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第11話 扉から、手がのぞいていた。

「何だあんたか」


 中佐は追跡者の胸元に目をやる。思わず驚いた拍子に手を当ててしまったらしい。どうやら見かけほど強い訳ではなさそうだな、と彼は思った。


「何か俺に用? ヴェラちゃん。あんたの寮は向こうでしょ」


 彼は学内敷地の中にある一棟を指す。確かにそこが、彼女の住む寮だった。


「い、妹を迎えに行こうと思って」

「妹?」

「文学やってるのよ。それで何か今日はカシーリン教授のとこに行くって行ったきり……」

「何あんた、一度寮に戻ったの? 早いね」

「近道を知ってるのよ。あなたこそ何? いきなり」

「いや別に。俺耳がいいの」


 では別に自分をつけてきた訳ではないな、と彼は思う。

 それでもさすがに夜間の女の一人歩きは心細かったのだろう。それで目の前を歩く、一応は知り合いに歩調を合わせていたのだろうな、と彼は推測する。


「あの子要領よくないから、門限に遅れるなら遅れるってちゃんと伝えなくちゃ駄目だって言ってるのに……」

「文学部ってどのへんだったっけ」


 ヴェラの表情がやや歪む。


「いいわよ。あたし一人で行くから」

「あんたを送るどうのじゃなくてな。俺の友達も何か今日そんなこと言っていたから」


 友達、ね。彼はふと苦笑する。


「何笑ってんのよ」

「いや別に」


 妙におかしくなる自分に中佐は気付く。だがそれではなかなか事は進まないので、その線で通すことをとりあえず自分に言い聞かせる。


「俺もその友達と今日は約束があるんだよ。だけど下手すると不器用な奴だから、ずっとずるずるその場に居るかもしれないだろ」

「あなたの友達で、不器用というのもなかなか考えにくいけどね」

「お誉めにあずかってきょーしゅく」


 ヴェラの言葉に彼はややおどけた礼を返した。実際、今日あの学生食堂の端で、キムが会っていた相手がヴェラの妹であることは知っている。

 偶然だよね、とキムはいけしゃあしゃあと言っていた。

 人文学群は、彼らが降りてきた元アトリエの部室と、同じくらいか、やや高い位置にある。一度階段を降りたというのに、また別の階段を上がらなくてはならない。さすがにヴェラもこの階段には息切れがしているようだった。


「この学校の問題はね、この上り下りだと思うわ!」


 それでもちゃんと罵りを忘れないあたりが、彼女の性格なのだなあ、と彼は思う。気が強いのか、気を強くしていようとしているのか、そのあたりは判らない。だがまあ、見ていて、そう悪いものではない、と彼は思う。

 何はともあれ、前向きだ。彼は前向きなものは好きだった。

 いくつかの階段と坂を上り、ようやく人文学群の校舎にたどりついた時には、彼女はずいぶんと肩で息をしていた。


「どうする? 休んでくか?」


 中佐は声を投げる。息を切らしながら、それでも彼女は首を横に振る。しょうもねえな、と中佐は彼女の腕をぐっと引いた。


「何すんの」

「いいから掴まっていけよ」


 少々の間のあと、ありがと、と小さな声がした。

 人文学群の中でも、文学部は奥の方にあった。肩に掴まったヴェラの微かな動きと、多少の記憶を頼りに彼は校舎群の迷路をすり抜けていく。


「もういいわ」


 彼女の手が離れる気配がする。ここか、と中佐は目の前に立つ六階建ての校舎を見上げた。あちこちにまだ灯りがついている。研究室に残っている教授達がまだ居るのだろう。


「カシーリン教授の研究室は知ってるの?」

「一応。妹から聞いてはいるわ」


 中佐はうなづく。

 掲示板が立ち並ぶピロティーを斜めに突っ切ると、開いている扉から彼らは中に入った。所どころの部屋から漏れる光が、灯りの消えた廊下の僅かな頼りどころである。

 中佐自身はこの程度の薄闇は大した問題ではなかった。目の波長をやや切り替えると、周囲の状況も判ってくる。

 入った棟を大きく突っ切り、次の棟に入ったらしい。

 その廊下を真っ直ぐいくと、ほのかに薄緑に光るものがある。エレベーターだ、と彼は気付いた。

 それもかなり旧式に見えたが、ここでは普通なのだろう。

 彼女が大きなボタンを押すと、がたん、と一瞬音がして、厚手の金属の扉が開いた。中には灯りが煌々とついていた。


「何階?」


 彼女は六階、とだけ答えた。最上階か、と彼はつぶやく。ごとんごとん、と音でも聞こえてきそうな程、そのエレベーターはゆっくりと動く。だが苛立ってはいけない。ここではそれが普通なのだから。


「妹って、文学部に居るの?」

「ええ。頭のいい子だからね。スキップして、あたしと同じ学年」


 そこまで聞いた覚えはない。彼女はそこにコンプレックスを持っているな、と中佐は思う。少しばかりつついてみたくなり、彼は気付かないふりを装う。


「へえ。でも違う分野じゃない」

「たまたまそうなっただけよ。もしも同じ科目取っていたら、と思うとぞっとするわ」

「ふーん。じゃああんたは妹のこと、嫌いなんだ」


 突然ヴェラは彼の方をきっと見た。


「何でそういうことになるのよ」

「え? だって俺にはそう聞こえたよ?」

「嫌いだ何だなんて、考えたことないわよ! 妹なんだから。同じ教室で机並べること考えるとぞっとすると言っただけじゃない」

「ふーん、やっぱりそんなもんなのか」

「姉としては嫌よ」


 ぷい、と向こうをむく彼女に、プライドという奴だな、と中佐はやや感心する。

 やがてエレベーターはちん、と音を立てて止まった。

 重い扉が開いた六階の廊下には、一つだけ灯りがついていた。だがその廊下自体が長いので、視界はやはりうすぼんやりとしている。

 それでも数室は人が居るらしい。閉ざされた扉のすき間から光は漏れている。

 そして幾つかのそんな光に目を止めた時……


「ん?」


 中佐は足を止めた。

 扉から、手がのぞいていた。

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