翌朝、といっても時刻は十時を過ぎ、初夏の日差しが石畳を暖め始める頃。ロニーとバンドの面々は、事務所近くにあるカフェに遅めの朝食を摂りに来ていた。
十二時までオーダーできる朝食のセットは二種類のパンと四種類のチーズ、ハムとソーセージにマッシュルームとトマトのソテー、サラダというボリュームのあるものだ。それに加えてオレンジジュースかグレープフルーツジュース、コーヒーか紅茶が選べたが、こちらは全員がコーヒーを選んだ。ジェシだけが紅茶、と云いかけて、ひとりだけ紅茶は面倒だろうと遠慮したのか、彼はすぐにコーヒーで、と云い直してしまった。
その様子を見て、ロニーは苦笑した。
「お店に気を遣うことはないのに……」
「いや、そういうわけじゃ……、いいんです、紅茶はいつもうちで飲んでますから」
「ルカとテディは出身は違うけど、家はイングランドよね? 紅茶はあまり飲まないの?」
ルカが顔をあげて答えようとし、一瞬ちらりとテディを見た。
「俺は飲むよ。テディはコーヒー党だね、それもすごく甘くしたやつ」
「ん?」
「そういえばいつもクリームと砂糖をたっぷり入れるわよね」
手にしていたカップに目を落とし、「コーヒーの話?」とテディが聞き返す。その様子を見て、ユーリが呆れたように両肘をついたままパンをちぎった。
「おまえまた話聞いてなかったのか。まだ目が覚めてないのか?」
「ごめん、食べることに集中してた」
顔を隠すように頬にかかる、肩のあたりまで伸びたダークブロンドを耳にかけながらテディが苦笑する。テディはこんなふうにぼんやりとして、人の話を聞いていないことがよくあった。
「でね。昨夜ベッドのなかで考えてたんだけど」
「眠ってないのか?」
「考えながらいつの間にか眠ったわよ、夢のなかでも考え続けてたみたいだけど。……ねえ、ターンテーブルなしでも、バンドはとりあえず大丈夫?」
ロニーがそう尋ねると、ルカたちは顔を見合わせた。
正直、この何ヶ月かはルネの出す音が当てにできなくなっているようで、演奏する機会があっても曲を選んだり、ジェシがシンセサイザーでカバーしたりしていた。
ルネはターンテーブルの他にギターも担当していたが、ドリューとの相性が良かったとは云えず、あまり巧くもなかった――スキルが上がらないのも、ドラッグの所為だったかもしれないが。
「……演奏はできるな。それに、代わりを探そうとも思わない」
ドリューがユーリやルカの表情を見ながら答え、他のメンバーも頷く。
「そう……じゃあ云うけど、この際、プラハを離れようかと思うの」
「離れる? ……離れて、どこへ行くんだ」
ロニーはコーヒーを飲み干して、カップについた口紅を指で拭った。
「離れるっていっても今までどおり事務所はここだし、レコード会社を移籍するわけでもないわよ? ただちょっと、環境を変えたり気分を変えたりも必要かと思ったし、なによりプラハ……チェコにいたんじゃ、チャンスが少ないと思って」
世界で活躍している、数限りなくあるアーティストのなかに、いったいどれだけチェコやハンガリーやポーランドのバンドがあるだろう。ドイツならスコーピオンズやマイケル・シェンカー・グループ、ハロウィンなど成功したバンドもいくつかあるが――
「そうか、俺たちせっかく英語でやってるんだから……」
そう。そういった著名なバンドは英語詞で、イギリスやアメリカに進出することでさらに大きな成功を収めているのだ。
ルカたちは出身地がばらばらで全員が二、三ヶ国語以上を話すが、普段の会話と曲の詞は英語を使っている。それを活かさない手はない。
「ロンドンに?」
「ええ、しばらくロンドンに滞在して、プロモーションをやっていこうかと思うんだけど、どうかしら」
もちろん巧くいけばこっちに戻ったっていいし、ロンドンに新しく事務所を構えてもいいし……と、ロニーはルカたち五人の顔を見まわした。
「俺はいいと思う。賛成だ」
「うん、反対する理由はないかな」
「ロンドンだけじゃなくマンチェスターもいいと思いますよ!」
「ブライトンもぜひ滞在予定に入れといてくれ」
「俺は……旨い
