私が知らない間に世界が随分と時が経っていたみたいだ。
見慣れたはずの部屋。けれど家具の位置が変わってたり、カレンダーの数字が違う気がする。
ずぶ濡れで帰ってきたからか、両親から大袈裟なぐらい心配された。どこへ行ってたのか、何をしていたのかをしきりに聞いてきたけれど何も覚えてない。
雨風が凌げる屋根の下で暖かいご飯とお風呂。寒さも空腹も感じていなかったのに、安心できると分かると身体は素直になった。
水面に映る自分の顔は酷く疲れている。
「なんであんなことしたんだろ」
あれは人じゃなかった。斧についていたのは血ではなくて油。けれど見た目も感触も人そのもので間違いない。
天井を仰いで真理は必至に思い出そうとしたが、虫に食われたようにその前の記憶が欠落してる。
「真理ちゃん。田中さんが来てるんだけど」
脱衣所で母から来客を告げられるが、知らない名前だ。
「田中さん?」
「後輩の田中さんよ」
「えっと、誰だっけ」
シルエットで首を傾げているのが何となく分かるが、知り合いに田中さんという名前の人間はいない。
待たせてはならないと早々に風呂から上がる。
部屋着のもこもことした着心地が気になりながら部屋へ戻る。ピンと背筋を伸ばして正座する清楚な少女が一人と、その横にゴツゴツした外見の長いライフルケースが一つ。
扉の音で気づいたのか少女が振り返ってキツイ目尻を柔らかく弛ませた。
「あんた、大丈夫?」
「え? えぇ」
不安そうに表情を歪める彼女は一体私のなんだったか。頭の中で問い掛けても思い出せない。
「三日ぐらい学校も来ないでどうしたのよ。それにカルメは?」
「カルメ? どなたですか、それ」
「はぁ? 貴方のドゥーガルガンよ。一緒にいたじゃない」
「ドゥーガルガン……? ドゥーガルガン」
何にも思い出せない。けれどドゥーガルガンという単語を聞いた瞬間、身体の深奥から熱い物が上がってくる気がした。
壊さなきゃ。口に出そうとした刹那、脳裏にあの光景が過る。途端に気持ち悪くなって頽れた。
狂気も罪悪感も、吐き出してしまえば全部楽になると身体は思っていた。けれどゴミ箱に突っ込んだ顔をあげた途端、あの光景が脳裏を過ってまたこみ上げてくる。
アレは人じゃないアレは人じゃないアレは人じゃないアレは人じゃない——何度も、何度も小さく呟いて暗示をかける。そんな情けない姿を晒しても、少女は優しく背を擦ってくれる。
「どうしたのよもう! しっかりしてよ」
口調は荒々しいけれど滲み出る優しさを感じる。
「あの。貴方は誰? なんでそんなに優しくしてくれるの?」
「……ボケてるの?」
震えた声音に首を横に振ったが、少女は顔を引き攣らせて後退る。
「やられたの……誰に?! 何も覚えてないの?!」
「やられた? って何をです? いえ、あの。覚えてないかも……思い出せない」
それを聞き、少女は慌てふためいたように勉強机の引き出しを開け、一冊のノートを取る。
タイトルは『日記』。横表紙には真理の字体とよく似た字で、こう記されていた。
——ここに記憶の全部が入っている。
読んだ瞬間に息を呑んだ。
「読んで」
「あ、えっと」
「早く!」
急かす結衣にページを開いた。
未来の日付と知らない出来事。けれど妙に頭へ入り込んで馴染んでいくのはなぜだ。未知であるはずのそれらが浸透して、まるで追体験のような感覚に陥る。
全てを読み終えた後、追い打ちを掛けるように裏表紙の一文を声に出して読む。
「これが『東 真理』としての記憶……」
赤の他人の日記なんかじゃない。これは過去に戻った自分へのメッセージだ。
私は戦いを止めたいって必死に足掻いていたんだ。けれど希望に縋ったやり方は間違っていて、結果的に記憶は誰かに消されてしまった。
それ故に本能で芽吹いた破壊衝動。真理は全部を理解したかのように神妙な面持ちになって深呼吸した。
「そうか。道を違えたから、壊した」
理由が分かれば気持ち悪さも無くなった。むしろあのドゥーガルガンを完全に破壊したことを誇らしくも思う。
だって記憶を失ったり、命を落とす人間が一人減ったのだ。彼女のマスターは命拾いしたのではないか。
結衣に向かってニッと笑うと、彼女の怪訝な顔も晴れてくる。
「全部分かったよ。でもこれだけじゃ足りないな。君のこと、もう少し教えてくれないかい?」
「……しょうがないわね」
「これで過去の私がやってきたことにカタがつけられそうだ。全部、壊すことでね」
破壊する。背中に悪寒が走った結衣は顔を強張らせて伏せた。
彼女を止めることはもうできそうにないかもしれない。けどせめてシェイだけには手を掛けないように隠し通そうと誓うのだった。