扉から、手がのぞいていた。
わずかに開いた扉からは灯りは漏れていない。中の部屋は灯りがついていないのか。
一度、ヴェラの方を向くと、彼女はうなづいた。やはりそこが、カシーリン教授の部屋らしい。
中佐は少しばかり足を速めた。足音はわざわざ消しはしない。したところで、ヴェラが居るのだから、意味がない。
腕に後1メートル、といったところで、彼はそれが女のものであることに気付いた。そしてそれが全く動いていない訳ではないことも。
彼はそこで初めて足音をひそめるフリをし、そっと扉に手をかけた。そして次の瞬間、扉を一気に開いた。
部屋の中に、廊下の微かな光が飛び込む。中佐は波長を切り替える。途端に視界は鮮明なものになる。足下には女、そして中には。
「……キム!」
彼は思わず口の中でその名を呼んでいた。
ヴェラにうなづいて見せ、戸口で倒れている…… おそらくはこれが彼女の妹なのだろう…… 女は彼女に任せ、彼は傍目には暗い室内に入っていく。
ぐるりと見渡すと、倒れている同僚以外の姿はどうやら無いようである。
……姿が無い?
照明のスイッチを探し、彼は灯りを点ける。
「……ひでえもんだ」
目を丸くしてつぶやく。
窓が開き、カーテンがばたばたと揺れ、書類が散乱している。
その直前まで、ここではお茶を呑みながらの会話が繰り広げられていたのだろう、ティーカップが転がり、中身がテーブルから、床にまで広がっていた。クッキーの袋からこぼれたかけらが、踏みつぶされたのか、粉々に砕かれている。
そしてその散乱した中に、「友人」が転がっていた。
中佐は「友人」を抱き起こすと、とりあえず生きてることを確認してから、軽く揺さぶった。
簡単な衝撃に、簡単にキムは目を覚ます。
「あれあんた、何でここに居るの?」
「遅いから来てみれば……」
言いかけながら、彼はちら、と視線を横に移し、その向こう側に居るヴェラの存在を同僚に示した。ああ、とキムもうなづく。
「手を離してよ。大丈夫だから」
ああ、と中佐は自分が相手の首を抱え込んでいたことに気付く。ざ、とさらさらとした長い髪の毛が手のひらからざらりとすり抜けていく。
ふ、と何かが一瞬、目の端をかすめた。
何か、見覚えのあるようなものの様な気がした。だがそれが何であるのか、彼には思い出せなかった。
「そっちは大丈夫か?」
中佐はヴェラに問いかける。ええ、とヴェラはうなづく。どうやら彼女の妹は気を失っているだけらしい。
「一体何なの? この様子は……」
ヴェラは気丈にも、妹の様子を確かめると、次には部屋の状況を確かめたらしい。
「それに、カシーリン教授は何処に居るの? この部屋の主は!」
はっきりとした声が、部屋中に響く。その声はどうやら開いた扉から、廊下にも伝わったらしい。他の部屋の扉が開く音を、中佐の耳は聞き取った。
「ねえあなた!」
ヴェラは妹を抱えて座ったまま、キムの方に向き直る。
「あなたここに居たんでしょ? 何があったの?」
キムはふらつく頭を押さえるような格好で、ヴェラの方を向いた。その間に中佐は部屋の中の様子をもう少しよく眺める。
「何があった…… って」
「だって何があったって聞くのが当然じゃない! 何よこの部屋の中! ジーナはどうして倒れてたのよ!」
本当に響く声だ、と中佐はやや眉をひそめる。彼の耳には、あちこちの扉からばたばたと出てくる足音が飛び込んでくる。
「教授が捕まったんだよ」
キムは疲れたような声を出してみせる。ヴェラの太くて形のいい眉が両方つり上がった。
「教授が捕まった?」
そして、その声とともに、足音は大きくなる。
「そうだよ。俺等が教授のところに質問に来ていた時に、奴ら、やって来たんだ」
「奴等とは…… 誰なんだ? 君…… 公安か?」
「……公安関係かどうかは判らないよ。だけど、何人かで、いきなり入り込んできて、彼女を眠らせて、俺を気絶させて…… 何か気を失いばなに、あちこちでがちゃがちゃ壊れる音がしたけど……」
「じゃこの子」
ヴェラは妹をぎゅ、と抱きしめる。
「何か布を口塞いでいたから、薬品じゃないかな…… 俺の方がひどいよ。まともに腹にくらってしまったし……」
そう言いながらキムは、自分の腹を撫でさする。中佐はその様子を見ながら、ポケットから煙草を取り出した。だがライターがなかなか見つからない。
立ち上がり、教授の机のまわりを軽く物色する。ああこれだ、と彼は机の上にあった小型のライターを手に取る。……取り…… 火を点けると、そのままさりげなくポケットにと滑り込ませた。