「そんな理由? いいわ、決まりね。じゃ、あとで送っていくから今日はいったん解散しましょ。荷造りもしてもらわなきゃならないし……ああ、でも出発は明後日以降ね――」
ロニーは声のトーンを落として真顔になり、云った。
「明日は、ルネと最後のお別れをしなくちゃ」
吹いていた風が急に凪いだように静まりかえる。忘れていたわけではないが、直視しないようにしていたものが眼の前に降ってきたような感覚に、一瞬にして五人の表情が曇った。
* * *
静かで簡素な葬儀だった。
キリスト教徒が多くを占めるヨーロッパでは土葬が一般的なイメージがあるが、実際は伝統を大事にするカトリック派に比べ、解釈の違いなどから自由といわれるプロテスタント派に火葬が浸透している。
土地不足も原因らしく、イングランドはほとんどが火葬であるし、ここチェコ共和国の場合は国民のおよそ半数が無神論者ということもあって、火葬したあと遺灰を散骨する家族も多く、その場合墓さえ持たないという。
ルネの――クレツキ家の場合、火葬ではあったがちゃんと墓があり、牧師も呼び、数は少なかったけれど親族や知人が集まり礼拝堂で葬儀も行われた。しかし、それだけのことをきちんとやって
一通りの儀式が終わってから、参列者はホスポダと呼ばれる小さな居酒屋に集まることになっていた。が、ロニーとルカたち一行は、そこは遠慮させてもらうことにした。
ほとんどが親族の集まりだったし、自分たちが行っても隅で小さく固まって飲むだけになるのは目に見えていた――ルネの母親に哀悼の言葉を伝えたとき、自分たちは歓迎されていないのだと、はっきりわかってしまったのだ。おまえたちが悪い道に引き摺りこんで怖ろしい麻薬などをやらせたのだろうと、あの目はそう云っていた。
事実はむしろ逆で、バンドがクリーンな頃からルネはありとあらゆるドラッグに手をだしていたらしい。ユーリとテディがMDMAや
もちろんロニーは再三再四注意をしたし、リハビリ施設への入所も勧めたが、ルネはまったく聞く耳を持たなかった。しかしそんな話を遺族にしたところで、なにがどうなるというのだろう――ロニーもルカたちも皆、ただ黙っていることしかできなかった。
「……私たちは私たちで、酒盛りしましょうか」
ハイエースを運転しながらロニーがそう呟くと、ルカはすかさず「賛成」と声をあげた。明日の荷物は全員既にまとめて事務所に置いてあるし、解散してまた明日の朝集まるのも面倒な気がした。
「どうせこのスーツに着替える前に着てた服も、事務所に置きっぱなしだし」
「ああ、そうよね……そうだったわ。今までのどの衣装よりも高くついたスーツも脱いでもらわなくちゃね……」
「これ衣装兼ねてたのか? こんなの着ることってまずないだろ」
ほぼ黒に見えるダークグレーの、シングル四釦のスーツ。こんな恰好は学生のとき以来だと思いながら、ルカは襟を摘んで引っ張った。そして、ふと思いだしたかのように後ろでひとつにまとめていた髪をほどく。軽く頭を振ると、柔らかなライトブラウンのウェーブが肩まで広がった。
「衣装ってことにしなきゃ経費で落とせないでしょう。大丈夫、かっこいいわ。まるでビートルズみたい」
「俺もか?」
ドリューが笑う。ベネズエラ人の父親を持つ褐色の肌をしたドリューは、バンドを始めるまではサッカー選手としてプラハのチームに在籍していたそうだ。癖の強い長い黒髪を細く編みこみブレイズにし、高い位置でひとつに束ねている。メンバーのなかでいちばんお洒落好きな彼はバンド一の長身でもあり、スーツを着てもとても映える。
「俺もビートルズには見えないだろうよ」
ユーリもくっくっと笑いながら自分の前髪を弄った。ライトブラウンの地毛をブロンドに染めたユーリは、普段は短めに切った髪をパンクスのように立てている。さすがに今日は下ろしていたが、それでもやんちゃな悪ガキがおとなのチンピラに変わった程度にしか、印象に違いはない。
「そうね、まあいちばんビートルズっぽく見えるのはジェシかしら」
「ほんとですか? やった、なんか嬉しい」
そう云って無邪気に喜んだジェシは、バンドでいちばん歳下の弟分的な存在だ。ダークブラウンの髪は確かに〈ラバー・ソウル〉のビートルズくらいの長さだった。
