確かに顔を合わせる機会はある筈だ。
都市の仮装舞踏会から解放されたと思ったら、今度は田園音楽会だった。
伯爵の館の広大な一角には円形の広場があった。そこには小さいが、演奏会を開くには充分な舞台がある。
そこでは今まさに、都市から呼ばれたという弦楽器隊が、夜の涼やかな風に乗せて美しい旋律を奏でていた。
「あなたも一曲弾いたら?」
少女は彼をピアノの前に押し出す。
彼は黙って座ると、遠い過去に作られた南国の恋歌を見事なタッチで奏でる。
即興でバイオリンがそれに絡まる。
軽い曲だ。
だが明るく、切ない曲だった。
手自体は鈍っている。帝立大学の音楽科に居た頃に比べたら格段に。
だが表現力は逆らしい。彼が関わってきた多々の現実が、技巧ではなく、表現の面で大きな変化を与えていたのだろう。
「なかなかのものだね」
席を立った彼に、伯爵は目を細めて拍手を送った。
「いえ、それ程でも」
「謙遜しないでいい。素晴らしい深みがある。なまじの人生経験ではそういうタッチは出せないよ。そう、何か血の色をした」
「僕はそんな物騒な人間ではないですよ」
彼は苦笑する。
「いやいや、音楽だの絵画だのというものは、人の内側をそれとなく見せるものだよ。本人がどう隠したがっても」
昨夜の連絡員の言葉がひらりと心をかすめた。
「ところで、君にあの方を引き合わせるという約束をしていただろう?」
顔を上げると、彼の目の前には蒼の女王が居た。
頭の羽根飾りから、そのビスクドールとしか考えられないような白い肌とコントラストをなすシャドウと口紅、それに重々しいドレス。全てを深い蒼で統一した女王は、仮装舞踏会のあの瞬間を彼の中に再来させる。
「ご紹介します、蒼の女王。こちらはうちの夏だけの家庭教師のサンド・リヨン君。先程のピアノは彼の手になるものです」
「……」
蒼の女王は何も言わずゆったりと扇を揺らすと、軽く首を傾けた。
その強烈で傲慢な程の美しい顔には、表情の一つも見受けられない。
「大層君の演奏をお気に召したようだ」
「それは…… ありがとうございます」
あれだけで判るのだろうか、と彼は疑問に思う。だが正しいのだろう。蒼の女王は否定もせずにただゆったりと扇を動かし続けるだけだ。
本当に生きているのだろうか、と最初に見た時の疑問が再び彼の脳裏に広がる。
「おやおや伯爵、今宵の名ピアニストはワタクシにはご紹介いただけないんで?」
「いらしていたんですか、中佐」
吐き出すように伯爵はつぶやく。
カーキに赤のラインの入った軍服を身につけた、目の覚めるような赤の髪の男がいつの間にか近付いていた。
その制服が軍警のものであることを彼が知らない訳がない。
別に目の前に居る男を相手にした訳ではないが、MPは彼がつい最近、散々相手をしてやった敵方である。
「そういう言い方はないんじゃあないかなあ? 伯爵。俺はあんたに会いたくて会いたくて仕方なかったと言うのに」
「ピアニストに用があるんじゃないですか? リヨン君、君に用があるそうだ。付き合ってやってくれないか?」
突き放す口調で伯爵は矛先をGに向けた。
「全く愛想のないことで」
やれやれ、と言いたげに中佐は腕を広げる。そしてごゆっくり、と言い残して伯爵は蒼の女王とともに、明らかに不機嫌を残して、その場から立ち去って行った。
「まあそれはそれとして、いい演奏だったぜ。学生か?」
「はい」
「いい身分だな」
「……」
中佐はにやり、と笑った。だがその金色の目は決して笑ってはいない。
ぞわり、と背中を悪い感触が走った。
「俺は学生って奴が大嫌いでな。大したこともできないくせに、安易にテロリストの仲間に入りやがる。ウチにも他愛もない仕事を無駄に増やしてくれるものだ」
はあ、と彼は生返事をした。ただの学生としては、そう答えるしかない。
するとその返事が感情を刺激したのだろうか、いきなりぐい、と中佐は彼の顎を掴み、ぎらぎらする目で彼を見据えた。
彼は一瞬ひるんだが、ここで視線を逸らしたら逆効果であることだけは知っている。
しなやかで、獰猛な猫科の動物には目は逸らすべきではない。いくら隠した顔を持っていたとしてもだ。
獰猛な獣の表情のまま、中佐は穏やかな感想を口にする。
「だがピアノの演奏は良かったぞ。それは、本当だ」
「ありがとうございます」
「その位にしようよ、中佐」
聞き覚えのある声が彼の耳に飛び込んでくる。
連絡員のキムが、そこで酒の瓶を手にしながらにっこりと笑っていた。
「そいつは俺の楽しい楽しいお友達なんですからね。あんたのその腰にあるもんなんて受けたらひとたまりもない。勘弁して下さいよ」
「ふん」
中佐は手を離した。
腰? ちら、と視線を下にやる。
そこには、乗馬用だろうか、丈夫そうな鞭がしっかりとつけられていた。
確かにこれで打たれてはたまらないな、とGは思う。
「まあいいさ。だけどこの都市では注意することだな、G君」
中佐はさらりと言う。
Gは表情を変えずに自分の本名を耳に入れていた。
「僕の名前はサンド・リヨンですが、中佐」
「どっちだっていいさ」
ポケットからシガレットを出すと、中佐は細いその一本を口にくわえる。おい、と顎をしゃくると、キムははいよ、と自分のライターを投げた。
何処で入手したのか、それはMP仕様の古典的なジッポ式だった。
「おいキム、後で行くからな」
「楽しみにしてますよ」
連絡員はにこやかに笑って中佐に手を振る。
煙を揺らしながらポケットに手を突っ込み去っていく中佐の姿を眺めながら、Gは普通の口調で訊ねた。
「アレと知り合いなのか、キム?」
「まあね。悪いひとじゃあないんだが、時々無性に悪趣味になる」
どういうつき合いなのか、それはたやすく想像がついた。
「知っていたな」
「あん?」
「俺の名を」
「大した問題じゃあないでしょ」
「確かにな」
無論彼も判ってはいた。
正体を知られている。そのこと自体には大した問題はない。
問題なのは、その状態を何故作り出しておくか、だ。
「そう言えばお前、アルバイト先ってここだったんだね」
「芸は身を助くんだよ…… とっとと行ったらどうだ? これからあの中佐とお約束があるんだろ?」
「まあそんな堅いこと言わないで」
キムはそう言ってへらへら、と笑うと、彼の肩に手を置く。
「この間の続きってのはどう?」
「お前一体何しに来たんだ?」
「そりゃあ愛しい恋人のためでしょ? どんな者だって何かとつき合ううちに愛着の一つもできてくるものでさ」
「ぬけぬけと」
誰が恋人だ、と言いそうになってGはやめた。
キムの口から固有名詞は出されていない。彼がその単純そうな笑顔の下で何を考えているのか、Gにはさっぱり読めないのだ。
この連絡員にしても、何らかの思惑が働いているのは間違いない。聞く者によってどちらともとれる台詞を散りばめ、本当のことは口には出してはいないのだから。
本当のことも言っているのかもしれない。だがそれは、散りばめられた嘘に隠れて容易にその本性を見せない。
「時間はあるのか?」
キムはにやりと笑う。
踏み込んでみなくては判らないことがあるのだ。