「アンジェラス?」
相手は微かに抑揚を加える。
「そんな星域は知らない」
「そんな訳は」
「この星域は、我々が発見したのだ。名前など、誰が知ろう」
「M…」
思わずGは相手の名を呼んでいた。そうなのだ。
目の前の相手は、自分の知る、あの反帝国組織MMの盟主であり、かつての「最強の軍隊」天使種の正規軍の総司令である人物。
Mと呼ばれる、その人物、そのものだったのだ。
だけど。
この場所この時間がいつの何処なのか、Gの頭はめまぐるしく回転を始める。
少なくとも、Mは自分を知らないのだ。
だとしたら。彼は考える。あのレプリカの反乱の起きた時期よりも、ずっと前だ。
ずっと前。アンジェラスという星域の名前も決まっていない程昔。
それはいつだ? Gは考える。
答えは一つしかない。
植民直後だ。
「しかしお前は見ない顔だ。それとも私が知らないだけか?」
いやそんなはずはない。その言葉の裏にはそんな思いが隠されている。
「お前は、誰だ?」
「俺は…」
Gは言葉に詰まった。他で出会った子供の様にはいかない。どう言ったものだろう。
「何だと、思います?」
それでも敬語表現になってしまう自分に、苦笑しつつ、彼は相手に問いかける。
「わからぬ」
「あなたでも、判らないですか?」
「皆が、そう言う。だが、私とて人間だ。判らぬこととて数々あるのだ」
おや、とGは思った。その様な言葉をMという人間の口から発せられるとは思わなかったのだ。
「お前は私を知っているな」
ああ、とGはうなづいた。
「だが私が集団の中の何であるのかは知らないようだ」
「集団?」
「そうだろう?」
彼は再びうなづく。何の集団だと言うのだろう。
「少し、私につきあうがいい」
Gはその言葉に逆らえない自分を知っていた。
*
こんな所だったのだろうか。
そこは彼の知っている故郷の惑星とは、似ている様で、異なっていた。
自分の知っている故郷は、それでももう少し空の色は青かった気がするし、大地はもう少し黒みがかっていた気がする。
あの頃、荒れた大地だ、と思っていたが、今目の前に広がる光景ほどでは無い。
ついて来い、と短い言葉でうながされ、GはMの後から歩いて行く。
彼が出現した状況について、Mは何も言わない。見なかったのだろうか、と考えもしたが、あの何も無い乾いた大地の上で、それは考えにくい。
見なかった、としても、いきなりそこに知らない人物が居たら、警戒の一つでもするものではないか。そう思いはするのだが。
何も無い、白茶けた大地。ほんの時々、淡い黄緑の草が、細い葉をうねうねと広げている。
よくこんな所に根付いているな、とGは感心する。地表に手を広げ、ただ降り注ぐ強烈な光を草は受け止めている。
何も言わず歩いて行くMの背中を追いかけていくうちに、周囲の風景がゆっくりと変化してゆくのが判る。遠くに見えていた岩場へと、彼は足を進めて行く。
黒い、長い髪が背中に揺れている。
昔から、このひとはこの姿だったのだろうか?
ふと彼は、先日の、絵姿にあった金髪の巻き毛の姿を思い出した。あの姿をすることがあるのだろうか。それとも、自分が知らない時間の中で。
岩場が次第に山に変わって行く。風もなく、ただ大地を岩を踏む音、砂を擦る音だけが、耳につく。手に触れる岩は、少し力を入れるとぽろぽろと砂に変わる。踏み外さない様に、と彼は足元に気をつける。
やがてMは切り立った岩が、四方を囲っている場所へと彼を導いていった。
その岩は、今まで通ってきた道と違い、砂質のものではなかった。濃い深い赤。半透明で、硬質のものだった。
Mはその赤い岩の前で立ち止まり、平らな岩の上に座った。ちら、と視線だけを彼に送る。自分にも座れと言っているのだろうか、とGは思い、辺りを見渡すと、平らかになっている所を選んで腰掛ける。
「ここなら、聞こえないだろう」
「聞こえない?」
何からだろう、と彼は思う。あの何も無い大地の上でも聞こえる聞こえないもないはずなのに。
「お前は、何だ?」
改めて、MはGに向かって問いかける。誰だ、ではなく、何だ、と。
「お前は前触れも無く出現した」
「俺は」
「お前は、人間か?」
Gはぐっと詰まった。この質問を、このひとから出されるとは、思ってもいなかった。自分が人間では無いことを、かつて突きつけたのは、このひとだと言うのに。
