ふわり、と身体が浮き上がる様な感覚があった。視界には光が満ちている。
見覚えがある、とGは思った。かつて、その昔、自分が受けた、あの光。
同じ類の、光。強烈な様で、触れてみると柔らかで、暖かな、その光。
その中に彼は、自分自身も投げ出されるのを感じた。手足が自由になって、宙に浮く。指先まで、温もりが広がっていく。
ああそうか。
彼はつぶやく。
また俺は何処かへ飛ぶのだな。
何処へ行くのだろう。いつもの様に、そう思う。流されるままに。
だけど。
違う、と強い意思が、自分の中に浮かび上がる。
―――何処へ行く、のではない。お前は、何処へ行きたいのだ?
振り返る。誰が居るという訳ではない。自分の中で、何かが問いかける。
―――お前は自分の行きたいところへ行けるのだ。
その「気配」を感じたことが無い訳ではない。ただ意識しない様にしていただけだ。認めたくは無いから。
自分の中に、融合しているものの存在を。自分を人間で無くしている存在を。
そう俺は人間じゃあない。既に人間じゃあない。
違うんだ。
認めている様で、ずっと認めずにきたことだった。ユエメイにはその認めたくない気持ち、がそのまま出た。
間違えるな。
彼は自分自身に言い聞かせる。
俺は人間じゃあないんだ。
そうなることで、生きることを選んだ者の一人なのだ。
認めろ。それが、お前なんだ。それ以外の何者でもないのだ。
―――何処へ、行きたい?
彼の中に居るものは、そんな彼の葛藤などまるで構わず問いかける。何処へ。彼は自分に問いかける。俺は今、一体何処へ行きたいんだ?
答えは判っていた。Mが。
遠い時間の向こうで、最強の軍隊を率いて、全星域をその手におさめる、あのひとが。
あの人が一体何処で誤りを冒すというのか。
そんな曖昧な対象でいいというなら。彼は自分の中に居るものに向けて、心を開く。必要とされる情報があるというなら、読みとればいい。
今までずっと、その存在を認めたくなくて、目を塞いでいた。飛ばされることをも、あのひとのせいだ、と思うことで、ようやくバランスを取っていた。
でも違う。
彼は理解する。
あのひとは、確かに俺という存在を利用していたかもしれない。
だけどそれは、俺が落ちてくる場所を予測していたに過ぎない。
たとえそれがどれだけ正確なものであったとしても!
飛んでいたのは、俺なのだ。
他の誰でもない。無意識に、その場所を選んでいた、俺なのだ。
どれだけ言い訳を並べようが、そこで自分が起こしたことは、確実に、起きてしまったことなのだ。
目をそらすな。
―――何処へ行きたい?
構わずに、それは彼に問いかける。
『見つけろ』
彼は自分の中の何か、に強く命じる。
*
「…何してんだよっ!」
威勢のいい女の声が、彼の耳に飛び込む。
「重いじゃないかっ! さっさとどいてくれ!」
はっとして彼は、自分の下に、花柄が広がっているのに気付いた。慌ててその上から飛び退く。
「あーあ、せっかくの一張羅がだいなしじゃないか」
ぱたぱた、と女は彼の下敷きになったスカートを勢いよく広げてははたく。
中の何枚にも重ねられた、レースがこれでもかとばかりにつけられた下着が見えてもお構いなしである。いや、見せているのかもしれない。
よく見ると、そのスカートの長さといい、かぶっているボンネットといい、何処か時代がかっててる。肌に触れる風は、冷たくも生ぬるくもなく、心地よい。何処かで草を刈っている時の様な緑の匂いがその中には含まれている。
「…まったく、いくらお祭りだってそう浮かれるもんじゃないよ」
「祭り?」
「とぼけんじゃないよ、屋根から飛び降りたんだろ?」
ああなるほど、と彼は納得した。よく耳を澄ませると、遠くで音楽が聞こえる。ぱんぱん、とクラッカーや爆竹を鳴らす音がする。ははは、と彼はごまかし笑いを浮かべる。確かにその状況だったら、空から降ってきてもおかしくは無いだろう。
「本当にごめんね。何処かケガはない?」
状況を把握したが早いが、彼はにっこりと笑みを浮かべると、女に向かって真正面から問いかけた。女は思わず息を止める。今待て悪態ついていた相手が、こうも見られる顔であったことに、ようやく気付いた、という顔だ。
「…け、けがは無いよ」
