それが始まりだった。
それからあの年下の友人とのつき合いは続いていた。
結局は、落とされたのは自分だ、と気付いている。
ただそれが恋愛かと問われたら、彼もまた、上手い答えを見つけられなかったと言える。
惹かれたのは事実だ。好きは好きなのだ。愛しいと言えば愛しい。だから欲しいと思った。それは間違ってはいない。それだけ取れば、間違いなく恋愛の範疇に入るだろう。
だが、それだけだろうか、と彼は時々思い出すかのように考える。
それまでの惹かれた相手に対する感情とは確かに何処か違っていた。少なくとも、彼はそれまで枕を交わした相手に、哀しいなどという感情は持ったことがない。
あの友人と夜を過ごすたびに、何がそんなに辛いのだろう、と彼はよく考える。だが年下の友人は、そんなことはまず口にしない。
プライドは高いだろう。だが教えたことが間違っていないと自分で判断すれば、素直に受け入れる。間違っていると思えば、徹底的に反論する。高いだろうと言っても、それは無闇やたらな意味の無いものではない。可愛い程度のものである。
彼の見る限りでは、友人は、毎日を一つ一つ必死に精一杯こなしているような印象があった。他の同級の生徒とはしゃいでいる時にしても、訓練の様子にしても、お祭りごとにおいても。
なのに、彼と居る時には、その昼間にあった全てを忘れ去ってしまいたいというかのように、友人は表面的な快楽をひたすらむさぼる。まるで自分が自分であることを忘れようとしているかのように。
聞いてみようか、と思わなかった訳でもない。
だが聞いたらそこで何か、それまで自分にだけは開いていた何かが閉ざされてしまうような気がしていた。
何やら自分にしては情けないような気がしたが、それは本当だった。失うくらいなら、言いたくないことは存在する。言わなければ永遠に失わない、ということではない。だがその期間を少しでも長く長く、彼は伸ばしていたかった。
だが彼は、他の失い方を想像できなかった。
*
「何だって?」
その下士官が伝えてきた知らせは、彼の声を張り上げさせた。
「間違いではないのか?」
「間違いではありません。帰還した軍曹は、それを告げて息を引き取りました。彼が、最後だったと」
「…馬鹿な」
「ですが少佐…」
彼はまばたきすることも忘れたように目を大きく見開くと、無意識のように前髪をかき上げた。
「決死の報告です。信憑性は…」
「…黙れ」
「ヴィクトール市に出向いた部隊は全滅だと」
「黙れと言ってるだろうが!」
びくん、と下士官の肩が上下した。
*
いくらそれが本当だとしても、にわかに信じがたい物事、というものは確かに存在する。その場合、信じがたい、というのは所詮自分に対する言い訳に過ぎない。
要は、信じたくないのだ。
廊下を歩けば、何やらいつもと違う雰囲気が、自分の周囲には漂っているような気がする。目だけでちら、と確かめると、そこには明らかに起こった状況と自分を結びつけて何やら同情したような視線が感じられる。
不愉快だった。
彼は情報の真偽を問うべく、自分の直属の上司の所へと出向いた。それでもそこは上司らしく、多少喉に何やら詰まった口調であったにせよ、事実は事実として、彼に伝えてくれた。
気を落とすなよ、などと言わなかっただけ上等、と彼は思う気を落としている時に、それは最も聞きたくない台詞である。
聞かされた内容はこうだった。一昨日の未明に戻ってきた中尉…階級からして、年下の友人の直属の部下であるだろう。名前を聞いて、それが先日モニターの前で友人と何やら話していた尉官であることを思い出した。ああそうか、あれか。
それが重傷を負って戻ってきた。基地の中に急な動揺をもたらさぬよう、中尉は秘密裡に医局に運び込まれ、手当を受けたが、その甲斐なく、昨日の夕方息を引き取ったと。
その中尉が、亡くなる前に、部隊の状況を話したのだという。ヴィクトール市のレプリカント工場を、どのようにして「反乱」を起こしたレプリカントが占拠したか、そして「優秀な兵士」である自分達をどのように攻撃したか。