「俺は…」
迷った。俺は人間だろうか。
あの時。ユエメイに向かって、彼は自分を人間だと言った。その時、確かにそう思っていたのだ。だからその時、口からぽろりと出たのだ。言った自分自身が驚いていたとしても、思い返した時、それは自分の中で確かだった。
なのに。
この人物の前で、迷う自分が居ることを彼は感じていた。
何故なのか判らない。ただ、このひとにそう問われることで、自分の信じている考えが揺らぐ。
「俺は… 人間だ」
「本当か?」
「そう、信じたいんだ」
Mはじっと表情の無い目で彼を見据えたまま、微かに首を傾げた。
「それではお前は、人間ではない、と思っている自分も居る訳だな」
それはあなたに問われたからだ、という気持ちはあったが、Gは黙っていた。
「あなたから見て、俺は、人間ではない?」
「人間は、少なくとも、空から降っては来ないだろう」
それではそう見えていたのか。
「天使か?」
Gは目を大きく広げた。その唇は、少し見過ごすと、動いているのすら判然としない。本当に、その言葉がこのひとから発せられたのだろうか。
「天使…」
確認の意味も込めて、彼はつぶやく。
「空から降りてくるのは天使と決まってる」
Gは苦笑する。
「…俺は… 天使じゃない」
そうか、とMはうなづいた。
「どちらかと言えば、あなたのほうが、俺にはそう見える」
「私がか?」
短い問いかけだった。Mの表情は、変わらない。
「冷たく、美しい」
「お前の天使は、そういうものなのか?」
「誰よりも、冷たく、恐ろしく、そして、強かった」
なるほど、とMはつぶやいた。
「長い長い時間の中、俺を、振り回して、それでいて、俺には逆らう術が何一つない。そんな天使」
「逆らうことが出来ないのは、お前の弱さではないのか?」
「そうだ」
Gはうなづいた。
「だったら、お前自身がそうされることを選択しているのだろう」
「あなたは正しい」
自分のさんざ考え抜き、だけど直視したくなくて、いつも目隠ししていた答えだった。
「正しい、か」
Mの唇が、開いた。
「それでは私のこれからすることは全て正しいのだろうか?」
「これから…?」
「私は一つの決断をしなくてはならない」
決断。何の決断だというのだろう。戸惑った顔のGに、Mは言葉を続けた。
「見た通り、この惑星は、人がそのまま住むには適さない。気付いただろう? 日射し一つが、我々人間の脆弱な身体には命取りとなりかねない」
そうだったのか、とGは思う。かつての母星の環境の厳しさは、単に乾燥であったり、土壌の貧しさではなかったのだ。
「それでも我々は、生きねばならない」
Gはうなづいた。
「失ってきた仲間のために。皆命をかけて脱走してきた。無駄死にはできない」
「無駄死に…」
「このままでは、ここに居るだけで命が危うい。我々は決断せねばならない…」
「どんな、決断なの」
「お前はこれが何に見える?」
Mは立ち上がると、背後の赤い岩に手を伸ばした。
「…岩… ではないのでは?」
「岩だ」
Mは即答する。
「ただし、死んだ岩だ」
「死んだ…?」
「この惑星の岩の中には、生命を持つものがある」
それは彼も良く知っていた。しかし彼の居た時代、「死んだ岩」を見たことはない。
「その生命が宿っている間、岩は淡い乳白色に染まっている。それが死ぬと、そんな、女の月経の色になる」
そのたとえはどうかと思う、と彼は思う。
「だがこの死んだ岩の間に居れば、生きた岩から思考を読まれることはない」
「え」
思考を読むのか。それは初耳だった。しかし確かにそれは当然と言えば当然だった。
彼自身もかつて、その生きた岩と対峙したことがあった。まだほんの子供の頃だったが、その時に、何かが、自分の中を触っていく感じ、は確かにあったのだ。
Mは目を伏せた。
「彼らは我々に提案した。生きたいのなら、自分達と融合しろと。そうすることによって、この惑星で生き延びる力を手に入れることができる、と。考えるべくもない、唯一の選択肢だ」
そして目を開く。
「それしか無いのだ。我々がこの地で生き残るのは」
「また他の惑星に行くということはできない?」
「お前は我々が何処から来たのか、知っているか?」
彼は首を横に振る。
「俺は何も知らない」
