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Summer Holidays 「隔り」

 テラス側のダイニングで朝食を済ませた頃、アドリアーナが顔をだした。なんだめずらしい、と云っただけで朝の挨拶さえしないルカを一瞥し、テディはなんとなく慌てて席を立ち、おはようございますと一礼した。

 アドリアーナはテディに坐るよう促すと、「おはよう、テディ。この家で過ごすことにはもう慣れた?」と尋ねた。

「は、はい。とてもよくしていただいて……食事も、すごく美味しいです」

「そう、よかった。ルカはちょっと気の利かないところがあるけれど、これからもおねがいね」

「え……いえ、こちらこそ」

 あらためてなんなのだろうとテディが小首を傾げ、ルカと目を見合わせていると、アドリアーナは云った。

「今日のお勉強はお休みよ。月曜からまた違う先生が来るので、そのつもりでいてね」

 それを聞き、テディは驚いてアドリアーナを見た。が、アドリアーナはもう伝えるべきことは伝えたといった様子で、ふたりに背を向けてダイニングから出ていってしまった。

 少し迷ったが、テディはがたんと椅子を蹴って立ち、アドリアーナを追った。

「テディ? どうした――」

 背後でルカの声が聞こえたが、テディはかまわずダイニングを出、ドアの外で振り返ったアドリアーナに向き、立ち止まった。

「あ、あの……先生、違う人って……それは――」

「テディ」

 アドリアーナはテディに一歩近づき、抑えた声で云った。

「あの子は……ルカは、自分が害意を向けられているなんて思いもしないようなところがあるの。気づいたら気づいたで、真っ向から批難する子でもある。それによって自分の身が危険に晒されるとか、物事がややこしくなるとかそういう計算はできないみたいでね。あの子のそういう真っ直ぐなところは、親としては長所だと思ってはいるけれど……やっぱり心配なの」

 アドリアーナは苦笑した。

「だから、これからもよろしくね、テディ。あなたのようなお友達がいて、本当によかったわ。ここにいるあいだは家族と思って、なんでも云ってちょうだいね」

 テディはアドリアーナの言葉を聞き呆気にとられていたが、すぐに気を取り直し、慌てて云った。

「あ、あの――どうして、おばさんもイヴリンも……俺なんかの云うことを信じてくれたんですか。ふつう考えすぎとか勘違いだと思うんじゃ……。それに、フィルは知り合いの息子さんだったんでしょう? なんで――」

「まあ、おかしなことを云うのねテディ。それに、自分のことを『なんか』なんて云うものではないわ。……あなたは私の大切な息子の友達で、あの子を心配して話をしてくれたのでしょう。それを信じることのどこが不思議なの?」

 テディはなにも云えなかった。アドリアーナは続ける。

「親が――おとなが子供を信じるのも、危険から護るのも当然のことよ。それに心配しなくても、フィリップにはこちらの事情だと適当な理由をつけて辞めてもらったから、なんの問題もないわ。だからテディ、あなたはもうなにも気にしなくていいのよ」

 呆然と立ち尽くしていたのはいったいどのくらいだったのか――気がつくと既にアドリアーナの姿は見えず、テディはダイニングから出てきたルカに名前を呼ばれ、ようやくはっと我に返ったのだった。





 以前ルカが云っていたとおり、ブランデンブルク家にはいろいろな楽器がたくさんあった。

 リビングの隣の部屋にはグランドピアノとアップライトピアノが鎮座し、壁際にはコントラバスとチェロが並んでいた。リビングとのあいだの大きな両開きの扉を開放し、ここでリサイタルパーティをやったりするのだとルカは云った。他にもルカが小さい頃習わされていたというヴァイオリンや、ザイロフォンとマリンバ、フルート、クラリネットなどがあり、テディは興味深くそれらを眺めた。

 また別の部屋にはクリスティアンが西アフリカやインドから土産に持って帰ってきたというジャンベやバラフォン、シタール、タブラ――その他、見た目だけでは楽器かどうかすらわからないようなものが、いくつも飾られていた。

 シタールと聞いて、テディはこれがそうなんだ、初めて見たと感激した。

「鳴らしてみたい?」

 シタールの前から動かないテディに、ルカはそう尋ねた。


 シタールと聞いてロック好きが思いだすのは、やはりビートルズのジョージ・ハリスンとローリングストーンズのブライアン・ジョーンズだ。六〇年代半ば、ビートルズが〝Norwegian Woodノーウェジアン ウッド〟、ローリングストーンズが〝Paint It, Blackペイント イット ブラック〟で使用してから、シタールは忽ち欧米でもよく知られた楽器になった。

 他にもヤードバーズやキンクスなども使用したことがあり、インド音楽など聴くことがなくても、テディとルカが興味を持つのは当然のことだった。


「いいの?」

「いいよ。でも、チューニングができないんだ。なんか、すごく難しいらしいんだよ。だからちょっと鳴らしてみて、ああこの音だって思うくらいしかできないけど」

 ルカにそう云われ、テディは壁に立てかけられたままのシタールにそっと触れ、十九本もある弦の一部を指で撫でるようにはじいてみた。――独特な響き方をする不思議な音が、部屋の空気を震わせる。

