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Permanent Exclusion 「父と息子」

 前方を走っているベントレーは、どうやらノンストップでバーミンガムまで帰るつもりのようだった。

 学校を出てからそろそろ一時間半ほどが経過し、車はひたすら木々の緑と枯れ草の色しか見えない殺風景な高速道路モーターウェイを走り続けている。ルカはふと、こっちは親子で喋ったりしているから長距離のドライブもそれほど疲れはしないけれど、テディは車のなかでずっと押し黙ったままなのではないかと想像した。

 テディが編入してきたとき。校長室で彼に父親がいないなどと無用なことをぺらぺら話していたらしい使用人が、今あのベントレーを運転しているのだとしたら――もともとあまり好く思われてはいなかったらしいテディが、こんなことになって戻ってくるのを歓迎されるとは思えない。口を利きもせず黙って運転だけしているならまだいいが、ちくちくと厭味を云われたりはしていないだろうかと心配になる。

 ルカが案じているのはそれだけではなかった。バーミンガムの家に着いたらテディは、今度はちゃんと祖父に迎え入れてもらえるのだろうか。ほんの数日だけ家に置いて、またどこか外国の学校に送られてしまったりはしないだろうか。もしもそんなことになってしまったら。騒ぎを起こしたもうひとりと知って、行き先を教えてもらえなかったりしたら、もう――

「どうしたルカ。なんか怖い顔になってるぞ」

「ん? ああ……」

 ルカは肩の力を抜こうとするように、ふぅと息を吐いてシートに凭れた。

「……おやじ、俺さ、別にテディがバーミンガムで暮らしていけるんなら、それでもいいんじゃないかって、思わなくはないんだよ」

「うん?」

「でも……偶にちょっとずつ聞いた感じだと、テディのじいさんってのはろくにテディと話をしたこともないし、一緒にメシも食ったことがないし、とにかくテディのことをまったくかまったことがないんだよ。そんなところへ帰って……まだテディがまともないい子ってやつだったらなんとかなるのかもしれないけど、俺がこんなこと云うのもあれだけど、あいつ、結構いろいろ滅茶苦茶なところがあって……しょっちゅう、俺を怒らせたりもしてたからさ。絶対、やっていけないって思うんだよな」

 ふむ、とクリスティアンは黙ってルカの云うことを聞いている。

「あんなことがあって、テディのじいさんがおやじみたいに飛んできてたんなら……、ちゃんとテディのことを心配したり、叱ってくれるようなじいさんだったら、俺もきっとこんなにもやもやしないんだ」

「愛情不足、かな」

「え?」

「あの子は、何度もおまえを怒らせたんだろ?」

「うん」

「で、おまえはそのたびにあの子を叱ったんだろ?」

「叱るっていうか……まあ、怒ったよ。二度とやるなって」

「だから、あの子はおまえを必要としてたんだ」

 怪訝な顔で、ルカは父の横顔を見つめた。

「……どういうことだ?」

「子供ってのは、まあ凄まじく手がかかる生き物でな」

「は?」

 話の脈絡が読めずルカが首を捻るのを見て、クリスティアンは口許に笑みを浮かべ、続けた。

「小さい頃なんてすぐ泣くし我が儘だし、一瞬でも目を離すと死んでもおかしくないような危ないことをやらかすし、何度云ってもやっちゃいけないことをやる。物を投げたり、噛みついたりな。親は当然、何度も何度も子供を叱る。叱って、ときには叩いて、痛い目もみせて教えるんだ。なのに子供はそれでも悪さをやめない。なんでかわかるか」

「え……」

 今、どうして父がこんな話を始めたのかと、ルカは考えた。テディがろくでもないことをやり、それに対して自分が怒り、テディは泣いて謝りながら縋ってきて――

「かまってほしい、とか?」

「うん。まあ、そういう場合もあるんだが……子供はな、そうやって親の愛情を測ってるのさ。顔色を見ながらわざと飲み物を零したり、絵本を破ったり……どこまでのことがゆるされて、どこからがだめなのか善悪の学習もしながら、自分がどんなことをしても、ちゃんと親が抱きしめてくれるかどうかを確かめてるんだ」

「……テディもそうだって云うのか?」

「さて、どうだかな――おっと、高速道路から降りるぞ」

「もうバーミンガム?」

「ああ」

 複雑に縺れる高架橋を右手に見ながら、車は左に大きくゆったりとカーブしている運河沿いの道を進んだ。


 バーミンガムの街はお世辞にも美しいという印象ではなかった。古く無骨な建物と、新しいモダンなものとが混じりあって、雑然とした雰囲気だった。

 建設中の巨大な建造物もいくつかあり、あちこちでクレーンなどの建設機械が動いているのが見えた。工業都市ということもあって治安もあまり良くないのだろうか、其処彼処そこかしこにスプレーの落書きが見え、さらに景観を損ねている。

