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TR-08 - Light My Fire

 普段の粗野な振る舞いからは想像できないほど整頓され、掃除の行き届いた部屋だった。

 シックなブルーグレーのカーテンに大きなソファとテーブル、キングサイズのベッド。その傍らにはジャンベとアコースティックギターが並んでいて、キッチンの手前にはバーのようなカウンターテーブルとスツールがあった。ストリチナヤやタンカレー、メーカーズマークなど、あらゆる種類の酒瓶も並んでいる。いかにも酒好きな男の独り暮らし、という雰囲気だ。

 ユーリは部屋に入るなり、テディに楽にしててくれと云ってキッチンに籠もった。そしてしばらくするとスタロプラメンを二本とつまみを持ってでてきて、カウンターの上に置いた。

 なんだろう、とテディはそこへ近寄ってみた。大皿に盛られたつまみはバゲットを薄く小さく切って、サラミとチーズを乗せただけに見えたが、そのあいだにはハーブのようなソースが塗ってあり、ミニトマトも添えられている。

「すごいな、こんなの作れるんだ」

「切って乗せただけだぞ」

 それにしたって手早い。テディは感心しながら早速ひとつ摘まみ、「旨い」と呟いた。ユーリが満足そうな笑みを浮かべ、ビールを開ける。

「ジョイントいるか? ……メスもあるぞ」

「なんであるんだよ」

 特に驚きもせず、テディはそう云って笑った。


 メスとはメタンフェタミンの略で、俗に云うクリスタルメス――覚醒剤のことである。ふたりが以前使っていたペルビチンも同じメタンフェタミン系の覚醒剤で、もともとはドイツ軍も使用していた市販薬の商品名である。チェコではその名がそのままメタンフェタミン系覚醒剤の呼び名として浸透していて、経口で服用できるため抵抗感があまりない錠剤を始め、いろいろな形のものが乱用されて問題になっている。

 メスとかクリスタル、アイスなどと呼ばれているのは特に純度の高い――或いは、そのように見える――結晶状の粉末のことを指していることが多い。形状や摂取方法で呼び名が変わるのは、ドラッグに関するスラングではよくあることである。


「ソファのほうが楽だろ、運ぼう」

 ユーリはそう云ってつまみの皿とビール、スナック菓子の袋を手に移動した。テディも自分のビールを持ってソファに坐ると、テーブル下にあった〈PRINCプリンク〉というゲイ雑誌をみつけて、ぱらぱらと捲る。

「なんかこういう雑誌久しぶりに見たなあ……どれが好み?」

「そのなかにはいないな」

「嘘だ」

 笑いながらテディはビールを飲み、ユーリはその横に坐るとジョイントに火をつけた。




       * * *




 一本のジョイントを廻し呑みしながら、いつものように音楽の話やたわいも無い愚痴、ニールの話など、ふたりは取り留めなく喋り続けた。途中くすくすと笑いがとまらなくなってテーブルを蹴ってしまい、ビールの瓶が倒れ零れた。それを見て、ふたりはまた声をあげて笑い転げた。頭が冴えて上機嫌になったり笑いがとまらなくなるのは、ある種の大麻がもたらす効果の特徴である。

 そうして一時間半ほどが経ち、ハイな状態がやや落ち着いてきた頃。ユーリはソファに凭れて床に脚を投げだし、少し酔いがまわった様子で目をとろんとさせているテディを見た。明るすぎない程度に灯したフロアランプが、彼の整った顔を照らしだしている。もとからこの髪色だったのではと思うほど似合っている濃い灰褐色ダークアッシュブラウン、大きな瞳に影を落とす長い睫毛。笑みを浮かべ薄く開いている形の良い唇に、ユーリはつい見蕩れた。

 それをごまかすように坐り直し、もうほとんど空の小瓶を取り、呷る。

「そういやおまえ、外で遊ぶチャンスがないとか云ってたが、ルカがいなけりゃ遊んでたのか?」

「ん……遊ぶっていうか、そんな気分のときにうまくチャンスがあればね。昔、ブダペストにいた頃はそういうバーにも行ってたし」

「そういうバー? クルージングバー?」

「うん」

「おまえがそんなところに行ってたなんて意外だな……。いくつのとき?」

 ビールは半分ほど残してコフォラを飲んでいたテディは、少し考えて答えた。

「十八くらい」

 そういったバーは当然、未成年は入れないはずだ。つまり、テディはIDアイディーの提示で入れる年齢になってすぐそういった場所に出入りしていたことになる。――否、きっと一度か二度、好奇心で誰かと一緒に行ってみただけなのだろう。そうに違いない。