「レイ・マンザレクじゃなくていいのか?」
「ビリー・プレストンも好きですよ!」
「ジェシはフェンダー・ローズの音が好みなんだな」
「ヘアスタイルの話だったんじゃないのかよ」
賑やかにロック談義などしながら事務所へ帰る道すがら、今日はしっかりと簡単に食べられるものと飲み物を忘れずに買いこんだ。手分けして荷物を抱え、ぞろぞろと階段を上がって部屋に戻る。
中に入って荷物を置いた途端、どっと疲労感が襲ってきた気がして、とりあえず飲み始める前に着替えもしたいし、シャワーを浴びようということになった。幸いバスルームがふたつあるので、全員が済ませるのに一時間もかからなかった。ジーンズやスウェット、オックスフォードシャツやTシャツなど、皆それぞれ好きな恰好に着替え、リラックスする。
リビングの真ん中にある大きなテーブルにスタロプラメンとコフォラ、買ってきたフレビーチェクやトラチェンカ、ウトペネッツや何種類ものチーズを並べていると、ロニーがキッチンから皿とカトラリーをとってきた。コーナーにあるイサム・ノグチのコーヒーテーブルの上には、トゥルデルニークの入った紙袋がぽんと置かれている。いつの間にかひとりでふらりと消えたテディが買ってきた、彼の好物だ。
偶々かもしれないが、明日から暫くは食べられないだろうチェコの名物ばかりになった。
「わあ、美味しそうですね!」
「しっかり食っとけ? 明日からはしばらく不味いと悪名高いイギリスのメシだからな」
「そんなに不味くないですよ! ……そりゃこっちほど美味しくもないですけど」
ジェシがぼそっと付け足した言葉に皆、声をあげて笑った。
ドリューが廻してきた皿とビールを受けとりながら、少しハイになっているかもしれない、とルカは思った。かつて暮らした土地だとはいっても、今度は違う。バンドで、みんなで音楽をやりに行くのだから。
マージービート、サイケデリックロック、ブルースロック、プログレッシヴロック、パンク、マッドチェスターなど、イギリスの音楽はいつの時代も世界に大きな影響を与えてきたのだ。ビートルズ、ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、ピンクフロイド、セックスピストルズ、ストーンローゼズ――うまくやればひょっとしたら、彼らと同じ高みにまで昇り詰めることができるかもしれない。その景色が見たい。そんなことは無理だなんて最初から諦めていたくはない。俺たちにならやれる、やらなければ。
「……ルネのためにも」
「ん? なにか云ったか? ルカ」
ユーリが自分に向けるその表情には翳りがない。少なくとも今は――おそらく彼も自分と同じように、これから向かう先に光があると信じているのだ、とルカは思う。
「いや、独り言。……ところで、ジャズやクラシックなんかのロック以外の要素っていい味付けになってるよな。ドラムだとチャーリー・ワッツとか、おまえの好きなジンジャー・ベイカーもジャズ畑だよな」
「おう、ジンジャーはアート・ブレイキーと叩き合いをやったことがあるんだが、これがすごいんだ……」
「そのビデオなら俺も視たことがあるぞ」
ドリューが話に乗り、ユーリは嬉しそうにそちらに向き直って話を続けた。
「視たのか! あれすげぇだろ、アート・ブレイキーがものすごいソロをぶちかましてるのを見ながら、やってくれるな、って感じで笑うだろ? そのあとのジンジャーのプレイもまたすごくて――」
「さっきからすごいしか云ってないぞ、ユーリ」
バンドメイトの死という事実は重いが、今はこうしていつものように、好きな話をして前を向いていたほうがいい。このほうがきっとルネも喜んでくれるんじゃないかと、ルカは止め処なく喋るユーリを眺めて思う。
そうして何気無く隣を見やると、テディが笑みを浮かべて自分を見ていた。
「なんだ?」
「うん。……うまくいくといいな、ルネのためにも」
思いがけないタイミングで云われて驚いた。
思わず破顔して手を伸ばし、テディの髪をくしゃっと撫であげる。ルカはそのまま頭を引き寄せ、返事のかわりに口吻けた。