アルバム制作はプリプロダクションの段階に入っていた。
プリプロダクションとは本番レコーディングの前に行われる、最終チェックをするための仮録音のことである。
リハーサルスタジオでパートごとのアレンジや音を作りこんでいき、これでよし、と思えるクオリティになったら、次にプリプロダクションで曲全体のバランスや音などを確認するための録音をする。ここで納得のいかないところがみつかればまたそのパートのアレンジを直したり、使用する楽器やエフェクターなどを見直したりして、とことんまで突き詰め曲を仕上げていく。
プリプロ作業が終了すれば次はようやく本番のレコーディングに移り、パートごとの録音となる。
スタジオの周りには、まだ執拗に報道陣たちが張り込んでいた。
ニールとは依然として連絡がとれないままで、流出した動画は最初にアップロードをしたアカウントが停止されても、エリーの云ったとおりまた別のアカウントから再掲、のみならず他のいくつかの動画サイトへもアップロードされ、世界中で共有されてしまっていた。
インターネットの掲示板やSNSでも、まだ飽きられることなくジー・デヴィールについての話が到るところで交わされていた。テディの男娼疑惑やヘロインの使用などについて批難と失望の声があがるなか、ユーリが叩き伏せた記者の件もかなり注目を集めていた。
だが、こちらは圧倒的に擁護派の声が多かった。暴力はいけないとか、相手に怪我まで負わせるのはやりすぎだという声も当然あったが、相手の記者の言葉については人としてありえないなど、ほとんどが憤ったものであった。これは、その場にいて一部始終を見ていたある記者が、事実をありのままに書いた記事をウェブニュースに掲載したおかげであっただろう。
想定外だったのは、ある雑誌がルネ・クレツキの死について書いたことだった。
デビューしたばかりの頃にヘロインの
郊外の辺りなのか、木々の緑の向こうに見える白い建物に向かうふたりの姿が、ご丁寧にそこが病院だとわかる敷地内の案内図と一緒に写されていた。ユーリはサングラスをかけているし、テディは
でかでかと書かれた見出しは『ジー・デヴィールのテディとユーリ、ヘロイン中毒の治療のためメサドン処方の病院へ』。メサドンとは、ヘロインの使用を断つときの苦痛を取り除くために処方される、代替薬である。
そのページを見るなり、ロニーは雑誌を持っていつもの休憩室に行った。案の定ユーリとテディはそこでジョイントを吹かしていたが、テーブルに叩きつけられたそれを見てさすがに目の色を変え、ジョイントを揉み消した。
「ねえ、これはどういうこと!? あなたたち、いったいなにしに病院になんて行ったの? まさか本当に――」
「なんだこりゃ……、こんなところ撮られてたのか」
ちくしょう、気づかなかった、とユーリは苦々しげに云い、ばつが悪そうにロニーを見た。
その横で、テディが申し訳なさそうにユーリを見つめた。
「どうなの? 本当にメサドン治療に通ってるの?」
「そうじゃないロニー。心配するな、俺たちはツアーが終わってからスマックはやってない。こんなのはでっちあげだ」
「じゃあいったいなにをしに――」
「ごめんロニー。俺のせいなんだ」
テディがすまなそうな表情で首を振った。「病院に行ったのは……HIV検査のためだよ。もう四週間以上経ったから……」
ロニーははっとした。
HIVは感染してからのウインドウ期間――検査で検出できるようになるまでの空白期間が長く、より確実に検出するためには、感染の機会があってから三ヶ月以上経った後に検査を受けなければいけないのだと、なにかで読んだことがあった。
検出可能な時期になってすぐに検査を受けているということは、ずっと頭から離れなかったのだろう。結果が陰性とでても、まだ安心はしきれないのだとわかってはいても、それでも一刻も早く受けずにはいられなかったに違いない。
テディの身に起こったのは
「……そう、か。ごめん……私が気づいて、手配してあげるべきだったわね……。そしたらこんな写真撮らせなかったのに」
「そう云われると……すまなかった。事が事だから云い難くてつい、勝手に行ってしまった。悪かった」
「また三ヶ月くらい経ったらもう一回受けるから……ああ、今回が陰性だったらだけど、そのときはおねがいするよ」
しおらしくそんなことを云うふたりが珍しくて、ふっと笑みを溢す。
「だけど、タイミングがタイミングだけに、これじゃ完全にあなたたちがヘロイン中毒だって思われるわね……」
「いいんじゃないか? HIV検査に行ったって書かれるよりは、こっちのほうがついでって感じでましな気がするが」
「どんなついでよ。でも……そうか、実はHIV検査に行ったんですなんて云う必要はまったくないわね」
そう考えるとかえってよかったのかもしれない、とロニーは思った。この写真の記事がなくても、既にふたりのヘロイン使用の件は報道されて騒ぎになっていたのだから。
「じゃあ、いつもみたいに適当に躱して流していきましょ。あと、
そして世間にはすっかり、テディとユーリがジャンキーだというイメージが定着してしまった。
実際のところは、ルネと一緒だった頃に二度ほどヘロインをやったことはあったが、そのときはただ胃がむかついてひたすら気分が悪く吐きまくっただけで終わり、二度とやるものかと思っていた。その次はマンチェスター滞在中、チャイナタウンで食事をした日の夜だった。夜中にこっそりホテルを抜けだしたユーリとテディがノーザンクォーターへ向かい、ふらりと入ったクラブで
