「何、誰か、捕まったの? 知り合いが」
「……家族がね。当の本人は、知らないわ」
「ところがだよ、コルネル君」
編集長は、ここぞとばかりに強調する。
「その行方不明になっていた彼女の幼なじみなんだが、先日僕は、この学内で見付けたんだ。だけど姓が違うから、本当に本物かどうかは判らないんだけど」
ヴェラは仏頂面になって、自分の目の前のソーセージサンドに大きくかみつく。ぱり、とはさまれていたレタスが音を立てる。
「何って人? 俺の知ってる奴?」
「さあどうかなあ。社会学群の方で見かけたとも、医学群の方に居たともいうし」
「医学群なら、部長さんでしょ」
「いや、俺は彼ほどそういう記憶力には優れてないんだ。それに、結構医学群は、範囲が広すぎて、案外知り合いというのが少なかったりするんだ」
へえ、と中佐はうなづく。
「じゃ俺はすれ違うかもしれないね。何って名?」
「彼女によると、昔はラーベル・リャズコウって名だったらしいんだけど」
「昔は?」
聞き覚えのある名に、中佐は内心やはりな、とつぶやく。
「その似てる、もしくは同じじゃないかって奴の名は、ラーベル・ソングスペイ」
「あまりこっちの人間っぽくないね。その名は」
「君だってそうだろう? コルネル君」
「偶然だって」
彼はさらりと受け流す。
*
だが偶然ではないことをコルネル中佐は知っていた。
食事兼ミーティングの後、彼らは学生食堂からそのまま部室へなだれこみ、読み合わせもへったくれもなく、もういきなり場面ごとの演技指導ということになってしまった。
やれやれ、と彼は思ったが、何とかなりそうだ、という気もしている。
実際にその本番が行われることがあるかどうかは判らないが、たとえあったとしても、彼はまあ何とかなると踏んでいた。
とりあえずその日の解散が告げられた時には、既にとっぷりと日が暮れて、真夜中と言ってもいい時間となっていた。
部室である元アトリエの高い天井に、やや低い位置からぶらさがっている灯りがほんやりと白く、その上に、ただ黒い夜空が見えた。
彼の役割は、道化師だった。
特に台詞という台詞がある訳でもないが、登場人物のまわりにひょい、と現れて、意味ありげな動きを見せ、またさっと過ぎていく、というものである。
従って、演技力とか記憶力とか、そういうものよりはとにかく、印象的な姿であること。それが第一だった。
……という訳で、前任者は、印象的であったため、官憲に目を付けられて逮捕されたということになっているのだが。
無論、そんな訳ではない。
上陸した後、彼らは、各地に別れて作戦行動を取ることにした。今回軍警中佐としての彼が率いたのは、総勢二十名くらいの小部隊である。今回の配属人員の最低条件は、キリール・アルファベットが「それなりに」判ることだった。
そしてその中でも「読めるが使いにくい」者半分が、エラ州の外の州に飛び、情報収集にいそしみ、「話せる」半分が内部に居る。
そしてその中でも、特にネイティヴと変わりの無い、しかも学生として潜り込める程度の外見である四人が、首府とも言えるシェンフンに居るのだ。
表向きの目的は、これから組織的反乱の起こりそうな所へ入り込み、内部から切り崩しをかけること。
さて、その入り込む場所、というものを探す時、キムはともかく、中佐は多少考えた。何せ彼は目立つ。放っておいても、その外見は目立つのだ。
だったら、その目立つのを利用しないことには意味がない。
そこで彼は、大学祭の情報を入手した時に、演劇部の新作の内容を見て、にやりと笑った。
翌日、演劇部の道化師役の派手な学生が、投獄されたという情報が、学内に流れた。
中央大学の学生は、だいがいが叩けばほこりの出る身体だったから、ついでだ、と当地の軍警に取り調べは任せてある。
演じるということは、現在の彼にとってはそう難しいことではなくなっていた。何せ、今こうやって何気なく過ごしている時間そのものが、一つの芝居なのである。
元々の自分が、居たことは居た。だがその元々を隠し、別の顔、別の姿、別の名前を身につけてから、彼はずっと、その役を演じている。
もっとも。
彼は足下の葉の感触を確かめながら内心つぶやく。
最近じゃどっちが本物かなんてわかりゃしないんだけどな。
「コルネル中佐」ではない元々の自分は、煙草は吸わなかった。健康のためにという母親の言葉を苦笑まじりで聞き入れていたような気がする。
言葉使い一つにしても、ごくありふれた家庭に育った、ごくありふれた軍人のそれだった。それは一つ一つ、小さな積み重ねで作った自分であり、時間だった。
他人がどう言おうが、それは大切な日々であり、自分を今の自分にするための、重要なものであったと言える。
だがどんな重要なものであろうが、それが崩れ去る時は一瞬である。そして一度失ってしまったものは、二度と手には入らない。
あれもそうなのだろうか?
様々なヴァリエーションで、笑顔を絶やさない連絡員の姿がふっとよぎる。無論盟主の元に居るのだから、何かしらの理由があるのだろう。キムは何も言わないが、そういう気はしている。
聞いてみたい気がしない訳ではない。だが聞いた所で言わないだろうことは何となく予想がつく。自分が言わないように。何となく、彼は自分があの笑顔に苛立つ原因を知っているような気がしていた。
ふと彼は、足を止めた。一拍遅れて、葉を踏みしめる湿った音が耳に入る。まだ枯れ葉とは言い難い葉は、あまり大きな音を立てない。
首をかしげ、彼はもう少し足を進める。そして「大通り」の半ば、常夜灯の薄緑の灯りが煌々と光る所まで来た時、不意に振り向いた。
追跡者は、大きな目をさらに大きく見開いた。