キム、とアルトの声が呼んだので、彼は現実に戻った。既に船は宇宙に出ていた。彼は座席のベルトを外すと首領の副官の方を向く。
「ちょっとこっちへ来てくれ」
何だろうと思いながらも彼は立ち上がった。座席で大人しく次の行き場所を思って休んでいる仲間の間をすり抜ける。
「何」
彼はやや視線を下に下げる。トロアは彼の首領同様、さして大きくはない。小柄と言った方が正しい。
「あまり私はお前に頼みたくはないのだが」
何だろう、とキムは不思議に思い、軽く首を傾ける。長い髪が揺れる……編んだ分をのぞいて。
トロアにしては実に奥歯にもののはさまった言い方をする。普段彼女はそんな言い方をしないはずだ。
「そもそも、いちいち口で頼まなくてはならないのが私には実に口惜しいのだが」
「だから、何だよ」
キムは彼女に言葉をうながす。こんなに言いにくそうな彼女は、見たことがない。
「我らの首領がな」
「ハルがどうしたの?」
「沈んでる」
「水なんてないじゃない」
「馬鹿。そのくらいの比喩も知らないか? 落ち込んでいるんだよ」
「ハルが?」
彼は耳を疑った。そんな馬鹿な。
「信じられない、って顔しているな、キム」
ああ、と彼はうなづく。確かに、信じられないのだ。
彼にとって、首領はある種絶対的な存在だったから。そんな、不可解で曖昧な人間のように、悩むとか落ち込むとかということとは無縁なはずだった。
なのに。
「まあな。私達としても、そういうことは無い存在で居てもらいたいのだが…… 仕方がない」
「仕方がない?」
「そうであるからこそ、彼は、我らが首領で在るのだから」
「あんたの言葉は時々難しすぎるよ、トロア」
「そうか?」
そう言って首を傾げる様は、何処となく首領と似通っているというのに。
「難しいというのならすまない。だが私はこういう言い方しかできない。そして私の役割が役割である以上、私は他の人格であることはできないのだよ、キム」
「だから、何を俺にさせたいの?」
こ難しい論議は、どうやら止まるところを知らないようだったので、キムはとりあえずしかめっ面になって、次の行動をうながした。
「なぐさめて、くれないか?」
「なぐさめる?」
「あの捕虜には、結構そうしていただろう?」
あれでなぐさめていたと言うのだろうか?
何となく首を傾げたくはなるが、彼には断る理由はなかった。その程度でいいのなら、彼は、構わなかった。
「ハルは何処に居るの?」
「そんなことすら気付かないのだからな。この廊下の突き当たりに扉があるだろう? その向こうだよ」
「わかった」
苦笑するトロアを背に、彼は突き当たりに向かって廊下を歩き出した。
*
「……開けるなって言ったろ?」
扉を開けたら、そこは暗かった。
あの低い、乾いた声がその途端、彼の耳に飛び込んできた。
キムは視界の波長を切り替える。壁に寄りかかり、だらんと腕を力無く下ろしている首領がそこには居た。
大きな瞳はぼんやりと半開きになり、彼が入ってきたにも関わらず、天井の方へ向けられていた。
「……キム」
「トロアが、あんたが落ち込んでるって言ったから……」
「俺が?」
そしてようやく、視線が彼の方へと向く。
「俺が落ち込んでいるって? それでお前、何しにきたの」
「だから…… 俺にだって判らないんだけど」
「……まあいいや」
ぶるん、とハルは頭を軽く振る。長い前髪がその拍子にその端正な顔を隠した。
「ちょうど良かったよ。奴から連絡が入ったんだ」
「奴?」
「知らないのはお前だけだからね。俺はお前には言葉で伝えなくちゃならない」
彼はその言葉に眉をしかめる。俺だけが知らない。決してそれは嬉しい言葉ではない。
「あの捕虜さ、あれから向こうの追っ手と交戦して、『墜ちた』らしいよ」
「……『墜ちた』?」
「連中の、アンジェラスの連中の隠語でさ、奴もそのへんをきっちりとは説明してくれなかったからさ…… いまいち俺にも正確なところは判らないんだけど…… 何か、宿主の身体を守るために、中に居る何かが時空を越えて逃走をはかるんだってさ」
「?」
「……ああ言わなかったっけキム。奴らは、位相の違う生命体との複合生物。そういう意味で、奴らは、人間じゃない、って俺、お前に言わなかったっけ?」
キムは黙って首を横に振る。
それに近いことは言われた。だがそういうふうに首領が言うのを聞いたことはない。
そんなふうに、吐き捨てるように言うのは。