カーテンの隙間から射す光が眩しくて、ユーリは目を覚ました。
隣りにあるはずの温もりは既になかった。頭を掻き、目を細めながら半身を起こして少し開いているドアの向こうを見やる。テディの姿は認められなかったが、気配はあった。
コーヒーでも飲んでいるのだろうか。朝食をどうするかな、と考えながらユーリは欠伸をし、両手をあげてまだすっきりと目覚めない躰を伸ばした。するとそのとき、なにやらことりという小さな音が耳に届いた。続いてキン、シュッというジッポーの音が聞こえ――半分寝ぼけていた頭が一瞬で覚醒し、ユーリはまさかという思いでベッドから飛びだした。
ドアを大きく開けると、煙草を咥えたテディがかちっとジッポーを閉じながら、ユーリのほうに顔を向けた。
「悪い、起こした?」
「いや……」
ふーっと煙を吐くテディに、安心と途惑いが綯い交ぜになった妙な心地になる。学生時代に吸っていたというのは何度か話に聞いていたが、ジョイントではない、ふつうの紙巻煙草を吸っているのを見るのはこれが初めてだった。
もう夜は明けているらしい。カーテン越しの淡い光に包まれた部屋のなか、煙草を燻らすテディの横顔を見つめながら、ユーリはクッションの上に腰を下ろした。
テーブルにはカフェオレのカップと、白くぼかしたラインの入った水色の箱があった。
「ゴロワーズかよ、意外と渋いの吸ってるな」
「レジェールだよ、ユーリも吸う?」
「いや……俺は吸い始めるとひっきりなしになるんで、やめとく」
テーブルに肘をついて指のあいだに煙草を挟み、深く吸いこんだ煙をふぅと吐く。板についた吸いっぷりになんだか別人のようだと思いながら、ユーリはまた細く煙を吐きだすテディを見つめた。ジョイントや他のドラッグを何度も一緒に使っていながら、今更ただの紙巻煙草に妙な感慨を持つのも変なものだと苦笑する。
「しかし、またどうして煙草なんか。ずっと吸ってなかったんじゃないのか?」
「ん……なんでかな。なんとなく吸いたくなって」
時計を見るとまだ六時過ぎだった。自分もコーヒーを飲もうとキッチンへ立ち、ユーリはマグカップに水とインスタントのコーヒーの粉を入れて、それをマイクロウェーブオーブンに入れた。
ケトルも鍋もないテディの部屋では、コーヒーといえばこれだった。初めはそんないいかげんなものが飲めるかと思ったユーリだったが、飲んでみると意外に熱湯で溶かして飲むよりも香りがたって旨かった。こつは、先に水を入れてコーヒーの粉を浮かせ、混ぜずに温めることだ。テディはそうして濃く作ったコーヒーにミルクを足してさらに温め、角砂糖を四つも入れる。
ピーッと音がし、取りだしたカップをティースプーンで混ぜながらテーブルに戻ると、フィルターぎりぎりまで吸った煙草をテディが灰皿に押しつけていた。もう火は消えているのにまだとんとんと叩く様子に眉を寄せていると、テディはようやく吸い殻から離した手でゴロワーズの箱を取り、また一本取りだした。
「おい……、チェーンスモークはやめとけよ。なんでそんな吸い方――」
「なんで? なにがだめなんだ? 煙草くらい好きに吸わせろよ」
「なんでって、躰に悪いだろう」
云いながら、自分でなんてらしくない台詞だと苦笑する。テディも同じことを考えたらしく、二本めの煙草に火をつけながらふっと笑った。
「躰に悪い? ユーリがそんなことを云うなんて思わなかったな……じゃあなんならいいわけ? ジョイントのほうがいいの、それとも酒? ツーリング? いちばん躰にいいのはファックしまくることかもしれないな……どれにしたらいい?」
ユーリは、テディがなにやら苛立っているらしいと気づき、眉をひそめた。
「どうしたテディ、なにをそんなにかりかりしてるんだ」
「別にどうもしないよ。煙草くらいのことでごちゃごちゃ云うからさ。……俺がまたスマックを打ってると思って起きてきたんだろ? やってないよ。やりたいけどさ。正直すごく欲しくなるけど、ちゃんと堪えてる。なのに、なんで信用してくれてないんだよ」
「ジッポーの音が聞こえたんで……、煙草とは思わなかったんだ。でも信用してないわけじゃない。心配してるだけだ」
「同じだよ。ユーリは俺のこと、全然信用なんかしてないよ。このあいだだって俺がロランドと上に行ってファックすると思ってたんだし」
「その話はもう済んだだろ? それに、それもただ心配してただけじゃないか」
「心配心配って、ユーリはそればっかりだ。なんかもう……窮屈だよ。つまらない。うんざりだ」
ユーリは目を瞠った。
「うんざり? もう……俺といるのがうんざりだって?」
「四六時中ずっと一緒っていうのはもう、疲れたよ。ファックしたいときだけ泊まりに来ればいいんじゃない」
テディはユーリを見て小首を傾げ、口許を歪めて笑った。「もう面倒なことはなにもしないで、偶にやれればそれでいいだろ? こっちも毎晩はごめんだし」