 ルカは前を走る青いベントレーをじっと目で追いながら、同時に視界に入る周りの景色に、あんまり住みたい感じのところじゃないなという感想を抱いた。

 だがそれも街の中心地を過ぎるまでのことで、ベントレーについて車を走らせているうち景色にはだんだんと緑が多くなり、道路の両側に高い塀や大きな屋敷が見え隠れするようになっていった。それも不思議なことではなかった――確か、テディの祖父は元投資銀行家バンカーだったはずだ。この辺りから先は高級住宅街なのだろう。

 何度か細い道を折れ、ロンドンの学校を出てからおよそ二時間半。テディを乗せた青いベントレーはようやく大きな樫の木と生け垣に囲まれた、私有地らしき細い小径を入っていった。

 クリスティアンはその小径をやり過ごし、少し先で車を停めた。振り返ると見える鬱蒼とした木々の向こうには、少し色褪せた煉瓦造りの大きな屋敷が覗いている。

「あの家らしいな。じゃあなルカ、頑張れよ」

「は?」

 涼しい顔をしてそんなことを云うクリスティアンに、ルカはきょとんとして聞き返した。

「じゃあなって……え?」

「俺はブリストルへ帰る。ここからなら一時間半ほどで着くからな。じゃ、あの子によろしくな――」

「待て待て待て! ここに俺を置いてってどうするんだよ、せめて俺がテディに会えるまで待っ――」

「ばかかおまえは。俺がおまえの駆け落ちに付き合ったら、誘拐になるじゃないか」

「駆け落――なんでそうなるんだよ、俺はまず話すことが目的だって云ったろ!? それに荷物! 学校に戻って荷物を取ってこないと――」

「いやだよ面倒臭い。ここからまたロンドンまで戻ってそれからブリストルに帰るなんて疲れるよ。大丈夫、荷物なんか明日にでもまた誰かに取りに行かせりゃいいさ。ちゃんと家に保管しておいてやるから安心しろ」

 どうやら冗談ではなく、本気で自分をここに置いていく気らしい。ルカは不意にもう息子でもなんでもない、勘当だと云った母の声を思いだした。

 もうブリストルの家には帰れない。母の顔を見ることも、あの口喧しい声を聞くこともない。それだけでは足りず、今また父までが自分を置いて、行ってしまうというのか――

「なんて顔してんだ」

 ふっと笑ってクリスティアンがルカの頭をくしゃっと撫でた。「しっかりしろよ。おまえはもう、護る側に立ってるんだろ? いつまでも俺らに甘えててどうするんだ。そんなことじゃ、あの子に頼ってもらえないぞ」

 護る側と云われて、ああそうだ、そうなんだと思うと同時に――なにひとつ苦労も悩みもなく今まで育ってきた自分が、どれだけ家族に護られていたのかと胸が熱くなる。

「おやじ……俺……」

「まあ、そんなに深刻になるな。誰だっていつかは親離れするんだ。おまえはちょっと予定外に早まっただけさ。それに、なにも俺はおまえを見放すわけじゃない。おまえがどこで誰といようと、なにをしてようとおまえは俺の息子だし、たとえ人殺しになったって味方さ」

 一言多いよ、と思いながら、ルカは少し寂しげに微笑んだ。

 ドアを開けて車を降り、反対側にまわると、運転席のウィンドウを開けてクリスティアンがこっちを見た。

「元気でな、ルカ。……もしも迷ったときは、正解じゃなく間違いを見極めろ。おまえにはそれができる。おまえなら大丈夫だ」

 滅多に云われたことのないそんな言葉を聞いて、思わずまた涙が滲む。

「うん。……じゃ、おやじ……車、あんまり飛ばすなよ」

「ああ。腹が減ったからインド料理でも食ってから帰るわ。じゃ」

 クリスティアンはそう云ってウィンドウを閉じると、低くエンジンを唸らせて車を発進させた。

 木洩れ日を映していた黒い車体が豹のように、あっという間に走り去っていくのを見送り、ルカは信じられないという顔をした。

「俺だって腹は減ってるよ……。ったく、なんて親だ」

 クアトロポルテが走り去った方向をしばらく泣き笑いの表情で眺めたあと、ルカは意を決したように車道を渡り、生け垣に沿って歩きだした。

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