翌日、めずらしく――というより初めて、ターニャを含む全員がしっかり朝寝坊した。しかし、もうなにも慌てることもないため、起きてきた者はのんびりとリビングでたわいも無い雑談をしていた。
寝坊したとはいえ、ジェシとエリーの次に起きてきたターニャは、昨夜のバーベキューでも使いきれず残ってしまっていた食材でサラダやハムとチーズの盛り合わせにトルティージャという、簡単な朝食を作った。エリーはオレンジジュースをボトルごとグラスと一緒に置き、ジェシがコーヒーを淹れる。バゲットはシンプルに、オリーブオイルと塩を添えてだした。
皆は朝食を食べ終えると、帰りの荷造りをしなきゃと云って動き始めたロニーに倣った。楽器関係のものは一足先に送ってしまっていたので、あとは衣服と身の周りのものだけだ。
ツアー生活を経験し、そういう段取りにはすっかり慣れていた所為だろう。あまりにもてきぱきとやりすぎて、まだもう一晩ここで眠るのだと思いだしたジェシが、歯ブラシを入れた袋を間違って棄ててしまったと探しまわっていた。
ターニャとマレクはあとできちんとハウスクリーニングサービスが入るにも拘わらず、キッチンやバスルームなどを簡単に掃除しながら、物の置き忘れがないかチェックしていた。
来た日のようにすっきりと片付いたリビングのソファで、ロニーとエリーはラップトップに向かっていた。
プラハに戻るのは二ヶ月ぶりになる。久々に事務所に出勤して早速仕事に追われないよう、待機組とメッセンジャーで会話しながら、できる仕事を済ませておく。そのほとんどはスケジュールの調整だ。
その他は群がってくる業界関係者を捌くことだった。どこからどう知るのかわからないが、次のアルバムを準備をしているとわかると、まだレコーディングもしていない段階からタイアップやコラボレーションの話がくる。ジー・デヴィールのように世界的な成功を収めたバンドに特有のものだろうが、ちょっとでもあやかって甘い汁を吸おうとする輩が掃いて棄てるほどいるのだ。ロニーはそれにいちいち、角が立たぬように返事をしなければならない。
「はぁ……、なんだか帰りたくなくなってきたわ……」
伸びをしながらそうこぼす。そしてふと、少し離れてラップトップに向かっているエリーを見て――目を丸くした。
普段ほとんど喜怒哀楽の色を浮かべないエリーの顔が、なにか怖いものでも見たかのように凍りついている。
「どうかしたの? エリー」
そう尋ねると、エリーはおもむろにロニーのほうへと向き、唇を震わせながら云った。
「……流出、してる……」
「流出?」
それだけではなんのことかわからず、ロニーは眉をひそめた。
「映画が、あの、試写で問題になったあの……あの動画が、ネット上に――」
「なんですって!?」
思わず大きな声をだし、ロニーはエリーの傍へ行き、ラップトップの画面を覗いた。声が聞こえたのか、そこへルカとマレクもやってきた。
画面には確かに、ニールと連絡がとれないままフェイドアウトするようにお蔵入りになってしまっている、あのドキュメンタリー映画の一シーンが映っていた。
『
そして気づいた――これはパート1で、2から先が再生されている動画の右横にずらりと並んでいることに。絶望的な気分でそのひとつをクリックすると、今度はいきなりルカとテディの濃厚なキスシーンが映った。その次は――もはや再生するまでもない。サムネイルの小さな画像のなかに、腕に注射針を突き立てているテディとユーリの姿が見える。どこまであるのかと画面を下のほうまでスクロールすると、どうやら六分割されているようだった。左側にはコメントがずらりと表示されている。
『なにこれ なんでこんな映像があるの?