ユーリはかっと顔が熱くなるのを感じた。怒りで目が眩み、昂ぶった感情に思わず自分を見失う。
気がついたとき、ユーリはソファから引き摺り下ろしたテディの上に馬乗りになり、襟首を絞めあげ拳を振りあげていた。テディの口許と
ようやく我に返って手を離し、自分のやったことに愕然としながら、ユーリは横を向いたまま動かないテディを見下ろした。
「す、すまない……テディ、大丈夫か。つい、かっとしてこんな――」
狼狽してユーリが退くと、テディは小さく咳きこんでゆっくりと起きあがり、口許を手で覆った。もう一方の手でティシューの箱を指し示し、ユーリがそれをテディの手の届くところに置いてやると、テディは五枚ほど取って丸め、そこに血を吐きだした。
「……口のなか切れたか……ほんとに悪かった。短気は直すように云われたのに……」
「怒らせたのは俺だし」
テディはそう云って頭を振りながら起きあがり、ふらふらとバスルームに向かった。ユーリもよろりと立ちあがると後に続き、テディが顔を洗って口を漱ぎ、タオルを絞るのを黙って見ていた。
顔の左半分を濡れタオルで冷やしながらバスルームから出てきたテディに、そこで待っていたユーリは「見せてみろ」と云った。テディは素直にタオルを持った手をどけた――口の端よりも目許のほうが酷かった。切れたところの周りが既に赤くなって腫れてきている。おそらく明日――否、夜にはもう紫色になり、目が開けられなくなっているだろうと思われた。
「ああ……ひどいな。俺がやっておいて云うのもなんだが……。今こっちの目は見えてるか?」
「ぼやけてるけどいちおう見えてるよ。でも瞼が重い……開ききらない」
「とにかくずっと冷やしとけ。まだまだ腫れてくるぞ……鼻はなんともないか、頬骨とかも……」
「目と口許だけだし、三発くらいしか喰らってないから平気だよ」
何気無く云われたその言葉から、昔はもっと酷く殴られたのだと察して自己嫌悪に陥る。まったくなんてことをしてしまったのだろうと、ユーリはなにか悍ましいものでも見るように自分の手を見た。
「うんざりされてもしょうがないな、これじゃ」
ソファのほうへ戻るテディを、ユーリはなにも云えずにただ見つめた。眉間に深く皺を刻み、重く息を吐きながら、ユーリはキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてビニール袋にありったけの氷を入れた。
テディは顔に濡れタオルを当て、ソファに横になっていた。タオルを押さえている手をそっと退け、ユーリはその上に氷の袋を乗せてやった。腫れて熱をもったところが冷えて気持ちがいいのか、テディがほーっと脱力したように息を吐く。
「……別にさ、ユーリのことを嫌いになったわけじゃないよ……。たぶん、俺のほうが悪いんだ。だから……もう元に戻ろう」
「元に?」
「前みたいに、普通につきあってるほうがよかったろ。音楽やバイクの話して、一緒に
「……おまえはそんなのがいいのかよ。俺は、いつだっておまえの傍にいて、おまえのためならなんだってしてやりたいって思ってるのに――」
ユーリが俯いて独り言のようにそう云うと、テディは首を横に振った。
「ごめん……そういうのが無理なんだ。俺はそんなふうに想ってもらうほどのもんじゃないよ。そのうちきっとまた他の誰かと寝るし、飲めもしない酒だって飲むし、ドープもやる。そのたびに心配されたり説教されるのも、させるのもいやだし、殴られたくもないんだ」
「……その悪い癖を直そうって気はないのか」
「直らないよ」
顔を冷やしているタオルと氷の袋を手で押さえながら、テディは淡々と答えた。
じっと天井を見つめたまま、テディはユーリの顔さえ見ない。なにかを諦めきったような、なんの感情も浮かべていないその表情に、ユーリは胸が押し潰されそうな苦しさを感じた。
がくりとその場にしゃがんで脚を投げだし、ソファとテディの立てている膝を背にしてラグの上に坐りこむ。
「おまえは別に、俺のことを好きでもなんでもなかったんだな……」
「……ユーリとファックするのは好きだったよ」
その答えに、ユーリはくっと喉を鳴らして笑った。
「ルカとはどうだったんだ。あいつも昔は心配して怒りまくってたんだろう? そんなときおまえはどうしてたんだ」
答えは、すぐには返ってこなかった。
「……テディ?」
「ルカは……俺が何度も同じことを繰り返すもんだからもう、諦めてたよ」
「だから、その前だ。ドロップアウトして、一緒にいて、おまえが遊んで帰ったあとだ。ルカは怒っただろう? そのときおまえはどうした。窮屈だうんざりだって云ったのか?」
やはり答えは返ってこない。ユーリはしばらく黙って待っていたが、テディが小さく、息を震わせながら吐くのが聞こえて振り返った。
