「うん、やっぱり上手いな」
よく通るやや高い声が、その場に響いたので、彼ははっとして手を止めた。
手慣らし、と称してGは伯爵の館に居る間、時々ピアノを鳴らすことにしていた。
「ピアニスト志望の青年」が、ピアノに触らずに日々を過ごすのはひどく不自然である。故に、彼は何はともあれ、昔取ったきねづか、暇がある時、考え事をしたいとき、その館のサンルームへ行ってピアノを鳴らしていた。
実際、考え事をするにはいい機会だった。
長い間訓練を繰り返してきた指は、それでもまだ忘れていたと思っていた曲をも自由に奏でることができた。
思考を自由に巡らせたまま、指だけは染み着いた記憶のまま、美しい音を外に放つことができるのだ。
だが多少困るのは、そんな時にはこころもち神経が無防備になることだった。
殺気をあらわにしている刺客や、同業者の臭いをぷんぷんにさせている者ならともかく、この館に自由に入り込んでいる者の気配は、どうにもこんな時には感知しにくい。
その時入って来たのは、まさにそういう者だった。足音に気付いた時には、既に侵入者は、彼の視界に入っていた。
「そんな驚かなくてもいいだろ? サンド君」
「驚きますよ、セバスチャン」
彼は眉間に軽くしわを寄せる。
「ピアノを弾く時には精神を集中させているんです。急に入ってこられるのは心臓に悪いんだ」
「ふーん、そんなものか」
セバスチャンはこの日もタイを緩めていた。
先日の集まりとやや違うのは、伸びかけた髪を後ろで無造作にくくり、上着の袖を幾らか折っているくらいだろうか。
いずれにせよ、他の四人とはやや違う色を持っているな、とGは感じていた。
名前が北国のものに近いのに、彼自身は南国の明るい太陽のような印象を受ける。それでいて、皮肉気な笑みなんかも時々見せる。
何かしらアンバランスなのに、それが奇妙にバランスを取っている。
ただ、そういう人物であるのかそういう人物を装っているのか、はまだGには判別できなかった。
少なくとも外見的には、そう嫌いなタイプではなかった。
決して一つ一つのパーツが整っているという訳ではないが、それが上手い配置を取って興味深い表情を作っていた。
「僕に何の用ですか?」
「別に」
何を当然のことを、と言いたげな表情で、セバスチャンは最寄りの椅子をピアノのそばに引きずり、反対向きに座った。
「歩いていたら、聞こえてきたから、聞こうと思ってさ」
「物好きですね」
「物好き結構」
あはは、と彼はやや高い声で笑った。
「何にも興味がなくって平々凡々としているよりずっといいさ。だからサンド君、気にせず続きをどうぞ」
「だったら勝手にどうぞ」
彼は言い返してピアノの続きを弾こうと思い……思い返して、別の曲を奏で始めた。お、と軽く驚いた表情が、セバスチャンの口元に浮かんだ。
「『アルカンシェール協奏曲』か」
「よく御存知ですね」
「昔よく耳にしたんだ」
「それはなかなかいい趣味……」
彼はそのままその曲を続けた。これはややかましである。Gはセバスチャンの二年間を考えていた。他の大学にいたことも考えられる。
「帝立大学に居たんですか? セバスチャン」
「お、よく判ったな」
拍子抜けするくらいに簡単に彼は答え、椅子を立ち、ピアノの側に寄った。
「まあね。あそこの音楽科ってのは何しろ最初にあの曲をやりやがる。それこそ創立の頃からの尊い伝統とやららしい。新入生も、さすがに最初の課題ってのは皆実に真面目に練習しやがるから、学校中にあの曲が響いてな」
「そうらしいですよね」
「そうらしい、って君は違うのか? サンド君」
Gはちら、と彼に目を向ける。
「僕がそんな所に行ける訳ないでしょう? ただあの曲を練習する時に、教えてくれた友達が、そういうことを言っていたんです」
「へえ。なかなか顔が広いな、サンド君」
「あなたこそ、帝立大学に居たのに、どうしてヨハン・ジギスムントを受け直したんですか? あそこは最高学府なんでしょう?」
言葉はそう続けながらも、指は、細やかなメロディを途切れることなく奏で続ける。
「別にね、帝立大学に行きたくて行った訳じゃない」
「そういうものですか? でも最高学府じゃあないですか。入学審査も難しいと聞いていますし……」
「一般ならな」
くっ、とピアノの上にひじをついて、セバスチャンはやや長い前髪をかきのける。
「そういうことが何か知らないけど、無審査で行けるものがあるんだよ。俺の意志がどうあろうとね」
ああ、と彼はうなづいた。そういう所は、確かにあるのだ。かつての自分もそうだったと思う。
「無論別にしたいこともないから、二年間、授業はさぼりまくって、日長図書館に入り浸って好きな本ばかり読んでいたよ。あそこは何はともあれ、書物の量だけは確かに最高学府の名にふさわしかったからな」
そうだったな、とGは思う。彼もまたよくそこに入り浸ったはずだ。会っていないことを切に願う。
「で、そこで借りた本なんかを持ち出して、春の陽気の下で読んでいると、遠くからアルカンシェール協奏曲があちらこちらから流れてきたって訳」
「なかなかいい風景ですね」
Gはくす、と笑い、手を止めた。
「何、続けろよ」
「あなたと話す方が面白いんじゃないかと思えてきた」
セバスチャンはやや吊り気味な両眉を一瞬同時に上げた。だがすぐに元の表情に戻すと、彼はピアノに乗せた腕の上にあごを置き、のぞき込むような視線でGを眺めた。
「なかなかそれは魅力的な申し出だな」
「そうですか?」
「そうだよ。君は自分のことをあまり知らないらしいな」
知ってるよ、と彼は内心思う。かつては知らなかった。だが経験は彼に、それを武器にすることを教えた。
だから近付いてくる彼を、避ける真似だけはしなかった。