フェイクじゃないの?』
『ショック もう無理 ファンやめます』
『ありゃヘロインだな
もう終わったなZDV けっこう好きだったのに』
「なんで……どうしてこんな……! どうにかならないのエリー、今すぐ削除させて――」
「無理です!!」
エリーが悲鳴のような高い声で即答した。「もう視聴回数が百万を超えてる……! これからSNSで拡散されてもっと急激に増えていく……。それにここに上がっているのを消したって、絶対何人かはローカルに保存してしまってる。またどこかにアップされてしまえば同じこと……一度、ネット上に拡がってしまったものはもう、どうしようもないんです!」
「……そんな……」
ルカがラップトップを掴み取って画面を見た。いつの間にか、キッチンの傍にユーリとテディも立っていた。
ユーリはつかつかと近づいてきてルカの手にあるラップトップを捻るように自分に向けると、その画面を見て気色ばみ、ラップトップを取って振りかざそうとした。「私のです!」とエリーが叫び、ラップトップは投げつけられるのを免れ彼女の手許に戻ったが、ユーリの怒りが収まるはずもない。
「ニールは! ニールに連絡はとれないのか!」
「ずっと電話もメールもしてるわよ! でも電話にはでないし、メールの返事もないのよ。エマも同じだって云ってたわ……でもまさか、こんなことをするなんて」
「くそっ、あいつは結局なにがしたかったんだ……ロバート・フランクになりたかっただけなのか? なにを考えてやがるちくしょう……!」
「待って。ニールが故意に流出させたかどうかはまだわからない。ウイルスによるファイル共有ソフトからの流出の可能性もある。とにかく今は、この動画サイトにアップしたアカウントについて調べる。動画を削除させることにほとんど意味はないけど、違反報告でアカウントを凍結させることはできる。動画の公開は確実に権利違反なので――」
キーボードを操作しながら話している途中で言葉を切り、エリーが顔を顰めた。そして、ダイニングの椅子に坐ってこちらの様子を窺っているテディに視線を移す。
テディはエリーのその顔を見てゆっくりと立ちあがり、こちらへ歩いてきた。
「どうかしたの、エリー。まだなにか……」
厭な予感と不安に背中を押されるようにそう訊くと、エリーは迷うように俯いたあと、画面をこちらへ向けた。画面はかなりスクロールされているのか、コメントだけが表示されている。その中程に――
『やばい 勃っちまった』
『テディ ブロウジョブ巧そうだな
ああやってしょっちゅうルカのをしゃぶってるのか』
『カメラの前でよくやるよ 世界を相手に誘ってんのか?』
『こいつブダペストで
コックスの近くの雑貨屋に写真が貼ってあった』
『フッカー? まじかそれ』
『それ知ってる 前に写真の画像あげてる人がいたよ』
『これだろ
https://■■■■pbs.xxximg.com/media/hXnjfR_yXblCw1.jpg 』
ロニーは震える指でそのURLにカーソルを動かし、クリックした。
長いあいだ貼られていたのか、端がくるりと反ってしまっているその画像のなかの写真には、街灯の光を避けて壁に凭れるようにして佇む少年が写っている。十六、七歳くらいに見えるほっそりとした体躯のその少年を、ロニーは間違いなくテディだと思った。怠そうに小首を傾げているその仕種も、少し癖のある前髪を垂らしたその横顔も、あの夢のなかで見たテディそのものだった。
その背後には、煉瓦ブロックを積み重ねた窪みがくっきりと目立つ壁と、ピンク色に淡く光る丸いネオンサインが見える。それには『
その画像と書き込みにショックを受け、動けずにいると、すっとラップトップが持ちあげられた。はっとして顔をあげる――テディがラップトップを抱え、無表情にそれを見ていた。見てはだめとか気にするなとか、なにか云わなければと思ったが、なんの言葉もでてこない。それどころか、テディの顔からさえ目を逸らしてしまった。
