「……そんなことはもう重々判っていることでしょう?」
無表情なトロアの声が、それに重なる。
「あなたは勝手です。そんなことは判りすぎる程判っているではないですか。何故迷っています?」
迷う?
キムはそっと扉に耳を寄せる。感度を高める。その会話の一欠片も聞き逃さないように。
「俺は迷っているように見える? お前には」
「見えます」
きっぱりとしたアルトの声は、首領を叱りつけているようにも聞こえる。どうしてそんな口調で、彼女が首領に向かって言えるのか。キムは驚いていた。そしてひどくそれに興味が湧く自分に気付いていた。
「私たちは、どんな結果になるにせよ、決着をつけてくれる存在として、あなたが必要だったのです。それは判っているはずでしょう? 今更、あなたには迷う資格などないはずです」
「……そうだね。俺はそういうことをいう資格はない」
「ええそうです」
トロアはきっぱりと言った。
「あなたには、そんな資格は一つとして、無いのです」
「ああ全くそうだ。お前はいつだって強い。昔からそうだったな。どうしてそういられる?」
「私はそういうものだからです。あなたがそういう人である限り、私はそういうものでなくてはならなかった。それだけのことです。そういう者だからこそ、あなたを眠りから覚ますことができたのではないですか」
どういう意味だろう。キムは眉を寄せる。誰が眠っていたというのだろう。
「俺はずっと眠っていてもよかったんだ」
「だけど眠ったままでは、終わることもできません」
終わる? 思いがけない言葉にキムは混乱し始める自分に気付いた。だがキムの混乱など、無論知らないトロアは続ける。
「終わらなくては、あなたが会いたい者にも決して会えないのです。それは判っているのでしょう? 日和っているだけでは何も変わりません」
「……」
「あの時と同じでしょう?」
「お前の言うことは正しい」
ハルは重い声を立てた。
キムは聞き耳を立てながら、背筋がぞっとするのを覚えていた。
「だが正しいだけで、すべてが済むなら簡単だ」
「それは言い訳です」
トロアの声には容赦が無い。
「そして俺には、言い訳をするだけの時間はない?」
「無いです」
ああ、と吐き出すような、うめくような乾いた声が耳に飛び込む。キムは思わず目眩がした。その拍子に彼はそれまで近づいていた扉に身体をぶつけてしまった。
「誰?」
乾いた声が、問いかける。近づいてくる気配。聞き耳を立てていたことを気付かれたくないけれど、身体が動かない。
扉が開く。彼は反射的に顔を隠した。どうしてそうするのか判らなかった。だけど、それは、ひどく自然に。
「キム…… こんなところで何してるの?」
ハルはその場にうずくまっているキムをひどく冷静に見下ろしていた。
「……あ、あのさ、ハル……」
「何か、俺に、用?」
声が、出なかった。
「用が無いなら、今は、近づくんじゃないよ」
「……あ…… 服のしまってある部屋を……」
ようやく絞り出すように、彼はそれだけを口にする。そうだそれだけは聞かなくてはならない。
「服?」
「Gが……」
「……ああ、寒い?」
「らしいから……」
「ああ……」
納得とも何ともつかない表情で、ハルはうなづくと、あっちだよと素っ気なくそこから三つめの扉をさした。
「確かに、寒いよね」
それだけ言うと、ハルは扉を閉じた。そこからはもう声は聞こえなかった。ハルの声も、トロアのあの糾弾する声も。
何となく、自分の身体がこわばっているのに彼は気付いた。一瞬、立ち方をも忘れてしまったかと思った。無論それは錯覚だったが。
そこから三つめの扉を開けると、確かに保温性に優れていそうな服が、ずっと使われたこともなさそうに、透明な袋にくるまれ、畳まれて、いくつも重ねられている。
彼はその中から深いカーキ色の、大きめのものを選ぶと、両手に抱えた。
手に掛けた服は、たちまち彼の一定に調整された体温を反映して、腕の表面の温度を上げる。上がった表面にもう片方の手を突っ込むと、彼は内心つぶやく。それがそんなに大切なことなのかな。
首領は確かに、当然のようにうなづいたのだ。Gが寒いと言ったことに対して。
だがキムにはよく判らない。
それがそんなに大切なことなのかな。
寒いって、何なんだろう。
彼はふと疑問に思う。