「本当に? 何処か染みは? その綺麗な模様がすりきれたりしていない?」
「だ、大丈夫だよ!」
近づこうとする彼を、女は両腕を前で交差して止める。二の腕の半分までの袖は、風船の様に膨らんで可愛らしい。そこからすんなりとした白い、細い腕がのぞいている。手首までしかないレースの手袋は、おろし立てなのだろう、真っ白だった。
…ただ、その真っ白が。
「ああ、汚してしまったんだ」
「…大丈夫だってば。あああああ、近寄らないでっ」
顔が真っ赤になっている。Gはあからさまなこの反応にくす、と笑った。新鮮にも程がある。
「ごめんね。お詫びにお茶の一杯でもおごらせてくれない?」
女はまだガードを崩さない。
「向こうのにぎやかな通りに、君の行きつけの場所があるならそこで」
「…いいわ。でも、あんたが変な目で見られるかもしれないわよ」
「どういう意味?」
交差した両腕を、女はゆっくりと下ろす。まだ頬の赤みは取れない。
「今日は祭りよ」
「そうだね」
「だったら、今日はあたし達クルティザンヌが自由に動いていい日だってことはよく判ってるんじゃないのかしら?」
クルティザンヌ? 聞き慣れない単語だった。彼は記憶をひっくり返し、その単語を探す。
「商売女を連れていたら、妙な目で見られるのは、お兄さん、あんたの方じゃあないの?」
その時単語の意味がよみがえった。古い言葉で、確かそれは、娼婦を意味するはず。Gは両手をひらひらと振った。
「今日は祭りなんだろう? それに俺は旅行者だ。ここでどんな目で見られようが知ったことじゃない。それよりもっと大事なことがあるんじゃないの?」
「な、何?」
女は少し身構える。ショールで隠されていた、大きな胸がぴく、と震えた。
「君の名前」
ああ、と女はようやく表情を緩ませた。
「コレットというの」
「可愛い名だね。俺はサンド。サンド・リヨン」
彼はいつもの様に、偽名を口にした。
*
大通りは、飾り立てた人の海だった。
色とりどりのボンネットの女性が、ふくらんだ袖のふくらんだスカートで、広場を闊歩する。
コレットのスカートのかなり派手めの色合いの花柄だったが、この人混みの中では、ごくごくありふれたものに見えた。逆に、白いシャツとダークグレイのパンツだけのGが目立つくらいである。
「あのさあ」
時々聞こえてくる、通りの楽隊の奏でる音楽の合間を縫う様にコレットは切り出した。
「おごってくれるのは嬉しいんだけどさ、サンドさんあんた、ちゃんとお金持ってるのかい?」
「まあね。…でもちょっと不安が」
「何だよそれ!」
コレットは肩をすくめ、目を丸くする。
「いや、お金は持っているのだけど、使えるのかどうか、ちょっと俺には自信が無くて」
「ちょっと見せてごらん」
ぱっ、と彼女は手を差し出す。彼はポケットに入れていたコインを幾つか差し出す。彼女は一目見て、額にしわを寄せる。
「…ああ、これは駄目だね」
「駄目かな?」
「こんなコイン、見たことが無い。サンドさんあんた、何処の星から来たんだよ。換金… できたらいいんだろうけど、今日は祭りだからねえ」
ふう、とコレットはため息をつく。向かい合って座るカフェのテーブル。彼らの前には、二杯のコーヒーが置かれている。
「まあいいさ。出会ったのも何かの縁だ。今日のところは、あたしが払うよ」
「…ちょっと待って」
彼はふと、広場に目をやる。天気の良い広場の一角に、大きな傘を立てて、その下にピアノが置かれている。普段こんな使われ方をしたら、楽器が傷むのは間違いない。
「あれは、弾けないの?」
「ピアノかい? そんなことはないだろうけど」
「このカフェのものだよね」
彼はすっと立ち上がる。どうするんだろう、とコレットは足を組み直し、彼の背中を見送った。
数分後、蝶ネクタイのボーイ長の後に、彼は現れた。
「弾けるのかい?」
「まあたぶん」
あの後宮の人工惑星でも、こんな仕事を演じていたのだ。できないことは無い。ぽろぽろ、と彼は立ったまま、鍵盤に指を走らせる。
「どんなものが弾けるのかね?」
ボーイ長は腕組みをして、問いかける。
「今この惑星でどんなものが流行ってるのかは、判らないですから」
古典的なものを、と彼は弾き始めた。
