「…来たぞ」
待ち構えていた当番の兵士達は、軽い音が響くその一瞬を待った。
からん。
「今だ!」
突入の命令がかかる。扉が開く。
*
爆音を聞きながら、Gは階段を駆け下りていた。
これでほとんど使ってしまったな。
服を取り替えた時、ボタンだけは引きちぎって手もとに置いていた。中佐を見習って、服のボタンには何かと細工をしておいていた。手榴弾と閃光弾に使えるものを、タイミングを見計らって信管を抜き、エレベーターで下ろしてやったのだ。他愛ない手だが、効果的な時もある。
一階と二階の踊り場に窓を見つけると、彼は最後の一つのボタンを窓に投げつけ、身を伏せた。涼やかで、それでいてけたたましい音が響き渡る。つ、と舌打ちをする。破片が手の甲に当たったらしい。血の筋が、流れるのが判った。
と。
なま暖かい感触が、その手に触れる。
「…イアサム?」
少年は、今の音と衝撃に目を覚ましたらしい。担がれた体勢のまま、彼の手についた血を器用になめていた。
視線が、合う。猫の瞳がそこにはあった。
「君は」
そうか、と彼は思った。しかしそこで立ち止まっている暇は無い。話も何も、後でできる。
「俺の言うことが、判る?」
少年はうなづいた。
「じゃあしっかり捕まってろ!」
Gはそう言うと、割れたガラス窓の外へと飛び出した。一階と二階の間だから、そう高くは無い。それでも、着地地点に側溝が無いことを、できるだけ地面であることを彼は期待した。舗装した地面は優しくはない。
そして期待を裏切った足には、強烈な振動がやってきた。一瞬、ひざが笑う。
少年はそんな彼の様子に気付いたのか、ぎゅ、としがみつく腕の力を強くする。
「ああ大丈夫だよ。俺はそんなことじゃ、傷つかない」
そう、そんなことじゃ。実際、今切れたばかりの手の傷は、綺麗にかき消えている。
彼は少年を下ろす。だがその足取りはまだおぼつかない。薬がまだ効いているのだろう。
もう一度肩にかつぎ上げ、彼は走り出す。目指すは入り口の車。ジューディス伍長の言った通り、鍵がついていることを祈るしかない。
「居たぞ!」
ぱん、と軽い音が耳元をかすめる。彼は右手をまっすぐ伸ばし、奪った銃で打ち返す。車に飛びつき、扉を開ける。あまり馴染みの無い内部の様子にち、と舌打ちをする。
鍵は…
カード式のそれは、確かにはまったままだった。彼はそれをぐっと押し込む。途端、ハンドルの周囲の小さなランプというランプが点灯する。
大きなフロントウィンドウの正面では、兵士ががやがやと集まりかけている。構っている暇はない。バックで彼は急発進した。
軽い音が、ガラス越しにも聞こえてくる。何発かガラスをかすめたりもしたが――― 彼の知ったことではない。
*
「…とりあえず、ここいらまで来ればいいかな」
軍の、しかも医療用の車という目立つ車体を持て余しながら、延々走り通し、夜が明けてしまった。
ふう、とGは息をつき、窓を開ける。薄紫と金の混じった朝の空は、寝不足の目にはまぶしい。
助けた猫は、彼の横で、丸くなり、すうすうと寝息を立てる。猫。確かにそうだった。あの瞳。
そしてまた漂ったあの匂い。亜熟果香。この香は、確か、カトルミトン星系の住人をそれだけで理性を失わせ、酔った様にさせてしまうという。
猫にまたたび、という奴だ、とGは思う。
カトルミトン星系。どちらかというと鎖国気味にあるその星系は、他星系の物資も文化も取り入れない代わりに、他星系の影響も侵略も何もかも受け付けなかったところだった。
その理由として、この星系に移住した人々の、外見の変化があったらしい。「らしい」。情報は多くはない。
正直、この少年の目を見るまで、彼はなかなか信じられなかった。シャンブロウ種の、旧友のパートナーの正体を知った時の驚きに近いものがある。
この星系の住民は、成人するまで、猫の瞳を持つという。いや、実際にはずっと猫の瞳を持っているのかもしれない。ただ、成人すると、それを隠すことができるだけかも。
あの時出会ったイアサムは、自分と同じ、普通の人間の丸い瞳をしていた。夜だけだったら判らないかもしれないが、昼間にも出会っている。至近距離で見ている。間違えるはずがない。
間違っていない訳だ。自分は大人だ、というあの時の彼の主張は。
そんな彼の思いなど、気にせず、隣でシーツにくるまっただけの少年は、ひたすらよく眠っている。何となく小憎らしくなって、その眠る頬にキスの雨でも降らせたくなってくるが、何となく馬鹿馬鹿しくなってきて、思いとどまる。
ふう、と彼は再びため息をつく。
