悠里の頭の中では咲良の言葉がぐるぐると回っていた。
つまらなくなったから辞めた。吐いて捨てるほどある定型文に納得が行っていない自分がいる。
弾丸を軽く翻す身のこなしにドゥーガルガンと二人掛かりでようやく抑えの効く戦闘力を持ち得ているのに。なのに。
決して確かめようのない咲良の本心に思考を飲まれながら、気づけば家の最寄り駅に降りている。
「やぁ悠里少年。今帰りかい?」
改札口でそう声を掛けれたことも気づかない。肩を叩かれて不意に我へ返った。
水色のショートヘアに整った顔立ち、垂れた目尻の優しい瞳。
茶色のエプロンでお出掛けする姿は家庭的だが、この人はまだ高校生だと悠里は知っている。
「美少女からの〝おかえり〟を無視とは君も甚だバチ当たりだね」
「あぁすいません浅霧さ」
「僕のことは五十鈴と呼べと、何度も言ってるんだけどー?」
嘆息して腕を組むと人を飲み込んでしまいそうな虚ろで大きな瞳を悠里に据えた。
『浅霧 五十鈴』。家の近くで営業している小さな喫茶店の一人娘で、今日からバイト先の雇い主になる先輩だ。
そして彼女の気を引かせるような仕草は天然なのか意識してか。ざっと数えても三年近い付き合いになるが未だに分からない。
「しかし、君のブレザー姿というのはどこか新鮮だね」
「五十鈴さん、届いたから見せに行くって言ったのに頑なに見ようとしてなかったからですよ」
「初のバイト先にパキパキしたブレザーの初々しい悠里少年が見たかったんだよ。着慣れないブレザーが変じゃないか、気恥ずかしそうに身なりを気にする可愛い君が」
「可愛いという部分は余計です。結構気にしてるんですよ」
「ごめんごめん」
全身から迸る情熱がまるで赤く滾る鋳鉄を前にしたようにジリジリと伝わってくる。
果たして可愛いのはどっちか。
「あの、近いです」
「ふふふ。私の儚い願いが伝わるだろー? でもここで会ったがそれも叶わないんだよね。あーあリセットボタンが欲しい」
「そんなに残念ですか?」
「当たり前じゃないか」
すると一転して不貞腐れたように拗ねて買い物袋を手渡してきた。可愛げはあるのだが、それ以上の感想を悠里は持たなかった。
「今日からは常連じゃなくてうちの従業員だからね。気を引き締めて仕事してくれたまえ」
「あ、はい社長」
「社長は止してくれたまえー。なんつってね」
軽い冗談を交えて二人は駅を後にしていく。改めて常連客から従業員にクラスチェンジしたことに悠里は息を飲む。
徒歩五分ほどにある閑静な住宅街の一角に小さな喫茶店が看板を立てていた。
喫茶店『スティール』。内装はログハウスを思わせるクラシカルな木調で、吹き抜けの屋根から下がるシーリングファンが心地よい風を吹かせている。
日本語で『奪う』や『盗む』というお世辞にも縁起の良い名前とは言えない。名付け親は親せきらしいが、名前を変えないのは五十鈴の一存もある。
曰く「名はその存在を示す。人の憂いやストレスを〝奪って〟人に明日からの可能性を与えるお店にしたいという願いがこもっているのだと思う。多分」とのこと。
そんな願いが込められてたらとても素敵だと悠里も頷く。
「更衣室はないから物置で着替えてくれたまえ」
「え、物置ですか?」
「フフフ、もしかして薄暗くて埃臭い嫌な場所だと想像してるだろう?」
「いやまぁ物置ってそういうイメージしかないんですけど」
狼狽える悠里に五十鈴は得意げに人差し指を振って、物置部屋に案内する。
そこは物置というにはあまりに寂しかった。ダンボールが数個とロッカーが数個が鎮座した俗に言うロッカールームで悠里は安堵した。
それも束の間。
「制服はロッカーに入ってるから、着替えてカウンターに立ってくれよー」
「……あの、すいません。制服ってこれですか?」
「うん? 何か問題でもあったかな?」
「いやこれメイド服なんですけど! 完全に女性用なんですけど!」
ハンガーに掛かっていたのはミニスカにフリルをあしらったオーソドックスなタイプのメイド服。
そんなツッコミに五十鈴はわざとらしく惚けて、
「おっと僕としたことが、何かに使えると思って買った自分用の、そう自分用のメイド服をこんなところに入れていた。いやぁうっかりだ。うっかりだなぁ」
「自分用と強調するあたり、わざとですよね」
「何を。本当に偶々だよタマタマ。でも、少年が恥じらいながら着てるのを見てみた」
「全力でお断りさせていただきます」
悠里は即答すると露骨に残念そうな顔を浮かべていた。
そんな彼女から何とか制服を貰って着替えて店の表へ出る。
「ふむ、やっぱりうちの制服も君なら似合う」
白シャツにコーヒーカラーのエプロンというユニセックス仕様の制服だが、ついこの前までカウンターの向こうにあった姿を自分がしているとは不思議な感覚だった。
顔見知りの常連の客は二人を見合わせてにこやかに微笑みを送っている。何を想像している。
