ロニーがマレクと一緒に事務所に戻ると、ソファにいたユーリがきまりが悪そうな顔をこちらに向けながら立ちあがった。
「ロニー……すまな――」と云いかけるのを手をあげて遮り、ロニーはにっこりと笑みを浮かべた。
「ユーリ、ありがとう。もし男だったら私がやってたわ。かっこよかったわよ」
「ロニー」
ユーリは一瞬目を見開き、そして照れたように頭を掻いた。「……それで、示談で済みそうなのか」
「もちろん。こういう雑事を片付けるために私がいるのよ。あなたたちはなにも心配しないで、音楽だけやってて」
「感謝する、ロニー。だがやっぱり云わせてくれ……、面倒をかけてすまなかった」
「面倒をかけてるのは俺だろ……」
ソファに坐ったままテディが云った。「ユーリは俺を止めてくれたんだ。ユーリがやってなきゃ、俺があの野郎を殴ってた。そしたら……、騒ぎがまたでかくなるだけだったよね……」
同じ暴力沙汰でも、騒ぎの渦中にいる本人が手をだせば、更にいろいろ尾鰭を付けて書きたてられるに違いなかった。ユーリはテディの髪をくしゃっと撫で、「おまえは気にすんな」と隣に再び腰を下ろした。ルカもドリューもジェシも、その様子を見てほっとしている様子だ。
「とりあえずおつかれさま。やっと帰ってきたって感じね……。休憩して、スケジュールの確認だけしたら解散にしましょうか」
そう云うとロニーは、デスクに積みあげられた書類や封書の束を見て、心底うんざりした顔をした。
まめにメールで片付けていてもこれはどうしようもないのか、と溜息をつく。とりあえず、何処からのどんな内容かだけざっと見て、種類ごとに重ねて脇にやる。が、そのなかのひとつの山はもう処理する必要もないのではないか、とロニーは思った――こんな騒ぎがあっても、まだタイアップの企画を進めてくれるような奇特な企業はあるまい。
はあ、と息をついて首を振ると、ふとデスクの横に置いてあるダンボール箱のなかに目がいった。入っているのはいつものファンレターやプレゼントだが、そのいちばん上に例の異常な手紙と同じ筆跡が見えたのだ。
ロニーはそれを凝視したまま待機組のスタッフに、「これ、中身はチェックした?」と尋ねた。
「あ、それ……まだ開けてません。筆跡でわかったので上に除けてあるんですけど、手紙じゃないみたいで」
「手紙じゃない?」
ロニーはそれを箱のなかから取りあげた。四角くて薄いが硬いその馴染みのある感触に、すぐに中身の想像がつく。
「これ、ディスクのケースよね……。今度はいったいなにを送ってきたのかしら」
封を切ると、入っていたのは思ったとおりDVDの透明なケースで、中のディスクにはすっかり見慣れた癖のある筆跡で『愛するテディへ』と書いてあった。
やはりろくな中身じゃないだろうなと思いつつ、ロニーはデスクトップのPCのドライブをオープンした。すると、エリーが慌てて飛んできた。
「待って! だめです、そんなわけのわからないディスクを不用意に読みこませないで……!」
エリーはロニーの手からディスクのケースを奪うと、自分のデスクに戻り抽斗から古いラップトップとパワーアダプターを取りだした。
「大事なファイルの入ってない使ってないPCで、オフライン状態でチェックする……。質の悪いウイルスとかだと困るから」
「なるほど」
ロニーはエリーの後ろに立ち、エリーがラップトップを立ちあげディスクを再生するのをじっと待った。今は使っていないというだけあって少し旧い所為か、OSが立ちあがってデスクトップ画面が表示されるまでに二分ほどかかった。そのあいだに「なんだ? どうした」とスタロプラメンを飲みながら、ユーリがこっちを気にし始めた。
「うん……、なんだかわからないから、調べてもらってるの」