――その顔を一瞬見て、ユーリは溜息をつきながらテディの膝に凭れた。
「……ルカは今でもおまえのことを心配してるぞ。俺を利用するのはかまわんが、泣くくらいならもうちょっと素直になったらどうだ」
テディは涙をいっぱいに溜めた右目を、タオルで隠した。
「利用なんて……そんなつもりはなかったよ……。ユーリがすごく俺のことを気にかけてくれるから、つい……甘えたんだ。一緒にいると刺激的で楽しかったし、それに……」
テディはタオルをずらして真っ赤にした目を覗かせると、じっと耳を傾けるようにこっちを向く、その横顔を見つめた。
「それに、なんとなくだけど……ユーリは俺と同じような経験があるんじゃないかって気がして……、ひょっとしたらわかりあえるんじゃないかって、そう思ったんだ……」
ユーリは少し驚いて振り返り――苦笑を溢し手を伸ばすと、テディの髪を撫でた。
「……いつ気づいた?」
「やっぱり、そうなんだ」
「ああ。……塀の中にいたって云ったろ? そのときだ。よくある話さ」
「……いやな思いをしたはずなのに、なんで同じことがやりたくなるんだろうな……」
「上書きだな。初めてホラー映画を観たら目に焼きついて眠れないが、いくつも同じような映画を観てるともう麻痺して怖くもなんともなくなるだろ。そんなもんさ」
テディは声をあげて笑った。
「すごいな、納得するしかないな……ほんと、そのとおりだと思うよ」
「……俺はおまえのことを誰よりもわかってやれる。でも、おまえはやっぱりルカじゃないとだめなんだな」
「……でも、もう無理だよ。十四、五の頃からどれだけあいつをうんざりさせてきたかわからない。さすがにもう愛想尽かしてるさ……」
テディはまた天井を見つめた。「俺は変われない……もうルカを解放してやらなくちゃいけないんだ。ルカは俺らと違ってバイだし、モデル仲間の綺麗な女とかと一緒になって、ふつうに結婚して子供を作ったりもできるし……俺も、そういう幸せそうなルカが見たいし、ルカの子供と遊んでやったりするのもいいなって想像するんだ。俺が絶対にあいつにやれないものだよ。だからもう、俺はルカの傍にいないほうがいいんだ。俺はバンドだけあればいい……こんなふうに思うのは変か?」
「それを、ルカに云ったことあるか?」
テディは目を閉じて首を横に振った。
「だろうな。云ってみりゃよかったんだ。きっとあいつ怒るぞ……ばかにするなってな。俺なら怒る。自分がそうしたきゃそうするさ……そんなの自分以外の誰かに決めてもらうことじゃないからな。
おまえはいったい何様だ? そんなくだらんことを考えてる余裕があるなら、もっと自分のことを考えろ。おまえがどうしたいのか、なにを望むのか、そうするためになにをして、なにをしちゃいけないのか……そうやってて、自分じゃどうしようもない衝動が起こったら、そのときは人を頼れ。俺でよけりゃ俺に云え。自分で勝手に傷ついて、周りに心配だけかけた挙げ句こんな自分はだめだとかいないほうがいいとか、自己完結するな」
テディはまたタオルで目許を覆った。少し開かせた唇が大きく息を吸いこみ、震えながら言葉を紡ぐ。
「……俺、ユーリが本当に俺を愛してくれてるって知ってるよ……。ユーリだけだよ、ちゃんとそれがわかったのは……俺も同じだけ返したかった。そうならなくて残念なくらいには、ちゃんとユーリのこと好きだよ……」
ユーリは大きく目を見開いた。テディが自分に対しても、他の誰かに対しても好きだとか云うのを聞いたことは今までなかった。これが初めてだった。これだけですべて報われたような気がした。
手を伸ばし、タオルを押さえている手に触れる。
「テディ。……顔が見たい。顔を見せてくれ」
「いやだよ、きっとひどい顔してる」
「左目だけ冷やしたままでいい……タオル、どけるぞ」
ユーリはそっとタオルをずらして、テディの真っ赤にした目を覗きこんだ。涙に濡れ、長い睫毛がくっきりと大きな灰色の瞳を縁取っている。
なにか云いたげに薄く開いている唇の端が赤く腫れているのが痛々しげで、ユーリは偉そうなことを云ったが、自分もこの悪い癖を直さないといけないなと苦笑した。
「……ユーリが泣いてるの初めて見たよ」
そう云われて、ユーリは自分が泣いていることに初めて気づいた。
「そりゃ泣くさ。俺はふられたんだからな。まったくおまえはひどい奴だ……もう一発殴らせてもらおうか」
「え……」
ユーリが泣き笑いの表情でそう云うと、テディは少し途惑いながらも「わかった。いいよ」と答えた。
「じゃ、遠慮なく……」
きゅっと目を閉じたテディに、ユーリは愛おしげに口吻けた。目を開けたテディの歯列を割って、いつもしていたように深く探ると甘やかな舌が応えてきた。頭を掻き抱かれるのを感じ、初めて本当のキスをしたような気分になる。
少し、しょっぱい味がした。