「さて、これからビシバシ仕事を教えていくから覚悟したまえ」
「中辛くらいでお願いします」
「ではコーヒーの淹れ方から授けるとしよう。きたまえ」
そういうと五十鈴は何の躊躇もなく悠里の手を握ってドリッパーの前へと誘った。
とても暖かくて固い手。突然のことに心臓が跳ね上がったが、五十鈴が満足そうに微笑むのを横目に気合を入れ直した。
一通りの仕事を教わって、ぽつぽつと客が帰り始めた。
「駅から出てきたとき、何を考えてたんだい?」
グラス拭きの仕事を与えられてから程なく、藪から棒に五十鈴が尋ねてきた。
「あー。あれですか」
「君は何かにぶつかると上の空になる」
何かにぶつかる。そこで頭の中に幾度と咲良の声が反芻される。
つまらなくなった。うんざりなんです。
まるでサバゲーを心底恨むように険しい面立ちで言い放ったそんな言葉が胸を刺す。
数週間で何があったかは本人からしか確かめようがない。けれど素直に話してくれるだろうか。
「相手から拒絶されたとき……」
「拒絶? 何があったんだ?」
「あーいや。236部に誘ったら「もう辞めた」「そういうの、うざいです」って言われたんですよ。二週間くらい前の定例会で偶然戦って、滅茶苦茶強かったのに。こういうとき、どうしたらいいのかなって」
口を突いて出た問い掛けに五十鈴は眼を細めた。
「簡単に結論は出ないけれど、君はその人とどうしたいんだい?」
「どうしたいって、つまり友達になりたいとか恋人になりたいってことですか?」
「そんな大それた話はしてないよ……もしかして恋人になりたいのかい? そうだと僕、君をぜひ貰おうと思ってたからとても悲しいかな。ヨヨヨー」
露骨に悲しそうな顔をして困らせる五十鈴だったが、慌てふためく悠里に打って変わって真面目な眼差しを向ける。
「まぁ冗談は置いといてと。決着をつけたいのか、それともサバゲーを辞めないで欲しいのか、君が望むことだよ」
望むこと。自分が咲良に何を望んでいるのか、考えてすらいなかった。
改めて問われると、曖昧だったものがようやく見えてくる。
負けたくない。今度は完全に決着をつけたい。負けたままの不完全燃焼感は燻り続けていた。
不戦勝で終わりなんて歯切れが悪い。けれど執着する理由はもっと他にある。
「仲間として戦いたい」
あのときの彼女と肩を並べて戦ってみたいという僅かな願いは同じ高校、同じクラスという数奇な運命に導かれて強くなっていた。
「目的は見えてきたようだね」
「決着もつけてやる。仲間に絶対してやる」
「その意気だ少年。私は当人じゃないし、やり方は自分で考えるんだよ」
五十鈴はポンポンと悠里の頭を撫でて嫋やかに微笑んで諭すように言った。やり方までせがんでは我儘が過ぎるというものだ。
存外、彼女に撫でられるのも悪くない。フッと鼻息を漏らすと客の視線を釘付けにしていたことに恥ずかしさで頬を赤に染めた。
「それはそうと」
ぷるぷると震え始めた悠里から手を離して、五十鈴がエプロンのポケットから一枚のカードを取る。
「少年君の新しいライセンスだよ」
「いつの間に撮ってたんですかこれ」
「顔写真は二週間くらい前。フォトショップでちょちょいと切り取った奴を貼り付けただけさ」
236用のライセンス。これが無ければサバゲーや236用の弾一発でさえ買えない。
五十鈴のドヤ顔に半ば呆れながら苦笑いを浮かべていた。
「さて、そろそろ仕事に戻らないとお客様に怒られてしまうね」
「そうだ……仕事中でした。すいません」
話に夢中になりすぎて仕事中であることが抜けていた。
「バイト初日にタダ働きは……少年も良い度胸だね」
「なんですかその何か企んでるほくそ笑みは」
「そんな不真面目な君にはちょっとばかり特別な仕事を与えよう」
ふへへと不気味な含み笑いで五十鈴が歩み寄ってくる。
息を飲んでいると揉みしだくような指が扉の方を差した。
「あのお客様を中へご案内したまえ。君のよく知る人物だと思うけど、遠目で監視されているのは流石に気分が良くないからね」
「ぬおっ! り、リコ?!」
入口で張り付く勢いでこちらを凝視するラプアの姿。その顔は冷静沈着な普段とは違い剣呑で、悠里は昨夜の失態に気づく。
「あ、あの。リコにバイトのこと良い忘れてました」
「君が100悪いね」
「どうしましょう……とりあえず、自家製コーヒーゼリーを一つ。後で払います」
「君達の兄妹愛には感心するよ」
やれやれと肩を竦めた五十鈴は満更でもなさそうに悠里の尻拭いを買って出た。
「ど、どう? バイトの制服着た兄は、カッコいい?」
「学校もバイトも嫌いだぁっ!」
珍しく幼子のように拗ねてしまった。そして横で微笑んでる五十鈴には少しばかり手伝ってほしいと思う悠里であった。
その後、ラプアからバイト終わりまで説教を受けたのはもはや語るまでもないだろう。