「すごい、本物だ……」

 そのあとふたりはファーストフロア二階へ上がり、オーディオルームでルカのコレクションだというヴァイナル盤を聴いたりして過ごした。

 厚い棚板を使ったしっかりとしたラックには、懐かしいタイプのステレオコンポーネントシステムが設置されていた。即ちアンプリファイア、レコーダー、チューナー、CDプレイヤー、ターンテーブルが異なるメーカーの製品を混在させて組まれ、大きなラウドスピーカーがそのラックの両側で存在感を放っているというものだ。

 リスニングポイントなのであろう、ちょうど部屋の真ん中辺りには革張りのチェアとオットマンが置かれている。そして後ろの棚には、数えきれないほどのヴァイナル盤とCD、そして音楽関係の書物が並べられていた。ほとんどはルカの父、クリスティアンのものだそうだ。

「でも最近じゃ、あの人がここでゆっくり音楽聴いたりしてるの見たことないんだけどな。ここに越してきた頃はよく一緒にこの部屋へ来て、いろいろ聴かされたけど……」

「一緒に? どんなのを聴いたの」

「やっぱりクラシックと、あと映画音楽も聴いたかな。なんか旧い映画のテーマ曲集とか、あの人結構好きでさ。〝第三の男〟とか、〝太陽がいっぱい〟みたいなやつ」

「〈太陽がいっぱい〉は知ってる。パトリシア・ハイスミス原作の映画だよね」

「俺はそのハイスミスさんを知らないって」

 そっか、と笑って、テディは棚の中のヴァイナル盤を一枚一枚引きだして眺めているルカを見つめた。

 これほどの数ではないが、かつて自分が暮らしたところにもこんなふうにヴァイナル盤があった、とテディは思いだす。そのほとんどがジャズで、幼い頃のテディは母が家事をしながら音楽をかけ、それを口遊むのを聴くのが大好きだった。

 ぐるりと部屋のなかを見まわし、父親と一緒に音楽に聴き入る幼いルカを想像する。まるで友人同士のように話す父親、じゃれるように纏わりつく可愛い双子たち、少々口煩そうだが息子のことを深く案じている母親――ルカの周りには愛が溢れている。イヴリンも、あの白い犬たちも――テディは目を細め、優しく笑いかけてくれる母の顔を思い浮かべた。


 自分も母に愛されていた――少なくとも、あんなことがあるまではテディもそれを信じていた。だが、救けを求めたいのに言葉にできないでいるうちに、いつしかその葛藤が何故気づいてくれないのかという悲憤に変わった。

 昼夜逆転している生活のなかで家事と仕事に追われ、その憂さを晴らすように男と飲み明かす母。自分が成長するにつれ、母のそんな姿はあまり見たくない、だらしのないものとして映るようになった。

 酒に酔い、男に撓垂れかかる母を見てテディは、ひょっとしたら母にとって自分は邪魔な存在なのではないかとまで思った。気づいてくれないのは、自分のことをたいして気にかけていないからではないか。自分はひょっとしたら、愛されていないのではないかと――

「そろそろ階下したへ行こうか。喉渇いたろ」

「ああ、うん……」

 ルカは優しい。屈託がなくて真っ直ぐで、思っていることが素直に言葉や顔に出る。それは、ああやって家族に大切に育てられ、信頼関係ができているからなのだろうなと、テディは思った。

 ルカなら、自分がああしてフィルのことを告げずとも、なにかあってルカが気づいた時点で問題を解決できたのではないかという気もした。アドリアーナも云っていた。ルカならなにをするんだと真っ向から批難して、すぐにアドリアーナなりイヴリンなりに報告しただろう。


 オーディオルームを出てルカと一緒に階段を下りながら、テディはずっと考えこんでいた。

 自分とは違う。育った環境も、性格もなにもかも、ルカとはまったく違う。否、それとも。子供だったからだろうか。もしも今、十一歳の頃にあったあんな出来事に初めて自分が見舞われたなら、イヴリンに話したように母に打ち明けることができたのだろうか。ルカも、されていることの意味もなにもわからない年頃であったなら、自分と同じように被害に遭っても誰にもなにも云えずにいるのだろうか。ルカのように悩みなく過ごせていて、母ともいい関係であったなら、あんなことがあってもすぐに救けを求めることができたのだろうか――。

 頭のなかでアドリアーナの言葉が繰り返し聞こえていた。親が子供を信じるのも、危険から護るのも当然のこと――ぐるぐると止まらない思考を振りほどこうとするように、テディは額に手を当て、頭をゆるゆると振った。

「……テディ? どうし――」

 ――翻ったドレスの裾、レース編みのショール、長い黒髪。アドリアーナの言葉が遠ざかるヒールの音にかき消され、目に焼きついて離れない母の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。それは、テディが目にした生きている母の最後の姿でもあった。

 何故、どうして。どうして自分を信じ、救けてくれなかったのか。息子が自分の男を寝盗ったと思ったのだろうか。合意の上に見えたのだろうか。泣き叫んでいなかったから? 殴られて顔を腫らしていなかったから? そうかもしれない。無理もない。まさか、まだ十二にならない頃から二年以上も犯され続けて、もうすっかり泣くことも叫ぶことも忘れてしまったなんて、わかるわけが――

 二年以上も――

 気づいてくれなかったのは、やはり愛されてなかったからなのか――

「テディ!!」

 テディはふっと意識が遠くなるのを感じ、がくりと膝から崩れたかと思うと、そのまま階段を転がり落ちた。

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