 なんだか喉の乾きを感じた。ユーリはソファにだらしなく預けていた躰を起こして坐り直し、テディの飲みさしのビールを取った。

「もらうぞ。……ルカと一緒に、社会見学でもしに行ったのか?」

 いつもの冗談を云う調子で笑いながら、ユーリはそう尋ねた。

 しかし、テディの答えはノーだった。

「まさか。ルカには内緒でだよ、決まってるじゃない。でも、ばれちゃったけどね」

「あいつはそんなの、嫌がったろう。怒ったんじゃないか?」

「まあね。でも……あの頃、ルカは親から金をもらってたけど、俺までそれで食べるのもいやだったし」

 ぴく、と飲みかけていたビールを持つ手を止め、ユーリは眉をひそめてテディの顔を見た。

「……テディ、おまえ」

「うん?」

 かたん! と、小瓶をテーブルに置く音が部屋に響いた。

「売りをやってたのか?」

「……何度か相手に小遣いもらっただけで、最初からそのつもりで通りに立ってたわけじゃないよ」

「同じことだろ」

「なにを怒ってる――」

「怒っちゃいない」

「怒ってるだろ」

 テディの顔を直視できず、ユーリはぐるりと頭をまわした。息をふぅとついて落ち着こうとする唇が、なにか云いたげに震える。確かに怒っているのではなかった。そんな単純な感情ではなかった。

 なのにテディは、さらに信じられない言葉を吐いた。

「ユーリ、俺と寝たい?」

「!! なに云ってんだおまえ……」

 テディは真っ直ぐに自分の目を見ている。ユーリは目を逸らせず、途惑ったままその美しい顔を見返した。

「そうなのかなって思うことは何度もあったんだ……。ピアス開けてくれたときも、髪切ったときに褒めてくれたときも。俺の思い過ごしだろうって気にしないようにしてたけど……俺、そういうのにはわりと敏感なんで、わかるんだよ」

「思い過ごしだよ」

「ほんとに?」

 テディが探るように小首を傾げる。自分をじっと見つめるその灰色の瞳に負けてしまいそうになる。ユーリは顔を歪め、首を振った。

「勘弁してくれ……おまえと寝たりしたらバンドがうまくいかなくなる。おまえにはルカがいるんだろ、俺がずっとどんな思いで堪らえてきたと思ってるんだ……! 俺は、あの世間知らずでクソ真面目な坊っちゃんのかわりにバイクやドープを一緒に楽しむ悪友でよかったんだ……! おまえがそれを壊すのか」

「悪友のままでいいよ。そこにファックバディって足すだけさ、たいしたことじゃない」

「たいしたことじゃないだって?」

「たいしたことじゃないよ、たかがセックスじゃない。ちょっと愉しむだけだよ……それとも、俺は他をあたったほうがいい?」

「他……ばかな。おまえ、そんな――」

「俺がそういう場所で遊ぶのと、ルカに内緒で俺たちが愉しむの、どっちがバンドの危機だろうね」

「……おまえは悪魔だ、テディ」


 ――あの日。髪を染めて戻ってきたテディが振り向いたとき、恋に落ちる瞬間とはこういうものなのだと知った。その夜、安ホテルの薄い壁を伝わってきたベッドの軋む音と、微かに聞こえるテディの嬌声に発狂しそうだった。一睡もできず、朝になっても耳に残って離れず、いつしかその声を直に聞きたいと渇望するようになっていた。

 あの日から、いったいどれだけルカから奪う企みを育てただろう……いったいどれだけ、頭のなかでテディを犯しただろう? その焦がれた相手が今、眼の前で『たかがセックス』と一蹴しながら自分を誘惑している。

 これは夢なのか、それとも悪夢なのか――ユーリにはわからなかった。わかるのは、自分がこの誘いに抗えないことだけだった。


「……シャワー、使うか」

 テディは妖艶な笑みを浮かべ、頷いた。





 ――あれほど欲しいと恋い焦がれた相手を腕のなかに抱きながら、ユーリは複雑な思いでいた。

 出会ってバンドに引き入れた頃からテディは物静かでおとなしく、いつも自分のあとをついてくる弟分のような存在だった。いろいろと悪い遊びも教えたが、テディはいつもただ自分に倣ってやっているだけで、まったくなにも知らない子供のようだった。だから、ユーリは途惑った――ベッドでの、テディの淫奔さに。

