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TR-30 - All Things Must Pass

 バスルームのドアを少し開けて隙間から顔を覗かせると、バスタブにいたふたりが同時にこっちを向いた。泡の浮いた湯に浸かり、ユーリがテディを背中から抱きこむようにして足を伸ばしているのを見て、ルカは思いきり呆れたような顔をした。

「おかえり」

 にやにやと笑みを浮かべているユーリに、反射的に「ただいま」とは返したが、いろいろ云ってやりたいことが多すぎて、うまく言葉がでてこない。温かい湯の所為もあるのか、テディの顔色は良くほっとしたものの、この状態はなんだろう。

「そんな顔するなよルカ。ユーリはなんにもしてくれないんだ……ただ風呂に入ってるだけだよ」

 くすくすと笑いながらテディがそう云った。そのとき、ルカはテディが顔の左側をタオルで押さえているのに気がついた。

「顔をどうかしたのか?」

「冷やしてる」

「……冷やしてる。なるほど」

 どうやら一悶着あったらしい。一緒に風呂なんかに入って戯れあっているのはその余波か、と自分がいないあいだのあれやこれやに想像を巡らせると、ルカはそれ以上なにも云わずドアを閉めた。

 キッチンからカトラリーや皿を取ってきて、買ってきたテイクアウトの中華料理チャイニーズと一緒に並べる。バスルームから、テディの笑う声とばしゃっと湯が溢れる音が聞こえてきた。なにがあったのか知らないが――まあ、テディが元気そうで機嫌も良さそうなのはいいことだ。ルカはそう自分に云い聞かせながらスタロプラメンを開け、先に飲み始めた。


 今更、嫉妬も独占欲もなにもない。もうわかっていることどころか、テディが云いだして三人で乱交をしたときに、間近でユーリがテディを――自分とはまったく違う、獰猛と云えるほどの雄々しさで――抱くところを見ているのである。

 自分のなかでもやもやしているのは、おそらく行為云々についてではなく、テディのユーリに対する信頼とか、演奏時のぴったりと合っている呼吸とか、男として敵わないユーリ自身に対してのやっかみなんだろうなと、ルカは思った。

 今回のことにしたって、自分はほとんどただの交代要員で、テディのためになにかできたとは云い難い。それが単純に悔しいのだ。


 微かな話し声と笑い声はいつの間にか止んでいて、今は静まりかえっているバスルームでふたりがなにをしているのか、容易に想像がついた。そこまでにしておかないと逆上せるぞ、と思いながらルカは、針金の持ち手のついた、東洋の塔の絵が描かれている紙容器をひとつ出し、鶏の唐揚げを摘まんだ。ビールを飲み、ふたつめを摘まもうとしたときシャワーの音がし始めた。そろそろ出てくるのかと思いきや、微かに聞こえたテディの声をかき消すように水音が強くなり、やれやれ、と溜息をつく。


 いつからだったろう、怒りも嫉妬もたいして湧き起こらなくなったのは。単に慣れなのか諦めなのか、それとももう愛情がなくなってしまっているのか。これまでに何度も自分自身に問いかけてはみたが、まだ答えはみつけられていなかった。

 一緒に暮らしていた頃、テディが帰ってこない夜はいつだって心配でたまらなかった。ふたりがまだロンドンにいた六年ほど前――あの同時爆破事件があった朝も、前日の夜から出かけたきりだったテディが昼前にやっと帰ってくるまでは、心配なんて生易しいものではなく、喪うかもしれない不安と恐怖で気が狂いそうになったりしたものだ。

 それは今も変わらないと思う――テロだろうが過剰摂取オーヴァードーズだろうが、テディを喪うかもと思うのは怖い。バイクに乗るのだって、本当は反対なくらいなのだ。なのに何故、他の男と寝ることに関しては、こんなに感情が動かなくなってしまったのだろう。

 シャワーの音が止む。ルカの思考は止まらない。テディのことをいつだって考えている自分がいる。常に気掛かりだし、傍にいてほしいと思う一方で、危なくない程度に自由気儘に好きなことをしていてほしいとも思う。もしも自分といるよりもユーリと一緒にいるほうがテディにとって幸せなら、それでいいとさえ思うのだ。

 この想いの正体は、いったいなんなのだろう?


