まるで十階分の階段を駆けあがってきたかのようだった。
テディの状態は少しずつ悪化し始め、ロニーが帰ってから三時間ほどたった今はもうかなり辛そうな状態だった。開いた瞳孔は空を見つめ、呼吸は荒く、額や胸許には汗が滲んでいる。だが寒さに凍えるかのように躰は小刻みに震え、ときどき脚が引き攣ったようにびくんと動く。手は手枷のベルトをぎゅっと握りしめていて、躰を捩りながら右を向いたり左を向いたりするその表情は、苦悶に満ちていた。
ルカは交代に備え、ヘッドフォンをつけて音楽を聴きながらソファに寝そべっていたが、まだ眠れていなかった。ノイズキャンセラのヘッドフォンを使い、それなりの音量で音楽を聴いているのに、耳に届くはずのないテディの声が聞こえてしまうような気がするのだ。
こんなふうに、苦しそうなテディを見ていないときでさえこうなのかとルカは、今更ながらに自分たちのやろうとしていることの困難さに慄いていた。テディは今、どんな様子なのだろう。ユーリはどんな言葉をかけてやっているのだろうと、ルカは耳を覆うヘッドフォンのイヤーパッドを片方だけずらしてみた。
すると、今度こそ現実のテディの声が耳に飛びこんできた。
「なあ、頼むよ。痛いんだ……半分だけ打っていいって云ったじゃないか……、もうほんとに……今がぎりぎりだって……」
「まだだめだ」
「なんでだよ……! おねがいだ、骨がバラバラになりそうなんだ……、もう、たすけて……ユーリ、頼むよ……!」
「もう少しだ、暴れるな。汗、拭いてやるから――」
「触るな、痛いんだ……! なあ、これ外してくれ。もういいだろ、外して……ああ、ちくしょう、痛むんだよ……!」
――とても聞いていられない。
ルカはヘッドフォンを元に戻した。しかし、聞いてしまった声は耳に残り、音楽を押し退けて頭のなかでこだまする。眠れるわけがなかった。代わってやれるものならば――ルカは思った。そのほうが、どんなにか楽だろう。
* * *
ユーリはベッド脇に置いた椅子に坐り、じっと身じろぎもせずにテディを見つめていた。テディの様子を見守りながら、なにもできないことにぐっと堪えていた。
本当は枷なんかつけずに抱きしめて、痛むところを擦ってやりたい。しかし、必死になった中毒患者は錯乱し、時にとんでもない力で暴れだすことがある。擦ってやりたくても全身が異常なほど過敏になっていて、なにをしたって痛みにしか感じない。つまり、見ていることしかできないのだ。
「ユーリ……おねがいだ……、一回だけ……ほんの少しでいいから打たせて……。なあ頼むよ、くれよ……!」
その美しい顔を苦痛に歪め、掠れた声でたすけてくれと懇願するテディをただ見つめ、ユーリは自分の膝に置いた手をぐっと握りしめた。
更に二時間後。
テディは譫言のように、なにかぶつぶつ呟いていた。その目はぼんやりと虚ろで、なにもないところをじっと見つめているようだった。手を翳しても反応がなく、正気でいてくれているかと心配になる。ユーリはそっと顔を覗きこみながら、静かな声で名前を呼んでみた。
「テディ? 俺の声が聞こえるか、テディ……」
するとテディは、突然怯えたように首を横に振って喋りだした――幼い口調で。
「いやだ、来ないで――やめて……ごめんなさい、ごめんなさい。なんでも云うこと聞くから……、もう痛いことはしないで……おねがい……、おねがい……!」
テディの眼は確かに自分を映しているのに、テディが見ているのは自分ではなかった。ユーリはきゅっと目を逸らすように閉じ、テディから離れた。
――史上最強の女神は裏切るとこんな悪夢までみせるのか。
ここまで依存が進んでいなかった所為だろうか、自分が味わった離脱症状はこんなふうではなかった。なぜもっと早く気づかなかったのかと後悔の念がまた渦巻く。揺さぶって悪夢から引きあげてやりたいが、それさえできない――肩に手を置けばその瞬間、その手は少年の頃のテディを虐げた男の手にすり替えられてしまうだろう。
「……いやだ、いや、いやぁ……痛いよ、痛い、痛い――」
テディの泣き叫ぶ声が高くなる。ユーリは頭の後ろで手を組み、耳を塞いだ。聞いているこっちが発狂しそうだった。
――翌日。
