日曜礼拝を終えて自室に戻ると、メイトロンが部屋を掃除したらしく、部屋の中程にある布張りのチェアの位置が変わっていた。いつもの角度に置き直しふとドアのほうを振り向くと、自分のワードローブに入りきらず、もうひとつのほうに放りこんであったコートが取りだされ、ハンガースタンドにかけられていることに気づいた。
そうだった――窓の外で五月の風に揺れる柳の枝を眺めながら、十四歳のルーカス・ダミアン・ルイス・ブランデンブルクは溜息をついた。
その名のとおり、大きな
数日前から耳にはしていた。こんな中途半端な時期に編入してくる生徒はめずらしく、その所為か外国から来たとか、いやイギリス人だとか中国人との混血だとか、なにが本当なのか嘘なのかわからない噂話がアッパースクールの生徒を中心に広まっていた。
日曜礼拝のあとは、いつもお決まりのように家族に手紙を書くようにと奨められる。待っている時間を潰すためにデスクに向かい便箋を広げペンを手にしていたが、書くことなどなにも思いつかなかった。せめて新しいルームメイトが来てからなら、書きようもあるかもしれないが――そんなことを考えていると、こんこんとノックの音がした。
はい、と返事をするとかちゃりとドアが開かれ、
「おはようブランデンブルク。お待ちかねのルームメイトを連れてきたよ」
ルーカスが立ちあがると、ハーグリーヴスがすぐ傍に立っていたらしい少年を部屋に入るよう促した。
姿を現したその少年は、黒いリュックサックを手に持ちダッフルバッグを肩から下げ、大きなラゲッジを引き摺っていた。黒と見紛うほど濃い紺のブレザーに白いシャツ、ロイヤルレジメンタルのタイ、ダークグレー系のグレンチェックのトラウザーズ――自分と同じ制服に身を包んだその少年は、ラゲッジを壁際に置き、その上にダッフルバッグを積みながらちら、と部屋のなかを見まわした。
「紹介しよう、セオドア・ヴァレンタインだ。ヴァレンタイン、彼はこの部屋で今日から君と一緒に生活をすることになる、ルーカス・ブランデンブルクだ。成績はいつも上位で真面目な、人当たりのいい奴だ。ここでの生活についていろいろ教えてもらいなさい」
ルーカスは、背中を押されるようにして部屋の中程に足を進めた新入りのルームメイトに歩み寄り、「よろしく。同じ寮のなかにファミリーネームがルーカスの奴がいてややこしいんで、俺のことはルカって呼んでくれ」と自己紹介しながら、すっと右手を差しだした。
しかし、その手は握り返されなかった。眼の前に立つルームメイトはルーカス――ルカの顔を見ることもなく、ただ俯いて黙りこくっている。妙に空いてしまった間と、引っこめるタイミングを掴めないルカの右手をなんとかしようと思ったのか、ハーグリーヴスが困った顔で苦言を呈した。
「……ヴァレンタイン、君が人見知りなのはいい加減わかったが、ここの生徒になった以上は挨拶もろくにできないじゃ困る。ちゃんと相手の目を見て握手に応えなさい」
ハーグリーヴスに厳しい口調で云われ、ヴァレンタインと呼ばれたその少年は、ようやくずっと伏せていた顔をあげた。
少し癖のある
思わず一瞬見蕩れてしまい、緊張感を失って下げかけていた手を再度伸ばすと、ヴァレンタインはルカの顔から視線を落とし「……よろしく」と、囁くような声で云いながら軽く手を握った。そしてまた、すぐに俯いてしまった。
その様子を見てとりあえずルカは安心した――おとなしそうだったからだ。それに、噂とはなんといい加減なものかとも思った。髪の色といい顔立ちといい、どこにも中国人との混血だなんて要素は認められなかった。いったいどこからそんな話が出たのだろう。
「……まあ、こんな感じだが……ブランデンブルク、これからいろいろ教えてやってくれ。ヴァレンタイン、わからないことがあったら彼か、さっき紹介した
じゃああとは頼む、とハーグリーヴスは人見知りの新入りを残して、部屋を出ていった。
「――すごい大荷物だな、なにか手伝おうか?」
今日から生活を共にするルームメイト――ヴァレンタインは、黙々とラゲッジから出した服をワードローブにしまっていた。
ルカはその作業をなんだか手が遅いなあ、と思いながら見ていたが、その原因はどうやら一枚一枚出すごとにいったん広げて、なにか確かめているような動作をしている所為だとわかった。
よく見てみればすべてが真新しいもののようだったし、ひょっとするとなにが入っていたのか自分でも知らなかったのかもしれないと、ルカは推察した。この学校を選ぶような家の子息なら、それは別に不思議なことではない。実際、自分で荷造りをしてきた生徒などほとんどいないだろう。ルカもそうだった。
