちなのか?」
「判らぬ」
Mは短く答えた。
「それが過ちになるのかどうかは、後の歴史が決めることだ。私はその都度の、最良の手を打っているに過ぎない」
「彼らはどうなったの」
「テロワニュの住民は、ほぼ居住区全域に渡って流した亜熟果香によって、急性の中毒にかかってはいる。しかしだからと言って身体の機能が損なわれた訳ではない」
「テロワニュは、でもその時壊滅したのだろう?」
「そうだ。そして彼らには、新しく発見された惑星の開発にかかってもらう」
Gは目を丸くした。
「…開発… 新しい…惑星?」
初耳だった。
「しかしそこは決して居住に適した気候ではない。従って当初は居住ドームを企業から購入し、そこから始めなくてはならない」
「…その大気を、コントロールできる様に」
「そうだ」
「…その中に、亜熟果香を」
「そうだ」
「…なるほど、それは有効な方法だ」
Mはそれには答えなかった。Gは思わず両手で顔を覆う。その下の自分の顔が、歪んでいるのが判る。笑顔に似た、ひきつりが広がっているのが、判る。
「最初に奴隷の状態を抜け出したあなた方が、今度は自分達の奴隷になる人々を、作り出している訳か」
くくく、とGは喉の奧で笑う。
「お前には、判るまい」
「ああ判らない」
Gは首を横に振る。
「あなたがどんな思いであの軍を率いてきたのかも、他の惑星がどんな反撃をしてきたか判らない。どんな苦労が、あったのか、俺は俺の、あの頃、軍に居た、その経験程度にしか判らない。飛んで流れ着いた、惑星ごとに見てきた、そこで涙を流す人々の姿しか、知らない。でも統一するなら、それが有効な方法なのかもしれない、だけど」
それでも、そういう方法を、あなたがたが使うべきでは無かった。Gは思う。
「あなた方は、過去を抹殺しようとしている」
「過去は、過去だ」
「第七世代の俺は、あなた方上位世代から、あの歴史を教えられなかった。隠していたんだ。あなた方は、俺達に、自分達が奴隷の身分からはい上がったことを」
Mは黙って、Gの言葉を聞いている。
「どうして? あなたは、あの時…」
どうしても、生き延びなくては、ならなかった。
「…彼ら、は?」
Gはふと一つのことに、気付いた。
「あなたが、生かしたかった、あの人達は、どうしたの?」
「死んだ」
Mは短く言った。
「死んだ?」
思わず問い返す。答えは二度と口にされない。
「それでも、数年は、生き延びた。奴らは結局それを取り入れなかった。彼らは天使種にはならなかった。人間のまま、死んだのだ」
淡々とした口調が、逆にGの中に突き刺さる。Mは、誰よりも、彼らに生き残って欲しかったはずだ。
「奴らは死に、私達は生き残った。生き残った我々は、それからも生き延びて行くしかなかった」
ふっ、とその手がGに向かって伸びる。冷たい手だ、と彼は思う。
冷たい両手が、頬をくるむ。
彼は、目を閉じる。ああやはり、冷たいのだな。
伝わって来る。