「暴れるな、落ち着け! ……くそ、いったいこいつのどこにこんな力があったんだよ!」
「テディ、すぐに用意してやるから暴れるな! ルカ、頭の後ろにクッションかませとけ!」
テディは手も脚も動く限りの範囲でものすごい力をだしてもがき、頭を起こしては何度も何度もがんがんとベッドにぶつけていた。舌を噛むといけないとボールギャグを噛ませた口から、獣のような唸り声といっしょに唾液が溢れていた。
さすがにこの状態はまずいと思い、少しのあいだルカに任せてユーリは隠した容器を取りだし、急いで注射の準備を始めた。
「テディ、聞いてるか。暴れるな、おい聞け……スマックだ。今スマックを打ってやるから、頼むから暴れないでくれ、針が刺せない」
そう云い聞かせるように繰り返すと、ようやく正気に戻ったようにテディが暴れるのを止め、ユーリのほうを向いた。テディの視線がユーリの手にしているシリンジに集中しているのを見て、ルカが「手枷外すか?」と訊く。
「左だけ外して、腕を伸ばした状態で押さえててくれ」
「わかった」
ルカがテディの上に馬乗りになって云われたとおりにするあいだ、テディは暴れなかった。ユーリがシリンジを口に咥え、駆血帯代わりの紐を巻いて膝で押さえると静脈のあたりを叩き、消毒する。針がそこに滑りこむ様子を、テディは荒く呼吸をしながら頭を起こしてじっと見ていた。
中の溶液が銀色の針を通して血管に注ぎこまれていき、テディがようやくほっとしたように全身から力を抜き、目を閉じる。
「もう口のは外してやっていいぞ」
「オッケー」
ルカが頭の後ろに手をまわしてボールギャグを外してやると、テディはゆるゆると左右に頭を振った。
「なんだよこれ……、ぜんぜん効いてこない……。あちこち痛いのがちょっとましなだけじゃないか……」
「それでいいんだ」
ユーリは一式を片付けて戻ってくると、テディの口許を拭いてやった。
「今こうやって正気で話せてるだけで充分だ。そのあいだにシャワーを浴びて、着替えて、なにか腹に入れるんだ」
右の手枷も外してやり、テディが起きあがるのに手を貸す。
「だめだよ、足りない……。なんでこんなに躰が重いんだ……。こんなじゃ、なにもできないよ……」
「俺が手伝うから大丈夫だ。ルカ、着替えをだしておいてくれ。――ほら、バスルームまで歩けるか」
テディは緩慢な動作で一歩一歩、ユーリに掴まりながら歩いた。床に足がついているのを確かめるかのように、ゆっくりと踏み進む。時折、ぐらりとよろめく躰を支えてやりながら、ユーリはふと何年か前のことを思いだしていた。
あれはまだデビューして間もない頃――まだまったく売れず、なんとかしようとプロモーションライヴのため、マンチェスターに滞在していたときだった。テディとふたりで夜中、クラブに行ってヘロインをやったはいいが、いい気分になるどころか悪心で酷い目にあった。
あのときもこんなふうに、床がぐにゃりと波打つ錯覚に襲われながらふたり、必死に歩いたな、と。今もテディが似たような感覚に襲われているのかどうかはわからないが、リビングの向こう、エントリーホールに面したバスルームまでがこんなに遠かったかと思うほど、時間がかかっていた。テディはまるで泥のなかから必死に足を上げるみたいに、懸命に一歩ずつ進んでいる。
だが、ふとその足が止まった。見ればテディは真っ青な顔で、手で口許を押さえていた。
「う……」
「――ルカ!」
吐きそうなのだと気づき、ユーリは大声でルカを呼んだ。すぐ後ろにいたらしいルカはテディの様子をひと目見て瞬時に察し、先にバスルームのドアを開けた。そして二人掛りでテディを両側から抱え、引き摺るように強引にバスルームへ引っ張りこむ。トイレの前に立たせ、ユーリが
一頻り吐いたあと、まだ
「……きゃ、よかった……」
「うん?」
テディは泣いていた。
「……最初にこんなふうに……、吐いてたときにもう……二度とやるもんかって云ってたのにな……。なんで……」
どうやらテディもマンチェスターでのことを思いだしたらしい。やらなきゃよかった、と云ったのだとわかってユーリは思わず笑みを浮かべ、テディの髪をくしゃっと撫でた。