 それは、あまりにも想像と違っていた。悪い遊びを教えていたときと同じように、自分がリードして与える快感に翻弄されるテディを、ユーリは見るつもりでいた。しかし実際は、翻弄されたのはユーリのほうだった。まるでプロの男娼のようなテディの振る舞いは、ユーリには現実として受けとめ難いものだった。こんなのは思っていたのとはまったく違う。こんなはずじゃなかった。

 それにまだ、あの声を聞いていない。そう思い、ユーリはサイドテーブルの抽斗を開けた――そこには、氷砂糖のような細かな結晶の入った小さな袋が入っていた。半身を起こしてそれを口に咥え、ユーリはアストログライドのキャップを開け、たらりと手に垂らした。そうして袋の中の白い結晶をその上にぱらぱらと落とし、指で混ぜる。

「第二ラウンド」

「……メス? 使うの?」

「ああ、ポッパーズやフォクシーよりずっと効くんだぜ、こいつは。……さあ来い。天国へ連れていってやる」

 裸のまま躰を起こし、小首を傾げて自分を見つめるテディを、ユーリは乱暴に引き倒した。





 ――翌日。

 すっかり正午を過ぎた頃。ドライブスルーでハンバーガーのセットをふたつ買ってから事務所に向かうと、なにやら建物の周りに人が集まっているのが見えた。ファンの女の子たちらしい集団も見えるが、それ以外の数人は大きなカメラを抱えている。

 どうも捕まらないほうがよさそうだと察して、ユーリはテディと事務所のある建物をやり過ごした。そして離れたところにバイクを停め、ロニーに電話をかける。

「俺だ。今そっちに行こうと思ったんだが人集りができてるんで……なに?」

 ロニーの言葉を聞いて思わず表情を変える。テディに向くと、彼もなにか起こったと察したらしく、眉をひそめて自分を見ていた。

「……わかった。じゃあすぐに行く。尾けられないように気をつけろ」

「いったいなに?」

「話はあとだ。前の事務所に行くぞ」

「わかった」

 短く言葉を交わしてふたりはまたバイクに跨り、ロニーの自宅へと向かった。





「俺じゃない! 誓って云う、俺がそんなことリークしたってメリットがない! むしろ映画にはデメリットだろうが……本当に俺じゃない!!」

「このタイミングで他に誰がいるってんだ、え!?」

「やめなさい! ユーリ、とにかくいったん落ち着いて。離してあげて」

 襟首を絞めあげ壁に押しつけている手をユーリは忌々しげに離し、ソファの背に拳をぶつけた。ニールはほっとしたように息をつき、シャツの裾を引いた。

 テディが無表情に眺めているテーブルの上の新聞とラップトップの画面には、こんな文字が躍っていた――



 『新進気鋭の超人気美形モデルバンドはゲイカップル!』

 『ジー・デヴィールのテディ・レオン、ゲイ発覚』

 『人気バンドのヴォーカルで美形モデル、

 ルカ・ブランドンは両刀遣いバイセクシュアル

 『ZDV・ルカ&テディ&ユーリ、三角関係疑惑?』



「……ニールじゃないよ。ニールならこんなふうに広めないで自分で書くだろ」

「じゃあ誰だってんだ……、いくら隠してるわけじゃないって云ったって、内輪でしかカムアウトしてないんだぞ」

「云っておくけどターニャたちは違うわよ。そんなことする子はひとりもいないし、それこそメリットがないわ」

 ニールがその場に立ったまま、がしがしと頭を掻く。ジェシはしゅんと項垂れ、ドリューはテディと自分の顔を心配そうに見やっていた。ロニーは頭にきているようで、いつもは人前では吸わないマルボロライトメンソールの煙草に火をつけた。

 デスクの上で充電されていたモバイルフォンがコール音を立て、ロニーがそれを取る。

「……ええ、そうなの? わかったわ、じゃあ無理しないほうがいいようね。――わかった、じゃあ気をつけて」

「ルカか?」

「ええ、空港で捕まっちゃって、こっちには来ないほうがいいと思うって。……大丈夫かしら」

「あいつは調子がいいからうまくごまかすんじゃないか?」

 そうニールが云うと、ユーリはじろりと睨んだ。

「ごまかすってなんだ。なんかごまかさなきゃいけないことがあるか? 俺とテディはゲイで、ルカはバイだ、それがどうした? 問題なのはこんなふうにアウティングされて、しかもそれがとんでもないスキャンダルみたいに扱われてることだろう」