視線の先にはルカとユーリがいた。彼らもその場から動く様子はなく、立て続けに起こるバンドへの試練にもう疲れ果てたかのようだった。どうしよう、どうしたらとテディの表情を窺う。テディはしばらく画面を見たあと、エリーにラップトップを返すと俯いて――くっくっと、堪らえきれないように笑いだした。
「テディ……」
おかしくてたまらないというように、片手で顔を覆い声をあげて笑い続けるその様子に、ロニーもルカも眉をひそめた。しんと静まっていた広いリビングに、テディの甲高い笑い声だけが響く。尋常でないものを感じ始めたとき、ユーリがテディに歩み寄り、その腕をとって振り向かせると同時にもう一方の手でぱん、と頬を張った。テディはぴたりと笑うのを止めたが、誰もなにも云おうとはせず、ただ見ている。
「……大変なときにすまないが、テディを部屋へ連れていく」
ユーリがそう云うと、ロニーはほっと緊張を解いて頷いた。
「ええ、おねがい……ついててあげて」
ユーリは頷き返し、俯いたままのテディの肩を抱いてリビングを出ようとした。すると、いつの間にかそこにいたターニャが、黙ってシードラとサンペレグリノのボトルをユーリに差しだした。ユーリはそれを器用に片手で受けとりながら、笑みを浮かべてターニャを見た。ロニーも心のなかでターニャに礼を云った。ターニャらしい、細かい心遣いだ。
ユーリとテディが出ていくと、ロニーは再びエリーのラップトップの画面を覗きこんだ。するとエリーが「ロニー、自分のPC見て……新規メッセも来てるはず」と云った。え、と慌てて閉じていた自分のラップトップを開き、ロックを解除して確認すると、待機組からのメッセージがずいぶん溜まっていた。
やはり動画と、テディの写真について狼狽しているのが窺える内容で、ロニーはとりあえずこっちも把握しているからそれに関しては自分に任せて、通常業務だけを頼むと返信した。
しかし、そうは云ってみたものの、自分はなにをできるというのだろう? ロニーは途方に暮れた。
だが、事態はそんな暇さえも与えてはくれないようだった。
「ロニー、大変。もうポータルサイトのニュースに載ってしまった」
「ええっ」
ロニーはいつも自分が利用しているページを開いてみた。
――本当だった。そこには『ジー・デヴィール、ドラッグとセックスに耽溺する日々』という見出しがあった。しかも一回り大きなフォントで、トップに。
「この状態だとネット上に留まらないで明日の朝……いいえ、今晩のTVニュースでも取りあげられる。そうなったらジー・デヴィール、ううん、音楽に興味が無いような、ただセンセーショナルな話題が好きなだけの人たちも飛びついて大騒ぎになる……。そうやってどんどん膨れあがってく……」
エリーの云うことは正しいだろう。ロニーにもそれは容易に想像がついた。ジー・デヴィールの場合は売ってきたイメージとのギャップもあって、大衆は日頃の鬱憤を晴らそうとするかのようにバッシングをするだろう。そしてメディアは恰好の暇潰しとばかりにいろいろ穿り返しては、話の種として消費する。次にもっと人々が飛びつくような話題がみつかるまで、それは終わらない――ロニーの頭のなかで活動休止、解散……などという言葉がちらつく。
「なんでこんなことに……」
さすがに今度という今度は心が折れそうだった。もうだめかもしれない。もうここまでよくやったと自分たちを褒めて終わってもいいのかもしれない、とロニーは思った。いちおうは、これ以上ないというところまで昇りつめて、結果を残したのだから。
それにテディのこともある。性的虐待のことも、男娼疑惑――真偽はまだわからないが――も広く知られてしまって、それでも衆目を集める場に立てというのは酷なのではないだろうか。そのうちに、今度はレイプ事件も蒸し返されたりするかもしれない。そんな状態で、自分だったら人々の前に立てるか? そうでなくても不安定になっているのに……ロニーはぎゅっと目を閉じた。――消えてしまいたい、と思うかもしれない。