「いいんだよ。そのときは、きっとおまえには必要だったんだ……。さ、シャワーがつらいならバスタブに湯を張るか? そのあいだにできそうなら歯を磨いたほうがいい。すっきりするぞ」
「マウスウォッシュだけでいいかな……」
「ああ、充分だ。口のなかは清潔にしておかないと、歯が黒くなっちまうからな」
このときのテディはとても素直で、この調子なら無事に減薬していってヘロインを断つことができるだろう――と、ユーリはそう思っていた。
三日め。
酷く暴れるようなことはもうなさそうなので、痣になる手枷はもう外していた。だが、まだブランケットやクッションにしがみついて苦しがるテディから、一瞬たりとも目を離すことはできなかった。
焦点の定まらない目をして腕や顔を掻きむしろうとするテディの手を掴み、ユーリは「掻くんじゃない……、もう少しだから頑張れ……!」と云い聞かせた。
「もういいよ……、もういいだろ。くれよ……ほんの少し打ってくれたら、また頑張れるから……」
ある程度のところまでくるとこの台詞がでる。ユーリもルカも疲労は限界に近づいていて、そこでこれを聞かされるとかなり堪えた。
テディは自分の手首を掴んでいるユーリの手に頬擦りし、愛しそうにキスをした。
「なあユーリ……俺に愛してるって云ったじゃないか……たすけてくれよ……。もう耐えられないんだよ、もう……おかしくなりそうなんだ、欲しくてたまらないんだ……。一回でいいんだ、あと一回だけ打たせてくれたら、ユーリの云うことなんでも聞くよ。なんでもだよ……なんでもするから……、頼む……」
もちろん、ユーリはその願いを聞き届けてはやらなかった。
五日め。
ルカに買い物を頼み、テディが気絶するように寝入ったとき。さすがにもうとっくに限界だったユーリは、ついうたた寝をしてしまった。とはいえ、本当にほんの僅かな時間だったのだが――しまったと顔をあげたとき、そこに眠っていたはずのテディの姿はなかった。
慌ててキッチンに向かうと、天袋に隠してあった容器が取りだされ、ワークトップに置かれていた。その傍らで、テディがジッポーを持ちスプーンを熱しているのが目に入る。はっとして振り返ったテディにつかつかと近づくと、ユーリは険しい表情で手にしているものを叩き落とし、自分に向けているその凍りついた顔を思いきり引っ叩いた。
後ろにシンク台がなかったら吹っ飛んでいただろう。頬に手を当てて頭を振ると、テディはずるずると床にへたりこんでしまった。
「――なにすんだよ、ちくしょう……!」
「それはこっちの台詞だ!! その一発で、この数日耐えてきたことがぜんぶ無駄になっちまうんだぞ! なんで堪らえられないんだ!!」
ユーリはそう怒鳴りつけ、容器のなかにまだいくつか残っていたグラシン紙のパケットをすべて破ってシンクにぶち撒け、水を流した。テディが目を瞠り、シンクの縁に手をかけ立ちあがって覗きこむ。ユーリはその前で、隅々まで水を行き渡らせるように蛇口を左右に動かした。
「なにするんだ、ああ……なんてことを……」
「もう必要ない。もっと早くこうするべきだった」
勢いよく流れる水が象牙色の粉末を消し去っていき、あっという間に痕跡すらなくなった。よろりとシンクに凭れかかり、テディはそれを茫然として見つめていたが――偶々そこには、叩き落としたスプーンが転がっていた。
テディの取った行動に目を瞠る。手を伸ばし、指で掬い取った
「なにす……、冷たい、やめろ……!」
「おまえ、自分が今どれだけ無様かわかってるのか! ちょっと頭を冷やせ……! きついのはわかってる。でもおまえは戻ってこなきゃいけないんだよ……! 自分でも云ってたじゃねえか、棄てられないもんがいっぱいあるんだろ? 早く抜けだして俺にドラムを叩かせてくれ……!」
頭を押さえている手の力がふと緩んだ隙に、テディがシンクから一歩離れる。ユーリはシンクの横に手をつき項垂れたまま、片手で水を掬って顔を濡らした。
レバーを下げて水を止め、ユーリはそのままじっとしていた。
自分やルカがいくら苦労し、気を張っても、本人がやめるんだという決意を保てなければ意味がない。此処にある分を処分したって、一歩外に出ればドラッグなど簡単に、いくらでも手に入れることができる。
