「怖いもの?」
そう、とキムは馴れ合わないはずの捕虜に訊ねた。
「怖いもの、ね。そうだな。俺は、あのひとが、一番怖い」
「あのひと、ってお前が裏切った理由の、あのひと?」
そう、とGはうなづく。
「それって変じゃないか? 好きって言うんならまだ判るけど」
「好き」という感情にしたところで、キムにはまだいまいち把握のできないものなのだが。
「怖いんだよ。自分の一番弱いところを正面から刺し殺されるような感じがした」
「怖いから、そのひとのために動く訳?」
「違うよキム、怖いのは怖いんだ。だけど、怖いから、惹かれるんだ」
「……判らないな」
キムは首を振る。長い栗色の髪がさらさらと揺れた。それを見てGは、不意にその長い髪に手を触れた。何、とキムは不思議そうに相手の行動を見る。だが避ける訳ではない。
「いや、長いなあと思ってさ」
「お前だって長いじゃない」
「俺は縛ってるじゃない」
「いちいちそんな」
ふむ、とGはそれを見ながら何やら考えているようだった。
当初会った頃に比べれば、この捕虜は元気になってきたと言える。
理解ができる訳ではなかったが。だが自分の周りにいる奴に生気が無いのは彼は好きではなかった。だからついつい口をはさんでしまう。手を出してしまう。
時々は、作りではない笑顔も見せる。彼はそんな変化に気付くたびに、何となく胸の中にくすぐったいものを感じる。
「出発は、明日の朝だよ」
そしてキムは何気ない口調で告げた。
「お前はどうすんの? 俺達とは行かないんでしょ?」
「まあね」
髪から手が離れる。さらさらとそれは流れるように重力に従った。
「一緒に来ればいいのに」
「人間なのに?」
Gは苦笑する。だがキムは、その言葉にはもう別の答えを用意していた。
「違うでしょ?」
Gは弾かれたように顔を上げた。何だって、と言いたげに彼の方を真正面から見据えた。
「天使種は人間じゃないでしょ」
Gは目を大きく広げる。キムは続けた。
「首領が言ってたよ」
そうだ。首領は言ったのだ。あの時、捕虜を捕らえた時、天使種の正体を。
「天使種は俺達が敵としなくてはならない『人間』ではないって。むしろ俺達のような、何かと何かが生きてくために共存しているようなものだって。だからGは俺達と大して変わらない訳でしょ?」
「お前……」
あ、驚いてる、とキムは目の前の相手の顔を見ながら思った。
「でも俺、別にそれでお前に、お前を捕らえる時の、軍の連中をやったことは別に弁解しないからね。そうしなくちゃ俺達は生きられないでしょ」
「……ああ」
それは事実だ。事実なのだ。Gがどれだけ悩もうが何だろうが、事実なのだ。
「それで何か悩んでる? お前は」
追い打ちをかけるようにキムは訊ねる。
「悩まないのか? 自分のしていることが正しいかどうか……」
「そういうのは、生き残ってから考えればいいんだ」
やや怒ったような口調で、キムは口をとがらせる。
「何であったっていいじゃないか。天使種だろうがレプリカントだろうが。Gは俺より『覚めて』る時間長いはずなのに、どうしてそんなことも判らない訳?」
「キム?」
「そんなことは、誰が決めるんだよ?」
「誰が……」
「正しいか正しくないかなんて、そんなの、お前、自分で決められるほど自分が正しいなんて思っている訳? そんなのは、後で考えればいいんだよ。死んだ後で、誰かが決めればいい。少なくとも、そんなことで今生きなくちゃならない俺達が、悩む暇はないよ」
とは言え。
キムは先日Gが言ったことを忘れた訳じゃない。この目の前の相手は、生きなくてはならないという感覚が希薄なのだ。
Gは目を閉じることも忘れて、目の前の彼を見据えている。言い分はあるのかもしれない。だけど、キムはこう言いたかったのだ。それが全て相手のためであるかは別として。
「俺はさ、だからまず生き残りたいし、それに、助けてくれた首領のために、何かしたい。それで生き残れたら、それはその時だし、死んだらそしたら、俺の行動なんて、後に俺達を滅ぼした人間達が勝手につけてくれるさ。だけどそれはもう俺の知ったことじゃないだろ?」
ああ、とGはうなづいた。
「お前にはそういう相手はいないの? 居るんだろ?」
「居る」
「だったら話は早いじゃない。とにかく生きていりゃ、その人のために何かできるじゃない」
そうだ。そう考えれば、全てが丸くおさまるじゃないか。悩む間などない。前へ行かなくてはならないのだ。前へ。
誰かに背中を押されたような勢いで、キムはGに言い放っていた。Gは苦笑する。
「……全くお前は」