ロニーが曖昧に返事をすると、ユーリは立ちあがってエリーのデスクのほうへ歩いた。それに気づいて、ルカとテディもそちらに目をやる。
やっとDVDを読みこみ、動画の再生が始まると、画面には明らかに運動不足なだらしない体型をした毛深い男が、パンツ一枚で映っていた。毛深いわりに頭のほうは寂しい、お世辞にもハンサムとは云い難いしまりのない顔で、その男はへへへ、と笑ってから喋り始めた――ようだった。
「音は今、だしてないけどどうする?」
エリーが振り返り、そう訊いた。ロニーはちら、とテディのほうを見やり、考えた。
「そうね……音はださなくていいわ。今はとりあえず内容を確認しましょう」
「わかった」
画面のなかで、男はなにやらずっと喋り続けていた。にやにやと気持ちの悪い笑いを浮かべ、股間に手をやりながらなにかを云っているその男が、ずっと同じ口の動きを繰り返しているのに気がつく。パンツの中に手を入れて、ごそごそと動かしながらその男はどうやらテディ、テディと云っているのだと、単調な口の動きからわかった。エリーは露骨に厭そうな顔をしてフルスクリーンを解除し、再生画面を四分の一ほどの大きさに縮めてしまった。
ユーリも横から覗いてきて、「こいつが例の奴か」と顔を顰めた。ルカは怪訝な顔で、テディは不安げにこちらを見ている。ロニーはしばらく苦虫を噛み潰したような顔で画面を見ていたが、ふと思いついたようにユーリに云った。
「ねえ……気持ち悪いし厭でしょうけど、これ、テディやみんなにも見てもらったほうがいいと思うの。大丈夫かしら」
大丈夫か、というのはもちろんテディのことだ。ユーリも云わんとすることをすぐ察してくれたらしく、頷いた。
「気分は悪いだろうが見せるべきだろうな……、相手の顔を知っておいたほうがいい。あっちで再生するか」
「あんな大きな画面にこんなの映さないでください。どうぞ、これ持ってテーブルで……」
そう云うとエリーはアダプターを外し、ラップトップをユーリに渡した。ルカが「いったいなんだ、さっきから」と痺れを切らしたかのようにそう訊くと、テディが云った。
「あの、タトゥーのことを書いてた奴からだね。あれだけじゃなかったんだ……ずっと何通も来てたんだ?」
ロニーは目を丸くした。
「よくわかるわね。余計なストレスにしないようにと思って云わなかったのに……」
「なんとなく……、言葉の端々からね」
ユーリが坐ってテーブルの上にラップトップを置き、少し戻して動画を再生する。顔を認識しやすいように画面もフルスクリーンに戻すと、ドリューとジェシ、ターニャやマレクも集まってきてその画面に注目した。
「この男は、今までに何通もテディ宛に気持ちの悪い手紙を送ってきてるの。異常にテディに執着してるのがわかる手紙で、しかもだんだんエスカレートしてる」
「おまけに覗き疑惑もある。まだ完全に色が入ってそんなに経ってない時期に、何人かしか見てないテディのタトゥーのことを、こいつは書いてきてたんだ……。どこかから覗いてるとしか思えない」
ロニーとユーリがそう云うのを聞きながら、皆は画面を遠巻きに眺めていた。すると、遠慮気味にいちばん離れたところに立っていたマレクが眉根を寄せてユーリの後ろまで来ると、「ちょっとすみません……」とラップトップに手を伸ばし、自分のほうへ近づけて凝視した。
「こいつ……見たことがあります。どこでだったか……」
「え!」
ロニーは驚いて声をあげた。「どこで! 思いだしてマレク、おねがい……」
「ちょっと待ってください……音もだしてみていいですか」
ロニーはすぐに返事ができなかった。が、テディが察して「俺は平気だから。音、だしてみて……声も聞いてみよう」と云った。