でも同時に、演奏しているときのテディの顔も頭から離れない。音楽に触れているときだけ、彼は救われていたのだ。わからない。テディのために、バンドのために、いったいなにをどうしたらいいのだろう。
だが、そのとき――
「テディのことはユーリに任せときゃいいよ。とりあえず余計な心配は後まわしにして、もう出たとこ勝負でいこう。プラハに戻ってみりゃ、また違うもんが見えてくるかもしれないだろ」
唐突にルカがそんなことを云うので、ロニーは面食らってしまった。こんなことになって、ルカはテディの次にショックを受けているはずなのに。
「出たとこ勝負って……、そんな考え無しでいいわけな――」
「いいんだよ。誰かが云ってたけど所詮、ショービズなんてギャンブルだろ。良かれ悪しかれ今、これまででいちばん話題になってるんだ。大波に呑まれて沈むならともかく、自分から降りてたまるかよ」
ああ、そういえば――ロニーは思った。常識的で生真面目なところもあるけれど、ルカはこういう大らかさも持ちあわせていた。決して捨て鉢になっているわけではなく、開き直っているというかふてぶてしいというのか……ルカなら、その調子の好い言葉や態度で煙に巻いてしまうかもしれない。しかし。
「だって……それじゃテディが」
「あいつは……つい庇いたくなるし、なんか脆そうに見えることもあるけど……」
ルカはどこか遠くを見るような、なにかを懐かしむような顔で云った。「あいつはあれで案外したたかだ。きっと、大丈夫さ」
* * *
プラハ・ルズィニエ空港は、今までに見たことがないほど多くの人で溢れていた。
覚悟はしていたが、到着ホールへ出た途端TVカメラが数台と報道陣、ファンと、単に有名人が見たいだけの野次馬連中が犇めきあっていた。そもそもなぜ今日戻ってくるのが知られているのかと、ロニーが思わずそう口にだして愚痴ると、横を歩いていたエリーが「イビサ空港でも機内でも目撃はされてるから、SNSで……」と答えてくれた。
またSNSかとロニーはうんざりしたが、しかしブレイクのきっかけになったのもそのSNSであったことを思いだして、なんとなく奇妙な気分になる。
依頼してあった警備員が人を掻き分けて道を作り、マレクが荷物のカートを押しながら先頭に立って進む。その後についてまた警備員がふたりと、バンドメンバー、ロニー、そしてまた警備員がふたりという順でできるだけ足早に歩く。
ターニャとエリーは関係者ではありません、という貌で離れて先に出ていて、寒さに身を縮ませていた。さっさと去ろうとするルカたち――特にテディ――に、報道陣たちは容赦なくカメラとマイクを向け、次々とフラッシュの光が浴びせられる。
「テディ! あなたはルカと恋人同士じゃなかったんですか? ユーリと親密すぎるように見えますが――」
「ルカ、一言だけおねがいします! あんな映像が世に出てしまったことについてなにか、ファンに一言――」
「テディ、ユーリ! ドラッグは音楽を制作するうえでどんな影響を齎しましたか?」
「例の写真に写っているのはテディ、あなたなんですか? あの場所は――」
さほど広くはないプラハの空港に感謝したくなる。一行はひたすら無言を貫きなんとか空港内から外に出て、警備員が報道陣を押さえている隙に用意していたいつものハイエースに乗ることができた。ハイエースに乗ってここまで来ていたスタッフと、ターニャとエリーの三人はタクシーに乗りこんで悠々と、うっすらと白く雪化粧した空港を後にする。
「ふう、なんとかなってよかった……」
ターニャがほっとしてそう洩らすと、エリーがブラックベリーを手のなかで操作しながら云った。
「まだ安心できない。たぶん事務所周りにも……」
「ええ……、事務所にも警備員って頼んであった?」
「いちおうは……でも、ふたりだったと思う」
ふたりと聞いて、大丈夫かしら、とターニャは心配そうに前方を走るハイエースを見つめた。