「何、俺笑えるようなこと言ってる?」
いいや、とGは軽く頭を横に振った。その拍子に、キムほどではないが長い髪が揺れた。それを見てキムは彼に訊ねた。
「ホント。いつもリボンで縛ってるけどさ。面倒じゃない?」
「え?」
「いつだってそうじゃない」
「……ああ」
Gはそうつぶやくと目を伏せた。それにまつわる何かを考えているらしいが、それが何であるのかはキムにはさっぱり判らない。
そして不意に、それまで時々もてあそんでいたキムの髪を本格的に手に取ると、両手を使って器用に編み始めた。
「何すんの」
「こっちだっていつも思ってたんだよ。ちゃんと手入れしないと、傷むぞ」
「ふうん」
そして長く編まれ、ハンカチでとりあえずと縛られた自分の髪を見ながら、キムはうなづいた。
「悪くないね」
だろ、とGは軽く笑いかけた。
「編むの上手いじゃん。よくやっていたの?」
「自分のことは自分で、が俺達の惑星の連中の基本だったからね。編むのは、縛るのは自分でやるんだよ」
「ふーん……」
そして不意に、するりと奇妙な質問が口から滑り出した。
「……じゃあ誰が解いたの?」
……
Gの笑顔は凍り付いた。
だが言ったキム自身、自分が何故そんな問いを発したのか、さっぱり判らなかった。目の前のGは、それまでの打ち解けかけた表情から、何か奇妙なものを見るような表情になっていた。
いや違う。キムは頭の半分が冷静に判断しているのを感じていた。
これは出会い頭に思いがけないものに出会った時の表情だ。
例えば幽霊。例えば化け物と呼ばれる類のもの。その文化圏においてあり得ないと信じられているもの。
そしてGは、震える唇から、こんな一言を絞り出した。
「……お前は誰だ?」
え、とキムは問い返した。
「一体、お前は、誰なんだ? 何なんだ?」
何なんだと言われたって。キムは返す言葉が見つからずに、ただ困ったような顔で、自分の目の前の相手を眺めた。Gはしばらくそのまま、やや目を細めてじっとキムを見据えていたが、やがて大きく首を振った。
何となくキムはそんな相手の様子を見て、腹の中にもやもやとしたものを感じた。
「言いたいことがあるなら、言ったらどうなの」
「言いたいことなんて、ないよ」
「違うよ、お前はただ黙ってるだけじゃないか」
「それに、どうしてそんなに俺に構うんだよ。俺の思い出したくないことを、言うんだよ。俺は……」
そして再び首を大きく振る。
「……そうだよ。これを解いたのは、一人だけなんだ。奴だけだよ。俺が裏切った、俺のことを、確実に、誰よりも、好きだった奴だったんだ。俺はそれを知ってた。だけど俺は、それでも、そうせずにはいられなかったんだ」
そして両手で顔を覆う。指のすきまから、うめくような声が、絞り出されてくる。
「いつだって、最初から、奴は、俺のことを大切に思ってくれた。ちょっとした意地悪さえも、それは、俺のためだった。俺は、ただ奴の声で、全てを、忘れたかっただけなのに」
「忘れたかった?」
「奴の声は、俺の理性を失わせた。そういう作用が、あったんだ。それが天使種の力なのかもしれない。俺達はもう七番目の世代だから、大した力はない。だけど、全く無い訳じゃない。特定の誰かに向けられる、ってのはよく聞くことだ。奴の声は、俺だけに向けられていたよ。いつも」
身勝手な言い方だ、とキムは思う。
それだけ言っていても、Gの言葉からは、それが「誰」なのか、結局告げられていないのだ。身勝手だ、とキムは思う。そしてまた、自分の背を誰かが押す。
「……好きじゃなかったんだ」
「判らないんだよ!」
キムは唇を噛む。まぶしそうに目を細める。両の眉の距離が狭くなる。
「俺はいつも先送りしていたんだ。奴と居るのは気持ちよかった。少なくともその時は、俺はこの世界に居ることが辛くなかった。気持ち良かった。だから、それを失ってしまうのは、ひどく怖かった。だけど、好きかどうか、なんて、俺には、判らないんだよ! 俺は、それを、気付こうとしなかった。先送りにしてきた。どうせ、軍人なんだから、と」
「卑怯だよ」
「そうだよ俺は卑怯だよ。本当に、嫌になる程、卑怯なんだよ!」
Gは顔を上げた。
「でも、失いたくなかった」
「だけどお前だよ。それをしたのは」
「そうだよ、俺だよ」
長い前髪に、長い指を差し入れてかき乱す。
「でも」
キムは再びあの感覚がやってくるのを感じていた。今度は、それがどういうことか、彼にも判った。
「お前はそれに、けりをつけたんだろ?」
キムは内心つぶやく。俺は、何も、言っていない……
『……誰だ?』