マレクがすみません、と小さく云ってボリュームをあげる。聞こえてきたのは『テディ、ああテディ……いいよ、君は素晴らしい……もう達くよ、いま達く……』と、頗るタイミングの悪いところの声だった。慌ててマレクが動画を最初のほうに戻す。すると、今度は『……僕の愛するテディ……、君が帰ってくるのが待ち遠しくてたまらないよ……』と、まあ相変わらず気持ちは悪いがパンツの中に手が入る前になった。ほっとした顔で、マレクは集中して見始めた。
「どうした、寒いのか」
テディが腕を抱えるのを見てユーリが訊いた。
「いや、寒くはないよ、エアコン利いてるし。ただ……ちょっと鳥肌が」
「だろうな。まったく気持ちの悪い野郎だ……、大丈夫か」
「大丈夫」
その会話に、マレクがなにかに気づいたようにテディの顔を見る。
「エアコン……そうか、エアコンだ……」
「なにか思いだしたの?」
「ええ、思いだしました――」
マレクはロニーに云った。「電器屋ですよ! こいつ……ここに事務所が移転になって、僕やターニャが備品の整頓に来てたとき、エアコンやTVの設置をしてた奴です。仕事が遅くて、何回も忘れ物だとか足りない部品があるからとか云って、二、三日続けてここに入ってます」
「ええ!?」
「ちっ、まじかよ」
それを聞くとユーリは舌打ちをし、立ってエアコンの真下へ行った。テディがなにかに気がついたようにそれに続くと、デスクの椅子を持ってユーリの横に置いた。
その背を持って支えるテディの肩に手を置いて、ユーリは椅子に上がると、エアコンのカバーを開けてなにかを探し始めた。
「あったぞ」
エアコンの送風口から、テープで止めてあったらしい
「まさか……」
ロニーはそれを見て驚いた。
「タトゥーでもなんでも見られるはずだ……隠しカメラ仕込んでやがった。まだ奥のほうに本体がある。まともな電器屋呼んで枠ごと外さないとたぶん取れない。レンズ部分は外したからもう盗撮はできないが……」
椅子から降りながらそう云うと、ユーリは小さなレンズのついたそれをぽいっと投げて寄越した。キャッチしたロニーがこんなに小さいの、と手のなかの物をまじまじと見つめていると、テディが「……それって、見るだけだよな」と呟いた。
ちっ、そうかとユーリがまた舌打ちをして、事務所のなかをぐるりと見まわす。
「どこだと思う」
「電源が取れて、電波も飛びやすいところ……かな」
ユーリとテディの会話を聞いて、ようやくルカやドリューもわかったらしく、同時に声をあげた。
「盗聴器か!」
「え、盗聴器!?」
「盗撮とか盗聴とか、映画やTV以外で初めて見ましたよ僕……」
ジェシが首を振り、信じられないという顔でロニーと顔を見合わせる。ユーリは窓側の壁の下辺りで身を屈め、物陰を覗きこみながら云った。
「今のカメラは音を拾わないタイプだった。別に盗聴器が仕掛けられてないと、いつかのアウティング騒動の説明がつかない」
「あれもこいつが犯人だったっていうの!?」
「盗聴器があったら、そうだろうな」
ユーリはそう答え、ロニーのデスクの後ろにしゃがみこんだ。デスク下から伸びる何本かの黒いケーブルを辿っているユーリを見て、テディが「ドライバーが要るかな」と云い、こっちを向く。
「え、ドライバー?」
「わかりました、今だします」
目に触れないよう隠せて電源がとれる場所――コンセントの前で待つユーリの傍に、マレクが棚の抽斗から取りだしたドライバーセットを持って近づいた。
「僕がやります」
「ああ、じゃあ頼む」
立ちあがったユーリと入れ替わってしゃがみこみ、マレクがデスクから伸びているプラグを抜こうとすると――
「待って待って! PCがついてる、いま落とすからこっちはあとにして……」
またエリーが飛んできて、マレクを止めた。マレクはおっと、というように口を尖らせ手を離すと、ユーリが手招きするTVの後ろのコンセントのほうへ移動した。