 バスルームのドアが開き、ぺたぺたと音を立ててバスタオルを腰に巻いただけのユーリが出てきた。「着替えを持って入るのを忘れちまった……ああ、待たせて悪い。先に食っててくれ」と気恥ずかしそうに笑いながら云うと、ユーリはワードローブを開けて中を漁った。一枚取りだしては確かめるように広げてみるその動作を背後から眺め、肩や腕の筋肉と引き締まった背中に、つい溜息が漏れる。

「テディはもう大丈夫なのか?」

 メランジグレーのスウェットを手にしてバスルームに戻ろうとするユーリにそう尋ねると、彼は云った。

「とりあえず薬は抜けたはずだ。まだそんなにひどい中毒じゃなくてたすかったな……まあ、続けてやり始めてほんの数ヶ月であれならある意味ひどいし、まだ油断はできないが」

「あれでまだ軽度だってのか……」

「ああ。……ルネは二年以上やってたし、一日で〇.五gハーフのパケをふたつ使いきってたからな」

 ふと重くなった空気を振り解こうとするかのように、ユーリはまた歩きだした。

 バスルームのドアを開ける直前、ルカは「そもそもなんでスマックになんか手をだしたんだよおまえら」と、ずっと云いたかった疑問を投げつけた。するとユーリはぴた、と立ち止まり――振り向かずに答えた。

「……おまえには、絶対にわからない」




       * * *




 五目炒飯揚州炒飯上海焼きそば上海炒面鶏の唐揚げ炸子鶏と焼売、麻婆豆腐、かに玉蟹肉炒蛋胡麻団子脆皮麻玉と、ずらりと並べられた中華料理に、テディは喜ぶどころか吐き気を堪らえるように口許を手で覆った。

「いくら好物でも食えるときと食えないときがあるだろ……。油の匂いすごいな、俺、胡麻団子だけでいいや……」

「確かに買いすぎだ、気持ちはわかる。けど、ちょっとは食わないと体力が戻らないぞ。皿に少しずつ取ってやるから食えるだけ食え」

「なにがいいのか考えながら注文してたらあれもこれもってなっちまったんだよ、しょうがないだろ」

 苦笑しながら烏龍茶を飲むテディのために、ユーリは料理を少しずつ皿に盛りつけた。スプーンで麻婆豆腐だけ小さめの鉢に入れ、そのまま置いてやると――テディが唇を湿して、銀のスプーンをじっと見つめているのに気がついた。

「テディ」

 ああ、うん、と返事をし、テディは皿を引き寄せ箸で食べ始めた。

 離脱症状からは脱しても、これがあるから油断はできない。スプーン、針状のもの、ジッポーの火、粉砂糖やタルカムパウダー――日常のなかに当たり前にある、ありとあらゆるものがヘロインによる快楽を刻みこまれた脳の記憶を刺激する。

 ユーリはスタロプラメンを呷り、ふうと息をつくとスプーンをテディの死角へ遠ざけた。

「ところで、この皿とかってどうしたの」

「ん? 皿はぜんぶロニーが買ってきたんだよ……荷物持ちはマレクがやらされてたけどな。おまえの好きそうな色の皿があったからって、カトラリーやマグと、あと洗剤や布巾まで買い揃えてきたんだ」

 使わず積んであるシンプルなティールブルーの皿を指して、ルカが云った。「ロニーはほとんど毎日来てたんだぜ? 皿だけじゃなく俺らにも差し入れだなんだって持ってきては、おまえの様子を聞いてった。心配してたぞ」