最後はヨーロピアンツアー中、ステージのあと気分が高揚して眠れないとき、誰かがヘロインとシリンジなど一式を差し入れてきてからだった。しかしまた同じ様に最初の一、二度は嘔吐して、やっとラッシュを味わったのは三度めか四度めに使用したときだった。その後も何度か使ったが、ツアーが終わり環境が変わることで、依存が高まる前にふたりは使用をやめることができていた。
偶にMDMAや覚醒剤を使うことがあったとはいうものの、だからユーリとテディがジャンキーだというのは、ほとんどは捏造され押しつけられたイメージでしかなかったと云える――少なくとも、この時点では。
「また来てる……」
見憶えどころか、見ただけで拒否反応が起こりそうなその文字に、ロニーは頗るつきに厭な顔をした。
まさか、カメラと盗聴器を外したことに対して文句でも書いてきたんじゃないでしょうねと思いながら、封を切って中身を取りだす。
『おまえがそんな自堕落な人間だったとは思ってもみなかった
麻薬はおまえの美しさを損なう 今すぐやめろ
僕以外の男に躰を自由にさせるのもゆるさない
おまえにはやはり躾が必要だ 待っていろ』
カメラのことには触れられていないが、どうやらこの男も動画を視てショックを受けたらしい、とロニーは思った。以前は気持ち悪いほど称賛の言葉を並べていた文面が、怒気を感じさせるものに変わっている。待っていろというのも、以前の犯してやりたいと願望が書かれていたものより、現実味を持って迫ってくる。
これはちょっと危険かもしれないと思い、ロニーはちょいちょいとエリーを手招きしてデスクに呼び、手紙を見せた。
「確かに……ちょっとやばい感じがする。称賛してた相手がそれに値しないと思って、裏切られたような気持ちでいるんだと思う……。こういう場合、過去の事例だと最悪、殺人に発展するケースも――」
「ちょっと! 縁起でもないこと云わないで……!」
「ごめん」
そうは云うものの、ロニーもマーク・チャップマンを思い浮かべたことはあった。これはやはり警察に相談したほうがいいのだろうかと思いつつ、ふと思いだしてエリーに尋ねる。
「そういえば、フォーラムのほうはどう?」
フォーラムというのは、アウティング騒動のあとヘイトスピーチ的な書きこみがあった、オフィシャルファンクラブのウェブサイト内のフォーラムのことである。
「しばらく書きこまれてなかったんだけど、今回の騒動でまた復活した……。今はもう不適切なコメントとして削除してしまったけど、その……ものすごくひどい言葉の羅列だった」
「前みたいな……?」
「ううん、もっとひどい……なんだかゲイが嫌いっていうより、テディがゲイであることがゆるせないっていう感じだった」
「どういう心理なのかしらね、それは」
エリーは顎に手をやり少し考えこむ仕種をした。
「よくある掲示板荒らしや、愉快犯的なものとは違う気がする……。ひどい言葉でテディを攻撃してるけれど、なんだか子供が駄々を捏ねてるみたいな……」
ロニーは首を傾げた。
「駄々を捏ねてる?」
「うん。荒れてるなかで、テディを庇う意見があるとすごく噛みついてた。なんであんな奴がちやほやされるんだ、なんでみんなわからないんだ、って……。あとはひどい言葉ばっかり」
エリーは言葉を濁したが想像はついた。
わからないのは、そんなに気に入らないのにどうして気にするのかということである。嫌いなら視たり読んだりしなければいいのに、なぜ自分の受け容れられないものを気にかけて、わざわざこんなファンサイトにまでアクセスして書きこみをするのか――。
「……理解不能ね」
ロニーが溜息をつきながらそう云うと、エリーも頷いた。
* * *
いつものように激しく情交に耽り、悦びに浸ったあと。何度も何度もキスを浴びせ、裸のままシーツに包まっているうちに、ユーリはいつの間にか眠っていた。
愛しい者を腕のなかに閉じこめて、温もりを感じながら眠る。一国の王だって貧しい農夫だって、これ以上の幸せはないと思うに違いない――ただしそれは、朝になってもまだ隣にその温もりがあればの話だ。
ふと目を覚ましたのは、まだ明け方頃だった。
寝返りを打って、何気無く手を伸ばした先になにも触れるものがないことに気づき、ユーリは薄目を開けた。テディが眠っていたはずのその寝乱れたシーツには、既に体温は残っていなかった。欠伸をしながら上半身を起こし、重い瞼をなんとか開いて、ユーリは部屋のなかを見まわした。
隅で淡く灯っているスタンドライトと、カーテン越しのまだ弱い陽の光にうっすらと照らされた室内に人影はなく、ベッドの脇に投げ棄てたバスタオルも、ソファの背に掛けてあったはずの上着も見当たらない。
「テディ……?」
下着とズボンだけを身につけ、ベッドから出てキッチンやバスルームを覗いてみる――やはりテディの姿はない。ユーリはカーテンを開けて部屋中を見てまわったが、みつけることができたのは、見当たらないのはテディの姿だけでなく、彼の服や靴もだという事実だけだった。
眉を寄せ、玄関の扉を確かめる。すると鍵はきちんとかけてあり、『鍵はドア枠の上』とテディの字で書いたメモがドアの隙間に挟んであった。
素足のままスリッポンを履きドアを開け、メモのとおりドア枠の上の溝を手で探ると、確かに鍵がキーホルダーから外された状態でそこにあった。
部屋に戻り、冷蔵庫からマットーニのボトルを取りだして開け、一口飲む。それをことりとテーブルに置いてソファに腰掛け、ユーリはモバイルフォンを手に取りテディの番号を呼びだした。
テディは応答しなかった。