そして大荷物だったのは、今の時期に着る春物とこれから必要になる夏物以外に、秋冬に着るニットのカーディガンや厚手のコート、おまけにブーツまで入っていたからなのだとわかった。七月の長い休みには寮を出なければならず、そのときは家に帰るだろうから一年分の衣服をすべて今回持ってくる必要などないのに――要領が悪い使用人もいたものだと、ルカは服が入りきらず溢れかえって困っている様子のヴァレンタインに、もう一度声をかけた。
「ここのワードローブ小さいんだよな。そんなの、とても入らないだろ? しばらく要らないものはそのラゲッジに入れたまま、ベッドの下にでも置いておくとかすればいいよ」
ブーツなんかはそこに置いておいても邪魔にならないし、と続けると、ヴァレンタインは困った顔のままこっちを見て、小さく頷いた。お、反応があった、とルカは気を良くして、ちょっと手伝ってやるかと椅子から立ち、ワードローブのほうへと近づいた。
「なに?」
まだ半分も距離を縮めていないうちに、ヴァレンタインが強張らせた表情でそう訊いた。まるで、尻尾を膨らませている野良猫のようだった。少し驚いて、なんだこういうときは自分から喋るんだ……などと思いながら、ルカは「いや、やっぱりちょっと手伝おうと思って」と答えた。
「いい」
その短い言葉は遠慮でも手伝わなくていいでもなく、来なくていい、と云っているように、ルカには聞こえた。
そのまま椅子に戻るのもなんだか間抜けに感じられ、ルカはついでのようにキャビネットのなかから円形の缶を取りだした。そして部屋の真ん中にある丸いテーブルの上に置き、年代物の布張りのチェアに腰掛ける。
「終わったら声をかけてくれ。まだ制服も着たままだし、構内を案内するよ……チョコは好きか?」
ルカは黒と金色の細かな模様が描かれた缶を開け、赤いアルミ箔で包まれたハート型のそれをぽいっとヴァレンタインに向かって放った。驚いたように目を丸くしながらうまくキャッチし、ヴァレンタインは手のなかのそれを暫し見つめ――ルカに向かって投げ返した。反射的にぱしっと受けとりながら、さすがにルカが少しむっとした顔になる。それに気づいてか、ヴァレンタインは俯いて独り言のように呟いた。
「……マルツィパン、嫌いなんだ。サモシュはクッキーのほうが旨いし、チョコならシュトゥメルのほうが好き」
「え……」
サモシュもシュトゥメルもハンガリーの老舗の名前である。有名ではあるが、なんだか妙に詳しいなと思い、ルカは「よく知ってるな。よほど甘いものが好きなのか、それともハンガリーから来たのか?」と訊いてみた。
予想はしていたが、返事はなかった。気にせずルカは続けた。
「俺はハンガリー出身なんだ……十歳までセゲドにいたんだよ。今は家族もみんなブリストルにいるけど……好物だったから、しょっちゅう買っといてくれるんだ」
セゲドと聞いてヴァレンタインは冬服を畳んでいたその手を、一瞬止めたように見えた。しかしやはり話は続かず、ルカはやれやれと飛んで戻ってきたマルツィパンの包みを捲り、ハート型のそれに齧りついた。
ヴァレンタインがワードローブを閉めて、ごろごろとラゲッジを押してきた。どうやら服はなんとか収まったらしい。さっきルカがアドバイスしたとおりラゲッジをばたんと倒してベッドの下に押し込むと、ヴァレンタインはその上に腰掛け、ふぅと息をついた。
「済んだか? じゃあちょっと、学校のなかを一廻りしてくるか……あ、ここの部屋は鍵をかけられないから、財布とかは自分でちゃんと持ってたほうがいいぞ。それ以外に貴重品とかがあるんなら、寮監に預けるといいよ」
ルカがそう云うと、ヴァレンタインは眉をひそめてルカを見た。
「鍵……ないの? 誰も来ない?」
「え、来るよ。朝と夜、ハーグリーヴスと監督生が点呼にまわるし、メイトロンは毎日洗濯物を回収してアイロンを掛けたやつを戻しに来るし、週に二回は掃除にも入ってくるよ」
それを聞いてヴァレンタインが厭そうな――否、不安そうな顔をしたように見えたので、ルカは慌てて付け足した。
「でも、他の寮生が勝手に入って荒らしたりするようなことはないよ。よっぽど親しい奴なら勝手にノートとか持ってくこともあるかもしれないけど……少なくとも俺にはそんな横着な友達はいないよ。大丈夫」
そのフォローで納得したのかどうかはわからなかったが、ヴァレンタインはそれきり黙って、また俯いてしまった。
なんだかよくわからない、陰気な奴だなあとルカは頭を掻いた。
これは引き摺ってでも案内してまわって、どこになにがあるのかさっさと覚えてもらわなければ、明日からもまたお守りしなければいけなくなってしまう。それはちょっとごめんだと、ルカは缶の蓋を閉めるともう一度声をかけた。
「さ、行こう。案内するからいろいろ見てみなよ……ここは天国かもしれないし、地獄かもしれない、なんてね」