陽気な音の曲が、よく晴れた空の下、ゆったりと流れる。次第に客達は椅子ごと視線を彼に向ける。
風は穏やかで、日射しは暖かい。聞いていると眠くなってしまいそうな程の曲を。彼の指はゆったりと、しかしなめらかに白と黒の鍵盤の上をすべる。
ほおっ、とコレットは驚き半分、感心半分のため息をついた。
やがて一曲が終わると、あちこちから拍手が、ぱちぱちと起こった。それは決して歓声の様な大げさなものではない。たまたまそこに居た人々が、ほんのつかの間の時間を穏やかで楽しいものにしてもらった報酬としての、拍手だった。
「もう一曲やってくれたら、あんたの連れの分も無料でいいよ」
ボーイ長はにやりと笑った。
*
「本当にごちそう様。ふふ」
フォークとナイフを皿の上に斜めに置くと、コレットは笑った。遅めの昼食を彼らはカフェのテーブルで済ませていた。
結局彼はボーイ長に乞われるままに、そのまま一時間半ほど、時々小休止を入れつつ、延々ピアノを弾いていたのだ。
「さすがに久しぶりだったから、腕が少し痛いな」
「でもおかげで、美味しいお昼が食べられたわ。ありがと」
「本当に、美味しい。何ってことない、チキンサンドの様に思われるんだけどな」
「あらあんた、『シャノワール』のサンドイッチがどんなものでも美味しいのは、このテロワニュでは至極当たり前なことだわ」
「テロ… 何だって?」
「テロワニュ。あんたこの惑星の名前も知らないなんて、そんなことあり?」
「…いや、ちょっとど忘れしていただけだよ」
Gは笑顔を作りながら、大急ぎで記憶の中の惑星リストを開く。テロワニュ。さしたる特徴は無いはずだった。だが。
「ところでコレット、この惑星の今の指導者は誰だったかな?」
「旅行者ってやーねえ。そんなことも調べて来なかったの? …『しみったれのガブリエル』よ」
彼女は後半、声を落とした。
「しみったれ?」
「しっ、大きな声を出さないの!」
彼女は水を入れたグラスをぐっと彼の前に突き出しながら、その指を一本立てた。
「ガブリエル・キュレーがけちで有名なのは、この街では誰もが知ってることだわ」
キュレー。彼はその名を記憶の底から引っぱり出したトロワニュの歴史の中に探す。はっ、と彼は微かに息を呑む。
「…ふうん。じゃあ、出兵に反対してたりするのは、そのせいもあるのか」
「そうよ。だって、お隣のハンオク星域なんて、こないだ思いっきり爆撃を受けて、ずいぶんひどい目にあったってことじゃない。…まあだからこそ、下手に手を出せないのかもしれないけれどさ」
Gは黙って、ボーイに手を上げると、食後のコーヒーを頼んだ。一時間半のピアノの報酬は、好きなランチ用のメニューと食後のコーヒーだった。
「何処から来たの? あんたは。サンドさん」
両肘を立てて、彼女はそう言えば、と問いかける。
「俺?」
どう言おうかな、と彼は考える。
「遠いとこ」
「ふうん」
「それ以上は、聞かないの?」
「聞いてほしいの?」
なるほど、と彼は思う。
「あたしのとこに来る客は、二通りしか無いんだよ。そういうことを話したい客と、話したくない客」
「その二つしか無いんじゃないの?」
「結構鈍いんだね。普通は、それにもう一つ入るの。話そうと思いもしない客」
くい、と彼女は水を口に含む。
「それが、大半なんだよ」
なるほど、と彼はうなづきながら微笑む。表情を崩してはいけない、と自分自身に言い聞かせながら。
「…そう言えば、新聞はあったかな」
「あるに決まってるでしょ? ここは『シャノワール』よ。カフェなのよ!」
「そうだね」
Gはつと席を立つ。先ほどのボーイ長に、新聞の在処を訊ねる。天井の高い屋内の一角に、幾種類の新聞や雑誌が置かれている広いテーブルがあった。
ちょうどそこには、明かり取りの窓から差し込む光が、ねっとりとした空気感を作っていた。光自体が重さを持っていそうで、Gはその光の持つ熱が新聞を広げる彼の首筋に注がれるのを感じた。
取り上げた新聞の上に、彼が視線を真っ先に走らせたのは、「日付」だった。
共通歴569年。
それはあのハンオク星域のオクラナで、壊滅的な爆撃のあった年だった。
7月―――23日。
彼は唇を噛む。
それは、惑星テロワニュが壊滅する日だった。