この数日やったことはすべて無駄だったのか。拘束を解いている今、テディはここから逃げて何処かへ行ってしまうだろうか――ユーリがそんなことを考えていると、横からテディが濡れた髪を掻きあげ、覗きこむように顔を寄せてきた。少し驚いて、その表情を見る。テディはなにかに途惑っているような、どこか不安げな目で自分を見つめていた。
「ユーリ……、俺……」
瞬いた目から雫が落ち、頬を伝った。ユーリはその感触に苦笑し、手の甲で顔を拭った。涙なんかではない。泣くようなことなどなにもないのだから。
なにか問いかけるように、小首を傾げテディは云った。
「わかってるはずなのに……欲しくてたまらなくなるんだ。一度それが頭に浮かんだらもう、他のことがなにも考えられないんだよ……。きつい禁断症状がなくなっても、これはずっと、一生このままなんじゃないかって……ずっと、こんなきつい思いをしなきゃいけないのかって……」
「そうだ」
ユーリは無表情に頷いた。「おまえは一生、スマックが欲しくなるたびに堪え続けなきゃいけないんだ。やめたらもう欲しくならないなんてことは絶対にない。俺だってそうだ」
「ユーリも……?」
髪からぽたりぽたりと雫が垂れて床を打つ音がする。ユーリはテディの髪に手を伸ばして耳にかけてやると、薄く笑って頷いた。
「ああ。でも俺はツアーが終わってから、スマックには手をだしてない。知ってるだろう」
「どうして……、どうしたら、堪えられるんだ……?」
「そりゃあおまえ、比べ物にならないくらいもっと大事なものがあるからだろうが」
「大事な……」
「おまえは大事じゃないのか? それらすべてを失うことになっても、スマックが欲しいか」
そんなわけはない。今こうして、逃げずにここにいるのだから。それに以前にも云っていた――棄てられないものが多すぎて、死を思い浮かべることもできなかったくらいなのだから。
失いたくないから、彼は死の代わりにヘロインを選んだのだ。
身体的な依存からは脱しても、精神的な依存はなかなか消えることはない――否、もう一生、完全に消えることなどないのだ。だから耐え続けるために本人の意志と、麻薬を必要としない環境と、精神的支柱――拠り所が必要不可欠なのである。
テディはゆるゆると首を横に振り、ようやく云った。
「……ごめん……」
はあ、と大きく息を吐くとユーリはテディを引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
こんなふうに抱きしめるのは何日ぶりのことだろうと、少し痩せた感じのする抱き心地に胸が詰まるのを感じる。冷えてしまった髪に愛しげにキスを落とし、ユーリは「シャワーを浴びないとな……。顔も冷やさないと腫れちまう」と云いながら、赤くなった頬をそっと撫でた。
「ユーリのシャツも濡れてるよ……、一緒に入ろう」
腰にまわされた手に、掻き抱くように力が込められるのを感じた。
「風呂にか……? でも、もうじきルカが帰ってくるんだぞ。おまえの好きな
「中華料理? ……まだそんな食欲はわかないよ」
「じゃあ、なんの欲ならあるんだ?」
「さあ……」
濡れた髪に縁取られた顔が妖艶に微笑む。ユーリはその灰色の瞳を見つめ、顔を傾け近づけようとした――が、苦笑して背中にまわしていた手を解き、身を離した。
いま唇を重ねてしまうと、歯止めが利かなくなりそうだったのだ。
「躰はどうなんだ、痛みや吐き気はもうないのか」
「うん……ただ怠いだけかな。ひどく疲れてる感じはするけど、もうなにもしないでいるのに飽きたよ」
「そうか。……とりあえずおまえ、先にシャワー浴びてろ。俺はここを片付けておかないとルカにどやされる」
「わかった」
テディは云われたとおりバスルームへ向かい、ユーリは手近にあったタオルで床を拭いた。すっかり汚れてしまったタオルを丸め、スプーンや一式の入った容器といっしょに蓋付きのゴミ箱に捨てると、ふうと息をつく。
テディは、今は自分やルカのためにもちゃんとやめようと決意を新たにしているだろう。――しかし。
「まだだ……、まだ安心はできん……」
小声で呟き、もう一度深く溜息をつくとユーリはシンクに凭れ、天井を仰いだ。