「そっか。……バッグかなにか、プレゼントするべきかな」

「あー、酒でいい、酒で」

「そうそう。それもいいワインとかじゃなくて、スタロプラメン一ケースでいい」

 テディはくすくすと笑った。

「ひどいな」

「いちばんいいのはテディ、おまえがしゃんとした姿を見せてやることだ。わかってるだろう」

「……うん」

 ユーリの言葉に、テディは素直に頷いた。「なんかもう、ずっと昔のことみたいな気がする」

「うん……なにがだ?」

 遠くを見るようなその瞳に、長い睫毛が影を落とす。

「いろいろ。……なんだかいろんなことがあったけど、実はほんの三年ほどのあいだのことなんだなって」

「そう……だな――」

 確かにいろんなことがありすぎた。特にテディには――万感が押し寄せ、ユーリはルカとちらりと視線を交わした。ふたりして真顔になりテディを見つめていると、彼はそれに気づいたのか、にっこりと笑みを浮かべた。

「俺はもう大丈夫だよ。大丈夫だし、スマックにももう手はださない。いま思うのは、早く演奏がしたいってことだけだよ。ジェシやドリューの顔も見たいし、早くスタジオに戻りたい」

 ――まだ油断はできない。やっと一山越えたばかりのジャンキーの云うことなど信用もしきれないし、たとえ本心から云っていたとしても、それがいつヘロインへの渇望に負けてしまうかわからない。

 それでも、その言葉はなによりも今、テディの口から聞きたい言葉に違いなかった。

 ユーリは手を伸ばしてテディの髪を指で梳き、くしゃくしゃにして頭を撫でた。「わ、やめろよ」と、テディは笑いながら避けるように下を向いてしまった。だから、その泣き笑いのような顔を見ることができたのはルカだけだったろう。もっとも、ルカも似たような表情をしていたが。

「……ああ、そうだな。俺も早く演奏がしたい――ヴォーカルとか抜きで、おまえとふたりでもいいから」

「おい、なんてこと云うんだ。五人でやるに決まってんだろ」

 照れ隠しのように軽口を叩き、そのままいつものように音楽の話に流れこむ。

 三人は、いま聴くと音質、演奏ともに物足りないが素晴らしい曲はどんどんカバーして残していくべき、というテーマで暫し語らった。そして、未だ誰にもカバーされず埋もれかけている名曲を思いつくままに挙げているとき――ふと、ルカが時計を見て云った。

「もうこんな時間か……、俺はそろそろ帰るわ」

 そう云って立ちあがったルカに、ユーリはいつもの軽い調子で「おう、また明日な」と云い、顔をあげた。

 じゃあ、と帰るかと思ったが、ルカはなんだか妙に落ち着いた表情でそこに留まり、話し始めた。

「いろいろたすかった。ユーリ、本当に感謝してるよ」

「……なんだ、あらたまって」

 少し面食らって、ユーリはルカの顔をまじまじと見返した。

「でも、あんまり顔は叩くなよ。尻にしとけ、尻に。テディとつきあってくなら短気は直さないとな」

 テディは途惑ったようにじっとルカを見ている。ルカは、ほんの少しのあいだテディを見つめ返すと、ふっと笑みを溢して背を向けた。

「じゃな。あんまりユーリを困らせるんじゃないぞ」

 それだけ云って玄関に向かうルカを、ユーリは慌てて立ちあがり、追った。

「ルカ、俺は――」

「ユーリ」

 ルカはドアの前で振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。「テディのこと、頼んだぞ」

「……ああ」

 ユーリは云える言葉をみつけられず、ルカが薄手のジャケットを羽織り、キャスケットをかぶるのをただ見つめた。ルカは何事もなかったかのように平静な――否、いつも以上に、静謐ささえ感じられる落ち着いた様子で肩まである髪を掻きあげた。そうして、手首につけていた黒いゴムで髪を縛りキャスケットに収めると、ドアを開け、軽く片手をあげてあっさりと出ていった。

 開けたドアがゆっくりと戻って、ばたん、と音をたてて閉まるあいだ、ユーリはその場にただ立ち尽くしていた。

 ――ルカはもう、このドアを開けて中に入るつもりはないのだ。

 複雑な思いでドアに鍵をかけ、部屋に戻ると――テディが人形のように表情のない顔でどこか一点を見つめていた。その肩に手を置き、隣に腰掛けるとテディは抱きつき、表情を隠そうとするかのように顔を胸に埋めた。ユーリはテディをしっかりと抱きとめ、目を閉じた。

 ずっと望んでいたことであったはずなのに、なんだか苦い抱擁だった。

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