「我々は、逃げてきたのだ。長い旅をする移民船の中から。小型の輸送挺に詰め込めるだけの人員を詰め込んで脱出してきた。小型艇もこの惑星にたどりつくのが精一杯だった。もうこの先に行くことはできない」
行き止まりか、とGは思う。
「我々はこの地で生きねばならない。…なのに、私は迷っているのだ」
「あなたが」
耳に飛び込んできた言葉が、すぐにGには信じられなかった。
「あなたが、迷うのか?」
「私とて、人間だ。迷うことはある。そして人間でありたいと思う。天使のお前には判らぬか?」
「俺は」
天使ではない、と言おうと思った。だが妙に舌がもつれた。
「この地の鉱物の生命体と融合すれば、確かに生きていけるだろう。しかし融合した我々は、果たして人間であろうか。あり続けることができるだろうか」
「それは…」
Gはどう言っていいものか、困った。その答えは自分の中でも出ていないというのに。
「しかし私は、その迷いを見せる訳にはいかないのだ」
「生きている岩に?」
「いや」
Mは首を横に振る。
「それだけではない。中には、それが、彼らが我々の身体を侵略しようとしているのだ、と主張する者も居るのだ」
「反対派が」
「そうだ。その主張も決して間違ってはいないだろう。意識を自分のものとしておける保証は何処にもない」
そこまで言うと、Mは再び腰を下ろす。腕を組み、目を閉じた。
「しかし、それでもその選択肢しか無いのだ。我々が生き延びるためには」
「あなたは、そうしたくはないんだ?」
ふっとMは顔を上げた。
「違う?」
「違わないだろう。私という個人の感情の中は、それを拒んでいる部分が、少なからずあるのだ。だが、私がそれを選んだらここで誰も生き延びることはできなくなる」
「あなたは、皆を生き延びさせたいんだ?」
「無論だ」
答えは出ているのだ、とGは思った。ただこの人は、最後の一歩を踏み出せないのだ、と。
そして、おそらくは自分にその背を押してもらいたがっている。
それは、GがMの中で、自分達とも生きた岩達とも無関係の第三者である、と認識されているからに違いなかった。自分自身が作り出した幻と思っているかもしれない。
どうしたものだろう、とGは思う。
ここで、Mの背を押さなかったら。
そうしたら、アンジェラス星域に、人々は生き延びない。
最強の軍隊は存在しない。
帝国は、成立しない。
言わない。それも一つの魅力のある誘いとなってGの中に指を這わす。
だが。
彼は思い直す。そうしたら、自分もまた生まれては来ないのだ。自分はアンジェラスの、天使種の、第七世代なのだ。
ここに命からがら逃亡してきた人々の、七番目の子孫なのだ。
決められた歴史を動かす訳にはいかない。
「あなたは、そうしなくてはならないよ、M」
彼は名前を呼んだ。
「俺は知ってる。この地の人々は、いつか、この惑星を出て、全ての、地球から出た人々の住む星域を手に入れ、支配するんだ」
「夢のようなことを」
「俺は、知っているんだ」
GはMの前にひざをつき、膝の上に置かれた手に、そっと触れた。
「あなたはいつか、最強の軍隊を率いて戦うんだ。俺はそれを知ってる」
「天使だからか?」
Mは無表情のまま、問いかえす。Gは首を横に振る。
「俺は天使じゃない。いや、そう言われる時期もあるかもしれない。だけど、そう。生き延びたあなた方が、そう言われるんだ。最強の軍隊、天使の種族と」
「本当か?」
「本当だ。俺は、それを知ってる」
「お前は、誰だ?」
Mはようやくその問いを口にした。
その瞳が、自分を見据えている。ああ同じだ、とGは思う。既にその瞳に迷いは無い。そして吸い込まれそうに、深い。
「俺は」
ずっと、焦がれていた瞳だ。誰よりも冷たい。
「俺は、あなた方の子孫の一人だ」
「子孫。我々に、そんな未来があるというのか?」
「そして俺は、あなたを知ってる。誰よりも強い力を持ったあなたと、俺は、会ってるんだ」
唇が、微かに上がる。
「嘘を言うな」
「嘘じゃない」
「私は、お前に会うのか? 遠い未来で」
「あなたは、俺に会うんだ」
彼はMの手をぐっと握りしめる。
「だからあなたはここで生き延びるんだ。仲間達と共に」
「そして、全星域に覇権を唱えるのか?」
ゆったりと、首をかしげる。
「それもまた、悪くはないな」
「本当だよ」
悪くない、とMは繰り返し、Gに顔を近づけた。