軍用車から降りると、Mは部下についてくるな、と合図をした。
部下は黙ってうなづいた。彼らの司令は、その類の命令に反抗されることを嫌う。手にした鞭の鳴る音は誰も聞きたいものではないのだ。
長い黒い髪を揺らせ、雪と灰を踏みしめ、Mはその気配を探した。だがその強い気配が見つかるには、さほどの時間はかからなかった。
小柄な身体のレプリカントが凍り付いた人工血液の中で転がっている。
司令はそのそばへと吸い寄せられるように近付いた。
レプリカはレプリカで、その気配に気づいたのか、それまで閉じていた目を薄く開いた。
「やあ久しぶりだね」
乾いた声は、ひどく冷静に響く。
「……」
Mは黙って、基幹部に大きく穴を開けられ、横たわるレプリカントの傍らへ膝をつく。ぱりぱり、と赤い氷がその拍子に壊れる。
「君と再会のはいつも変わった時だよね。最初は地球だ。まだ君も宇宙に出る前だったね。そして次に会った時、君は最高の天使種になっていた」
Mは首を横に振る。喋るな、とその目は語っていた。力の無いその手を取る。声を出さなくとも、触れれば自分には読み取れるのだから、と。そして相手はそれを知っているのだろうから、と。
だが反乱の首謀者は半分だけ目を伏せて、それには応じなかった。
「もうじき放っておいても声は出なくなるさ。それまで俺に喋らせておいてくれ」
よかろう、とMはうなづいた。だが取った手を離そうとはしなかった。ハルもまた、それを拒もうとはしなかった。
「……頼みがあるんだ」
「何だ?」
「もし、見つけたら、君の手で守ってやってくれないか?」
言葉以外の何かが、彼の意識に触れる。
読んでくれ、と相手は一つの姿を意識のスクリーンに投射した。
そこには栗色の長い髪をしたレプリカントの姿があった。何だ、とMはその正体をレプリカの首領に訊ねた。簡単で明瞭な答えが、手から伝わってくる。そして言葉はこう補足する。
「生きているはずなんだ。四散した気配はない。何処に居るのか、今の俺にはもう判らないけれど、ただそれだけは判る。あれはこの世界で、生きるだけの価値と生命力を持っているから」
「……」
「そして俺は、奴にもう何もしてあげられないから」
「どうやって探せばいいというのだ」
「……そこまで俺に考えさせるの?」
ふっ、と首領は笑った。
だが、その視線はMを通り越して、何か別のものを見ているようにも見えた。Mはそれに気付くと、彼にしては珍しく、弾かれたように後ろを向いた。
ああ、そこに、居たのか。お前やっぱり、そこに、ずっと、居たんだな。
伝わった心は、そうつぶやいている。
やっぱり、そうだったんだな。奴が、らしく、なかったのは。
Mは目を大きく見開いた。彼を知っている者なら、驚愕するであろう程、その表情は、大きく動いた。
「お前は言ったな」
Mはだが抑揚のない口調で、彼に話しかける。
「自分を迎えにくるのは黒い魔物だと」
そこに、見えているのか、という質問は口には出されなかった。だが言葉にせずとも、触れた手からは伝わっていくはずだった。
「ああ」
ハルは笑った。既にその目は、Mを見てはいない。彼を抜けて、遠い空の向こうを見ているようだった。
「もうそこに来ているよ。ああ手が動けばいいのに。俺は、ずっと、待っていたんだ。会いたかったんだ。ずっと。この時を」
「ハル」
「もう、いいだろう?」
微かに、Mの瞳が震えた。
その言葉の意味は彼にも容易に理解できた。
「お前はどうしてずっと……」
「それが、俺だからだよ」
彼の昔犯した罪。
そしてそれを一つ償うために彼は生身の身体を無くし、そして最も大切な相手を見送り、長い時間をたった一人で送り―――
なおかつ自分のせいで目覚めてしまった「生物」のために戦った。
「もう……」
ふっと彼の表情が緩んだ。そして目が伏せられる。唇が微かに、一つの言葉を口にしようとした。
だがそれは音にはならなかった。
天使種の司令は、すり落ちる手を、真紅の氷の真ん中に重ね、立ち上がった。
―――探さなくては。
約束は、守らなくてはなるまい。