邪魔な観葉植物をユーリが除けると、マレクはそこに片膝をついて作業を始めた。差してあったプラグを抜き、カバープレートを外す。そして上下にあるネジを回して外すと、マレクは壁のなかのコンセント本体を注意深く引っ張りだした。
するとコードの絶縁被覆の一部が剥かれていて、そこにクリップのようなものが取りつけてあった。クリップからは細いコードが伸びていて、それがなにやら黒い四角いものと繋がっている。
「……エリー、もうPCは落とさなくていい……、こっちが当たりだった」
「あったの!?」
ロニーがまさかという思いで声をあげ、皆がマレクに注目した。ユーリがマレクの手許を覗きこみ、忌々しげに舌を打つ。
「本職らしい面倒なことしてやがる……。いまどき、もっと簡単な盗聴器もあるってのによ」
吐き棄てるように云うと、そっとそのクリップのようなものを外して黒い本体を取り去り、ユーリは床に叩きつけ踏み潰した。
「さて、こいつどうするかな……」
「ここに来てた電器屋なら調べればすぐに判るでしょ。警察に連絡するわ」
「待って」
ロニーのデスクに坐っていたエリーが、またストップをかけた。「盗撮も盗聴も罪としては軽い……。いったん警察に逮捕させても厳重注意だけで釈放になったり、罰金で済んでしまったりして、そのあと逆恨みされてストーキングされたり凶悪化する場合がある……。様子を見たほうがいいと思う」
「俺もその意見に賛成だな」
ルカが云った。「今までのところ盗撮と盗聴と、気持ち悪ぃファンレターだけだろ。もうそのうちふたつは解決したんだから、下手に刺激しないほうがいい気がするな」
「ちっとむかっ肚は立つが、俺も賛成だ……こんな頭のおかしな野郎を怒らせたら、テディになにをしようとするかわからんからな」
確かにそれもそうだが、皆それ以上に、テディに負担がかかることを避けたいと考えているのだとロニーは気づいた。こちらが被害者であろうとも、警察を頼ればいろいろと話を訊かれることになる。まだ今は、そんなことでテディを煩わせたくはない。
ロニーは手にしていたモバイルフォンをぱたんと閉じ、云った。
「わかったわ。今後どうなるか様子を見ましょ。テディ、あなたはひとりにならないようにできるだけ気をつけてね」
「大丈夫だよ」
テディはそう答えたが、端からひとりにするつもりなどなかった男がそこにいた。
「テディには俺と一緒に来てもらうつもりでいたから、問題ない」
「え……いいよ。俺はひとりで――」
「だめだ」
ユーリが真剣な顔で云う。「それとも、ルカのところへ行くか。どっちか選べ」
テディはルカを見た。目が合った。
どっちか選べ――その響きが思いがけず修羅場のそれのように響いて、ああすまん、とめずらしくユーリが焦った様子で云い直す。
「そういう意味で云ったんじゃない。とりあえず、今晩はどっちに泊まるか訊いたんだ」
ロニーも一瞬どきりとしていたので、ほっと息をつく。
無言のまま見つめあっているルカとテディを見やりながら、当然、テディはルカのところへ行くと答えるとロニーは思った。しかしテディは、ルカから目を逸らさないままこう云った。
「……じゃあ、ユーリのところへ行くよ」
予想とは違った答えにロニーはルカを見た。ルカはそうか、とでも云うように肩を竦めテディから視線を逸らした。ユーリはそんなルカをちらりと見やり、ルカから目を逸らされたあとテディはユーリを見つめていた。
なにやらそこだけ張りつめたような危うい空気が漂い、ドリューとロニーがなんとなく視線を交わす。
「ああ、今後のスケジュールについてだったわね……」
ルカたち三人よりも、それを眺めているこっちのほうが気まずい感じだった。ロニーはわざと足音を響かせるようにしてデスクに戻ると、エリーがさっと退いた椅子に腰掛け、書類の山に手を伸ばした。