結果として、レプリカント達は、部隊の兵器をも奪い取って全滅させたと。
鷹はその話を聞いた時、身震いがした。
「優秀な兵士」で占められた部隊を、しかもあの友人が率いている部隊を、レプリカントは全滅させた。
彼等天使種を「全滅」させることには、なまじの方法ではできない。首をはねるとか、一瞬にして、確実に息の根を止めるか、さもなければ、再生不可能な程に肉体を拡散させてしまうか、どちらかである。
だが前者を行うには、かなりの手練れでなければ不可能であるし、そもそも、人間をその様に殺すことができるレプリカントというものが鷹には想像ができなかった。
かと言って、その肉体を一瞬にして拡散させてしまう程の衝撃…例えば熱爆発…のようなものを起こしたとしたら、その周辺にまで大きな影響をもたらすはずである。
レプリカント達は、ファクトリィを必要としている。その場所を犠牲にしてまでそのような攻撃をするはずがない。
だとしたら。
鷹は何かが引っかかっている自分に気付いていた。
「…で少将、その件について、司令はどのようにおっしゃっているのですか」
「うーん…」
額に汗を浮かべながら、彼の直属の上司である少将はうなる。上官は、第二世代の一人である。
司令に対して頭の上がる立場ではない。事なかれ、とまではいかないにせよ、長年この地で実戦に出ることもなく過ごしているうちに、緊急事態のようなものに対する耐性というものが弱まってしまったらしい。
「…何らかの対策を考えてはおられるようだが…」
予測がつかない、ということだろうか、と彼は思った。
*
するりと誰かが忍び込んでくる気配があった。
そんなことはある訳がない、と思いながらも、彼は慌てて身体を起こした。
そんなことがある訳がない。
「…少佐」
ある訳がないのだ。耳に届いたのは、顔見知りの若い下士官の声だった。彼を慕っている者の一人だった。だがその気配は、夜這いのそれとは違っていた。そう言ってしまうには、ひどく深刻すぎるものが感じられたのだ。
「…何だ? …わざわざ俺を叩き起こす程のことか?」
「はい」
よほど緊張しているのだろう。何処からも聞こえないようにと、ひそめながらも声がうわずっている。
「これだけは少佐にお聞かせしたいと思って」
「だから何だ」
「生きている、らしいんです」
彼は露骨な程に眉を寄せた。そして重ねて問う。それじゃあ意味が通じないんだよ。
「何が、だ」
「あの…」
「何が、生きているんだ?」
「…少佐です」
「俺は生きているだろうが。ここに居る」
「いえ、あなたじゃあないんです。別の…」
「はっきり言え」
ひどく言いにくそうな小柄な下士官の姿が、夜目にもよく判る。そしてその答えを知っているだろう自分も。
「言うんだ」
「…G少佐です」
彼は反射的にこぶしを握りしめていた。すぐには言葉が出てこなかった。それを見たのか見なかったのか、下士官は、同じ意味の言葉をもう一度繰り返した。
そして付け足す。
「…俺は少佐も知っての通り、医局に属しています。…あの生き残りのひとは、誰もが出払ったのを見計らって、俺に頼んだんです。どうしても他の士官には言えないから、と」
「…そいつはそんなこと言えるくらいに大丈夫だったのか?」
「大丈夫、でした。だけど翌日、当番を交代した後、急に容態が悪化したって…」
それを聞くや否や、彼は握りしめたこぶしを、すぐ近くにあったベッドの枠に叩き付けた。鉄製の寝台は、ぐぉん、と低い音を立てた。
その音にびく、と小柄な下士官が震えたのも判る。だがそんな場合ではなかった。
「…判った。よく知らせてくれたな」
「あの、少佐…」
脅えている。だけど少しばかりその声には物欲しげな何かが含まれていた。
彼は下士官の手を引き寄せると、強引に口づける。そしてすぐにそれを振り解き、判った、行けと付け足した。
下士官の立ち去る足音を聞きながら、彼は殴りつけてやや熱を持っている手をさする。そして言われた言葉の意味を考え始める。
生きている? 奴が?