助けたはいい。だけど次のことを何も考えていなかったことを、今更の様に思い出す。少し前に助けた少女と違うのだ。どうしたというものだろう。
むにゃむにゃと口の中で何事かつぶやく声がする。猫の瞳の少年は、目をゆっくり開けながら、身体を起こした。巻き付けただけのシーツがずりおちる。しなやかな身体に、朝日が当たる。
「…おはよう」
Gはハンドルにもたれながら、とりあえず、そう言ってみる。大きく見開かれた少年の瞳は、確かに、糸の様に細くなっていた。その周囲は金色。先ほどの空の色を何処か思わせる。
「おはよ…」
少年は返しながら、はっとしてシーツの前をかきあわせる。あのミントの街で、手慣れた、余裕さえあった彼の仕草に比べ、それはひどくGにとって新鮮だった。子供であるということはこういうことだよな、と何となく感心する。
「夢じゃ、なかったんだ…」
イアサムはつぶやく。
「夢?」
「いきなり村に軍人が来て、軍の命令だから、って、一人子供を出せ、って言われて」
「君が、出された?」
「しょうがないよ。俺のとこは、村で一番まずしいから」
Gは眉を寄せる。
「畑の手伝いしてたら、いきなり呼び出されて、何か、いい匂いがしたと思ったら、あとは、よく覚えてない…」
そこで亜熟果香を使われたのか、とGは納得する。
「ずっとそれから眠っていたの? 君は」
「イアサムだよ、俺」
「知ってたよ」
言われた側は、不思議そうな顔をする。
「そんな訳ないっ」
ふん、と猫科の少年は横を向く。
「信じなくてもいいさ」
自分もあの時までは、信じなかったのだから。
「…眠っていた訳じゃないけど、起きてるという感じもしなかったんだ」
そうだろうな、と思う。夢の中を漂っている様な目をしていた。
「どうしよう、俺」
少年はGの方を見る。
「こんなことなったから、もう家にも帰れないし」
「そんな家、捨てればいいさ」
「家族が居るんだ」
「戻ったところで、家族が危険だよ」
イアサムはうつむく。そうかも、と小声でつぶやく。
「だって君は、その身体を売り飛ばされたんだもの。殺してもいいよ、とサンプルにされたんだよ」
「でも俺のうちは貧しかったから」
「そうかもしれないね」
それが当然な場所もあるのだろう。あっておかしくはない。臓器を売るために子供をさらって育てている様な場所だって話には聞いている。いろんな所はあるのだ。
ただそれを当然と思うかは別なのだが。
「…あなたは、だれ?」
その時ようやく少年の口から、その質問が出た。俺? とGはハンドルにもたれたまま、微妙に笑みを浮かべる。
「俺は、君の未来の知り合い」
「未来の?」
「そう」
「だって今だって知り合ってるじゃない」
「そういう意味じゃあないさ。君はまだ子供だし」
少年の顔が赤らむ。
「俺は君と長くは一緒に居られない。だから君を安全なところまで送り届けようとは思うのだけど…」
幾つかの、候補地が頭に浮かぶ。何処だったら、この少年が大人になるのを許してくれるだろう。
「ミント」
そうだ、と彼は思う。あそこでイアサムは長い間暮らしていた様なことを言っていた。
「ミント?」
「そう、ハリ星系の惑星ミント。聞いたことは、ある?」
少年は首を横に振る。
「太陽が、まぶしくて、風が熱い、そんな惑星だよ」
*
まぶしい、と彼はその惑星に着いた時思った。
強烈な日射しが、宙港のロビーから外に一歩出た瞬間、目に飛び込んで来る。
猫科の少年は、大きなサングラスを掛け、Gのそばにぴったりとくっついている。
時間が時間なのだろうか。遠くで祈りの声が聞こえる。日は中天。
「ここなの?」
少年は訊ねた。そう、と彼は答えた。ただ、あの時しばらく居着いたワッシャードではなく、もう一つの勢力都市であるアウヴァールだった。
砂漠をはさんだその都市は、それでも文化的にはそう向こう側と異なることは無いらしく、長い長い昼間には、皆カフェでゆったりと過ごし、時間が来ると祈りの言葉を捧げるらしい。
とりあえずは、一休みしたかった。あの惑星でイアサムを助け出してから、ずっとこの方、動き詰めだったのだ。どうやってミント行きの船を見つけて、なおかつそれに乗り込んだか、などというのは、思い出すと何となく今は疲れそうだった。
少年は、と言えば。
ぽつぽつと、そんな立て込んだ時間のすきまに、自分の故郷の話をGに伝えていた。
*
「荒れた惑星なんだ」
乾いた声が、そう言った。
船の中の光は夜のものと同じなので、少年の瞳はずっと丸いままだった。ずっと見ていると、深くて、吸い込まれそうになる。
「荒れた惑星だった、のかな? 俺には判らないんだけど」
船の狭い部屋の中、ただ並べられただけのベッドの上に座り込んで、二人は話していた。
