「おい! 船を横に付けろ」
荒木が操舵手に向けて叫んだ。操舵手が船を右舷側に付ける。
「人の船に勝手に乗ろうとするんじゃねぇよ」
海斗が激高した。しかし荒木は歯牙にもかけず、船に乗り込んでくる。
「聞いてんのかよ!」
海斗が荒木の胸元を掴んだ。
「俺に触るんじゃねえ。あの女がどうなっても構わねえのか」
荒木が海斗の腕を掴んで捻り上げた。
「多少は腕力に自信があるようだが、上には上がいるってことを教えてやる」
そう言って、荒木は捻り上げた海斗の腕を勢い良く斜め下方に振り降ろした。海斗の身体が甲板へ叩きつけられる。
「海斗―」
海斗が苦悶の表情を浮かべている。
「ゴミ屑が! てめえは邪魔なんだよ」
痛みで床に突っ伏したままの海斗の顔面を荒木が何度も蹴り上げた。この獰猛さは僕らにはない。荒木と遣り合うのは部が悪い。
「おい、絵を渡せ」
荒木の血走った眼を見て肌が泡立つのを感じた。肉食獣でもこのような目はしないのではないか。荒木が侮蔑を含んだ冷淡な目でこちらを見ている。こいつの目的は、もはや絵だけではない。
波が船を押し上げる度、船体が大きく跳ね上がった。しかし荒木は歩を緩めず、じりじりと差を詰めてくる。この窮地を抜け出すにはどうすれば……。周囲は海に囲まれ、逃げ場はない。
荒木が海斗の横を通り過ぎた時、海斗の上体がぴくりと動いた。荒木の背後で海斗がゆっくりと立ち上がる。
「そんなに欲しいのならあげるよ」
海斗はその場に立っているのがやっとだ。荒木との距離を詰めることができずにいる。
「何だ? やけに素直だな」
「もう、お手上げだ」
「ハッハッ。やっぱり、おまえはダメだ。度胸も野心もねえ。呆れて物も言えねえよ。お前なんかに生きている価値があるのかよ」
この絵を渡したところで、僕らが助かる見込みはない。あいつは絵を手に入れた瞬間、必ず態度を豹変させる。ここは覚悟を決めるしかない。
「聞こえなかったのか? 絵を寄越せと言っているんだ」
荒木が語気を強めた。
諦めた素振りを見せて、荒木の足元に向けてキャンバスを滑らせた。キャンバスは荒木の足元を通過して船の縁にぶつかって止まった。
「どこ投げてんだよ、てめえは」
荒木がキャンバスを拾おうと身体を屈めて左前方に手を伸ばした。
―─今だ!
荒木目掛けて、勢いよく体当たりをした。揺れる船体も相まって、荒木が大きくバランスを崩す。後方によろめいた荒木が必死に体勢を立て直そうとするが、そこに海斗が割って入った。海斗が荒木の首元を掴んで海側へ投げ飛ばした。
「楓月、そっちを持ってくれ。このまま海に落とすぞ」
船の縁に腹部を叩きつけられた荒木の身体が『く』の字に折れ曲がっている。僕らは荒木の両脚を掴んで抱え上げた。このまま海に落として、操舵手が荒木を助ける隙に香流甘を助け出して逃げよう。
荒木は海に落ちるのを防ごうと、船縁を掴んで必死に藻掻いている。しかし無駄だ。この体勢では、どうすることもできない。荒木の顔は海面に向けられている。
「楓月、あと少しだ。あと少しでこいつを海に落とせるぞ。荒木さんよ。ゴミ屑はお前の方だったな」
海斗が荒木に近づいて、更に脚を高く持ち上げた。
「お前も道連れだ」
突如として荒木の腕が目の前に現れ、海斗の髪を掴んだ。荒木が身体を反転させて、上体を持ち上げたのだ。
海斗が荒木に引きずられて海に落ちて行く……。
「おい、お前、そんな女どうでもいいから、こっち助けろよ」
荒木が操舵手に向かって叫び続けている。僕の存在を忘れてしまったかのように……。あいつは僕には何もできないと思い込んでいる。
「荒木! 無視するんじゃねえよ!」
叫ぶと同時に荒木に飛び掛かった。荒木の側頭部に膝が突き刺さる。
「海斗、早く船へ」
荒木から海斗を引き剥がして、荒木の胸部を蹴り飛ばした。荒木が遠く離れて行く。これだけ高い位置から打撃を加えたのだ。ダメージはあるはずだ。
海斗が息も絶え絶えに船に近づいていく。
天候は荒れ狂い、海は激しさを増している。頭上から次々に襲い掛かってくる大波に叩きつけられ、浮上しているのがやっとだ。荒木はどこに行ったのか、波に遮られて確認することができない。
甲板に立った海斗が浮袋を投げ入れた。しかし浮袋を掴もうとしても中々、掴むことができない。
「楓月、気を付けろ! 横だ。横に荒木がいる」
「てめえ、ぶっ殺してやる!」
荒木の拳が顔面を貫いた。鮮血が滴り、上体が紅く染まっていく。
「おい、早く助けろよ!」
荒木が再度、操舵手に向かって叫んだ。しかし操舵手は正面を見据えたまま微動だにしない。
「聞こえないのか! 金なら幾らでも弾んでやる」
操舵手が振り向いた。あからさまに見下した目をしている。操舵手は舌打ちをしたかと思うと、そのまま船を走らせて遠くに去って行った。
荒木が操舵手に向かって喚き散らしている。荒木を裏切ったのか……。
「どいつもこいつも、ふざけやがって。お前は逃げるんじゃねえぞ」
後方から荒木に両肩を掴まれた。荒木の全体重が肩に圧し掛かり、身体が水中に沈められていく。バタつかせた手足の動きが止まる頃、髪を掴まれて引き上げられた。それが幾度ともなく繰り返される。
「おい。ロープを引っ張れよ。こいつが死んでも良いのか」
荒木が船上にいる海斗に向かって叫んだ。
このまま船に近づいても、先に船に上がるのは荒木だ。命綱は取り外され、僕は海に取り残されるだろう。もう僕はどうなっても良い。だけど、この絵だけは絶対に渡さない。
「海斗、絵を捨てて」
「本当に良いのか」
海斗が困惑した表情を浮かべている。
「良いんだ。もう父さんからは大事なものを学んだから」
「お前ら、それがあったら大衆の馬鹿どもから金を巻き上げることができるんだぞ。そんなことも分からねえのか」
「うっせぇんだよ。金、金ってよ」
そう言って海斗は空に向けてキャンバスを放り投げた。風に吹かれたキャンバスが宙を舞う。
「何してんだ、てめえは!」
荒木がキャンバスを掴もうと懸命に手を伸ばした。
海斗が手に何かを持っている。あれはオールだ。海斗はオールを空高く持ち上げると、そのまま垂直に振り下ろした。オールが荒木に目掛けて振り下ろされる。荒木に避けるすべはない。キャンバスに向けられていた荒木の顔面をオールが直撃した。鼻から夥しい量の血が吹き上がる。
今度こそ、終わりだ。
荒木が濁流に飲み込まれていく。
早く船に戻らなければ……。もう体力が限界に近い。
遠くから海斗の叫ぶ声が聞こえる。声がする方に向かって必死に手足を動かすが潮の流れは速く、前に進むことができない。
空を仰ぐと、波の先端が上空を少しずつ覆い隠していくのが見えた。今までで一番大きな波だ。
光が…消えていく……。
僕の人生は始まりもしなかった。