*
ノックの音はしなかった。だが扉は開いた。
「…生きていると、聞きましたが」
予告もなしに、よく通る声が、司令官室の中に響いた。
「ああ」
司令は、急な来訪者にも動揺の色一つ見せない。まるでそれがあらかじめ決まっていたかのように。Mは平然と鷹の姿を認めると、やっと来たのか、と言いたげに立ち上がった。
「生きている」
主語はなかった。だが話は通じた。それは殆ど初対面の二人にとって、唯一の共通事項と言ってもよかった。
「何故ご存じなのですか」
「それを何故私に訊く?」
「あなたならご存じだと思ったからです」
「それは危険な発想だな。何故そう思った?」
鷹はやや眉をひそめる。
この部屋に入った時から、奇妙に圧迫感のようなものが感じられた。威圧感ともやや違う。第一世代に対する畏怖とも違う。何やら存在そのものに対する重さのようなものが、感じられるのだ。
他者に対する感度がそう鋭敏ではない自分でもそうなのだから、あの友人には一体どうだったのだろう。何となし彼の中で痛むものがある。
「奴は変わったんだ」
彼はあえて敬語を自分の舌の上から取り払った。虚勢のようだ、と自分でも思う。だが、そうでもしないことには、この相手に少しでも対等に近づく話はできない。
無論対等になり得ると思いはしない。だがそういう努力を少しでもしないことには、この目の前の人物は、自分とまともに話もしないだろう、という感覚があった。
「あなたがここに赴任してから、奴は変わったんだ」
「それが私のせいだと?」
「ああ」
鷹は断言する。司令は微かに口の端を上げた。…上げたように見えた。そして執務机の上に腰を下ろすと、足を組む。
「なるほどそれでは貴官はそれを不愉快に思っているのだな」
「不愉快…」
違う、と弁解しようとして、彼ははたと言葉に詰まった。確かに。全くそうでなかった訳ではない。
「今まで自分の手の中でだけ自由に見えた相手が裏切ったと」
「…違う」
「どう違うと言うのだ?」
どう言ったらいいのだろう。間違ってはいないが、問題のすり替えが行われようとしているような気がしていた。それではいけない。俺の言いたいのは。
司令は全ての物事を知っているかのように、彼に決めつける。言っていることは間違ってはいない。確かにそういう部分もあった。だけど、それだけじゃないはずだ。
だがそれをどうやって言えばいいのか。それをあえて弁解すべきなのか。否。下手な弁解は、自分のぼろを出すだけのことだ。彼は弁解ではなく反撃に向かった。
「…ではあなたは、違うというのか? 今度はあなたが、奴をその手の中で自由にできる、と」
長い黒い髪が、揺れた。
「違う」
「では」
「もとより私はあれを自分が自由にできるなどと思ってはいない。奴は奴の意志で私のもとに来た。そして奴は自分の意志で私の知る未来を信じたのだ」
「あなたの知る、未来?」
「そこに既にある未来だ。遠い時間に続く未来だ。我々天使種の進退にも関わるが――― それは対して重要なことではない」
不遜なことを、と鷹は一瞬血の気の退く自分を感じる。この人は、もしかして。
「知りたいか? 既にそこにある未来を」
「いや」
鷹は大きく首を横に振った。
「俺は知る気はない」
「何故」
「そんなものは、知らないから面白いんだ」
ほお、と司令は微かにあごを上げた。
「だが我々の生命時間は長い。その中で無目的にただ生き続けていくことに果たして耐えられるというのか?」
「俺は、平気だ」
司令の眉が微かに片方だけ上がった。
「どれだけ長かろうとも、生き続けなくてはならないのが我々種族というなら、その中で俺は何とでもやっていく。あいにく俺には自分を責める趣味はないんだ」
「なるほど。確かにお前ならそれもできるだろうな。だが奴にはどうだ?」
「奴は…」
判っている。あの年下の友人は、それが苦痛だった。
何がどうという具体的なことは口にしなかったが、自分が天使種であることを苦痛に感じていた。
「最初に見た時から奴はそうだったろう?」
「あなたはそう思ったんだ?」
「お前もそうだろう?」
司令は断言する。彼は頭の上から冷水を浴びせかけられた様な感覚が走るのが判った。
司令は無表情の目のまま言った。
「信じろと命じた訳ではない。奴がそれを求めていたのだ。私は奴の向かおうとしていた方向を判りやすく示したに過ぎない。明確な未来を。自分がそこで演ずるべき役割を割り振られた未来を。奴はそこで素晴らしく良い役者として機能するはずだ」
「だけど」
「お前はどうだ」
急に問われ、鷹は言葉に詰まった。司令はその様子を見ると、冗談だ、と付け足した。冗談にしては悪趣味だ、と彼は思った。
「お前にそれは似合わない」
「そうですか」
「だが役割は与えないが役目は与えよう。奴を追撃しろ」
は、と鷹は今度こそ本当に驚かされた。
「奴は我が軍を裏切り戦地において敵側に寝返った。追撃するには十分な理由だ」
「寝返った――― まさか!」
それもあなたの仕業か、という言葉はかろうじて彼の口からはこぼれなかった。
「役割だと言ったろう。いずれにせよこの軍において奴が必要とされる場面は既にない」
「追撃して――― 殺せと」
「誰もそんなことは言っていない」
彼はやや混乱した。追撃しなくてはならない。だが殺す必要はない?
「殺すも殺さないもお前次第だ。だが選択肢を与えよう。お前には今回の命令を断るだけの理由がある」
「それは、命令ですか?」
「命令だ。だが断る権利も与えよう」
鷹は自分の頭の中がめまぐるしく回転し始めるのを感じていた。この司令は、自分がどう動いたとしても、既にそこにある未来を知っているのだ。
では何故? 何故奴をこの軍で無用のものとする?
彼は考えた。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「俺がこの軍の中で必要とされる場面は、あなたの知る未来の中にありますか?」
「知ってどうする?」
「参考にします」
「では言おう。無い」
司令は明快に断言する。
判った、と鷹はその時パズルのピースが音を立ててはまるのを感じた。
「命令に従います」
鷹は、彼にしてはひどく静かな声で答えた。