丸い窓から、延々続く闇がのぞいている。それだけだった。天井には素っ気ない灯りが、暗くない程度に灯され、時間が来ると消える。客の意向もへったくれも無い。
低価格の船の個室というものはそういうものだった。雑居室だったらもっと安いのだが、少年の瞳がひょんなことで昼間のものに変わったりして、人の注意を引いても困る。いやそれ以前に、G自身が人目を引いてしまう。
「判らない?」
「だって、俺が生まれた時からああだったし、俺は他のとこなんて知らないし。ただ世代が上のひと達が、そういうから、そういうものだと思ってた」
「世代」
聞き覚えのある単語だった。注意すべき言葉だった。
「世代で、君たちの惑星は分けてるの?」
うん、と少年は膝を抱えてうなづいた。
「最初にカトルミトンにやってきた人達が、第一世代、だって。俺はもう、二十とかそのあたり。世代はね、名前の一部になってるんだ。真ん中の名前」
少年は自分のフルネームを明かす。しかしそれはGにとって、そのファーストネームほどには注意を引くものではない。
「それは、何の意味があるのかな」
そこに意味のある種族である彼は、つい聞かずにはいられなかった。
「どうだろ。でも、最初の世代の人達は、こんな目はしていなかったって聞くよ。今は当たり前になったけど、昔は、そんな子供はしばらく隠されたとか言ってたし」
変化したのか、と彼は納得する。とすると、融合型の進化種ではない訳だ。彼は少しほっとする。
天使種は、融合型の進化を遂げた種をことごとく消していった。あの旧友の相方は、そんな種族の生き残りである。
「そう言えば、カトルミトンは、鎖国した惑星だって言うけど」
イアサムはうなづき、首を軽くかしげる。
「俺も良くは知らない。ただ、昔、外の連中にひどい目にあわされたから、だったらいっそ、貧しくてもいいから、自分達だけで平和に暮らそう、って閉じたんだって聞くよ」
「ひどい目?」
「俺が連れてかれたように、さ」
ああ、とGは嘆息する。
「カトルミトンの猫を捕まえるのは簡単なんだって。あの何か甘い匂いの、あれを使えば、一発なんだって」
「亜熟果香…」
「って言うの? あれ」
ああ、とGはうなづく。
「あの匂いは好きかい?」
「好き… かどうかは判らない。でも、何か力が抜けちゃうんだ。足とか手とか、うん、背中とかも。ぼおっとする。何か、俺の身体なのに、俺の勝手には動かなくて。何かすごく…」
イアサムは首を横に振った。
「たしかにね、あの、ふにゃふにゃしたくなるような、だるさとか、気持ちいいと言えば気持ちいいけど、俺、やっぱり自分の身体は自分のものだと思うもの。何か、やだ」
おや、とGは思う。だとしたら、彼らには、亜熟果香に関して習慣性は無い、ということか。
あの香は、普通の人間なら、身体にはともかく、気持ちがそれを欲しがる様にさせるのだ。
あくまで身体ではなく、心。なのにこの猫族は、どうやらその逆らしい。
何となく、気になる。
「でも大人になれば、効きは弱くなるらしいんだ。俺子供だから、仕方ないよね」
「子供って言われて、悔しかったりしない?」
「だってしょうがないじゃん。本当だもん。目だってまだこんなだし」
大人/子供に確固たる違いがある。どうやらそれが、無理な背伸びをさせないらしい。
「でもいつか、ちゃんとした大人になりたいなあ」
「そう?」
「うん。だって、大人だったら、こんな風に、あなたに迷惑かけずに、何とか自分でやって行こうと思うし」
「俺に構われるのは嫌?」
くす、とGは笑う。少年は慌てて首を横に振る。
「そういうことじゃなくて」
「どういうこと?」
言いながら、Gは少年のあごに指を掛ける。びく、と少年の頬が震える。
ほんのたわむれに伸ばした指だったが、見つめ返す相手の瞳は真剣だった。
「あなたに守ってもらうだけでなくて、あなたを守ることだって、できるのに」
Gはふと目を細め、指を離した。
「俺はいつか、また、未来の何処かであなたと会うんでしょ?」
「いつになるのかは、俺にもよくは判らないのだけどね」
「でもその時の俺は、大人なんでしょ? 今のあなたと、釣り合うくらいに?」
「…そうだね」
Gは目を伏せる。見かけはそう変わってはいなかったとは思うのだが。
ただ、あの不敵なまでの笑いは、通ってきた年月が培ったものなのだろう。
「その時の俺は、やっぱりあなたが好き?」
やっぱり、と少年は言った。
「君は俺のことが好き?」
「うん」
迷いもせずに、少年は言った。
「いつかまた、大人になった俺と会ったら、その時には」