 ユーリの言葉に、ロニーも頷いた。

「会社としても、メンバーのセクシュアリティがマイノリティなのは隠せなんていう方針はないわね。だからって公表しろとも云わないし、積極的に人権運動とかしたければすればいいし、隠したければこっちも気をつける。そんなの個人の自由にしたらいい。そう思ってたから、こんなのは本当に……頭にきてるわ」

「……そうか、すまない。言い方を間違った……へっ、年寄りはだめだな、反省するよ」

 ニールが自嘲気味な言葉を吐くと、ドリューが顔をあげた。

「この数年でいろいろなことが変わったし、俺たちも当事者じゃないから最初はわからないことだらけだった。歳は関係ないと思う」

「そうですよ、いろんな国のLGBTとか同性婚とかのニュースを聞くようになったのはほんとにここ何年かで……って、あれ?」

 ジェシが突然首を傾げた。「チェコって、シビル・ユニオン法なかったですか?」

「あるな。登録パートナーシップ、四年くらい前だったか」

 ジェシの質問にそう答えてやると、彼はわけがわからない、という顔をした。

「あるのに、法的に認められてるくらいなのに、なんでこんなのが騒ぎになるんですか!」

 まったくだ。ユーリは溜息をついた。

「俺が聞きたいよ」



 総てにおいてそうだとは云えないが、ヘイトクライムが起こるほど差別問題が根深かった国のほうがLGBTに関する法整備が早く進んだ、という側面はあるようだ。その証拠に、表面的には差別のない日本などでは、法整備どころか議論さえも進まない。つまり、法的に認められていても、それを当たり前に受けとめる人ばかりではないということである。

 有名なスターがゲイだった、それがどうした? という反応に世間がなるには、まだ数年の時が必要だった。



「……もういいよ、俺は。別に騒ぎたきゃ騒がせておけば。俺は気にしない」

「テディ」

「ユーリが肚を立てるのはわかるけど……もう知られちゃったもんはしょうがない。嘘ついてまで否定しないんならもう、飽きるまでほっとくしかないだろ」

「そうだな……、早く飽きてくれりゃいいが」

「つーかよ」

 ニールが頭をがしがしと掻きながら云った。「おまえらがそれをよしとするかどうかは俺にはわからんが……、俺みたいなロックファンにしてみりゃ、こんなふうにすっぱ抜かれて小さく縮こまってやり過ごすより、ばれて幸い、これで堂々とできらぁってな調子で過激な言動をしたりするほうが、かっこいいやって思っちまうんだが……」

 皆がきょとんとした顔で一瞬静まりかえったあと、ユーリは大笑いした。

「いいなそれ、さすがおっさん……いや、ニールだ。確かにそのほうがいい。そもそも隠してなかったのは事実だしな」

「わかるわ、不倫がばれた俳優なんか見てても、違うとかただの友人ですとか云ってるの、あれすごくみっともないものね。次から次と違う彼女を連れて、しれっとしてる女たらしのほうがかっこいいもの」

「じゃあ、これからは堂々と外で遊べばいいの?」

「それはだめ」

「それはだめだ」

 ロニーとユーリの声が重なり、思わず顔を見合わせるふたりを見て、テディが吹きだす。

「冗談だよ」

「おまえの冗談は心臓に悪い」

「そうね……記者に囲まれても気にしないでルカとテディがいちゃいちゃしてればいいんじゃない? それなら女の子たちは大喜びするし」

「いちゃいちゃとか普段全然しないし……」

「じゃあ俺はどうするかな……、若くて可愛いレポーターでもいれば、おちょくってみるとかするか」

 ユーリがそう云うと、テディはふっと笑った。

「……おまえの悦いところ探してやろう、とか云って?」

 心当たりのあるその台詞に、ユーリは思わずなにを云うんだとテディを睨んだ。テディは笑うのを堪らえるように肩を震わせている。まったく、と咳払いし、ユーリはすぐにテディから目を逸らした。

「まあ、じゃあとにかく犯人探しは保留して、もう気にしないで堂々と、ってことで。ただしよけいなこと云って叩かれたりはしないように気をつけてね」

「あと引き続き、妙な追っかけや覗きには注意だ。特にテディ」

「わかってる」

 どこから漏れたのか、誰が広めたのか気にならないわけではなかったが、とりあえずその日はスタジオに入るのもやめ、翌日からまたスケジュールどおりにスタジオに籠もることになった。

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